中国を集める64

奈良大学教授  森田憲司

亜東印画輯
   以前、この連載の第10回前後にも写真の話を書いた。その中で、『亜東印画輯』という本を紹介したことがある。最近機会があって、この写真集を奈良大学で購入した。といっても、大正13年(1924)から昭和17年(1942)までという長い期間刊行されていた写真集だから、もちろん全部ではない。第29回頒布分から76回頒布分まで、欠落もあるが、500枚以上の写真が台紙に貼って綴じこまれている。時期によって頒布のペースが異なるかもしれないので、正確とは言えないが、昭和のはじめ、西暦でいうと1920年代の後半の時期のものだとわかった。
   
『亜東印画輯』については、何年か前に東北学院大学が約千点を購入して、その目録を公刊しているので、どのような写真が頒布されていたのか、おぼろげながら知ることができる。今回購入したものをそのリストとつきあわせてみると、頒布の回数としては完全に重なっているが、糊がはがれて行方不明になっている写真があったりして、お互いに欠落が生じているようなので、くわしく比較する必要がありそうだ。
   写真はセピア色に変色し、部分的には銀化が見られるものも多いが、現在ではすでに見られなくなった光景が、少なくない。街並みや古い建造物が現在では消えてしまっているのはいうまでもないが、現存する被写体でもそれを取り巻く環境はすっかり変わってしまっている。たとえば、フフホトの王昭君の廟の写真があるが、山は今も昔と同じだが、あたりの景色はかなり違う。墓前に立っている石碑も、現在では董必武の筆になったものに変わっている。同じくフフホトでは、五塔寺の壁に当時のポスターも一緒に写っている。
   頒布会が大連にあった関係か、東北の写真が多い。また、入手した写真の時期にたまたま集中していたのかもしれないが、雲南の写真が目立ち、蒙古方面も多い。一つには、当時の日本の関心が向いていた方向を反映しているのであろうが、それとともに、こうした「秘境」が多いのは、このような写真の頒布を申し込む人だから、普通の景色では興味を持ってもらえなかった可能性なども考えて見る必要があるだろう。いずれにせよ、他の部分も探して、全体像を知りたいものだ。
   さて、今回入手した中から、北京に関係するものを探してみると、故宮や天壇、十三陵の石人、居庸関の石刻などがある。また、「燕塵」と題された、もうもうと砂塵をあげながら多数のブタの群が歩く光景なども面白い。ここでは、挿図として、第69回に「店頭表情」と題して頒布された10枚から、書店と料理屋の2枚を掲載した。料理屋の二階が写されたこの写真には、刷羊肉に使われるような鍋を、階段で運ぶ姿が写されている。その他に煙草屋、米屋、菓子屋、薬屋、蜜餞屋などが、この回には収められている。
   これも前に書いたが、この頒布会では写真とともに『亜東』という月刊誌を配布していて、その月に配布する写真に関連したものを中心に、研究家の文章を掲載している。冊子の体裁は、今風に言うとB6版、毎冊32頁建てになっている。今筆者の手元にある『亜東』は、編集部で別に作成販売された合訂本だが、この本の製本が酒落ている。装丁の材料は藍で染められた中国木綿、見返しは故宮の瓦にあるような暗い黄色一色、貼込まれた背文字も、同じ黄色い紙に印刷されている。実に大陸趣味というか、よくできている。
   そして、内容が面白い。執筆者から見てみると、当時の東京帝国大学教授で、東洋建築史の大家であった関野貞、日本の考古学の開祖の一人である京都帝国大学の浜田青陵、旅順にあった南満工専の教授で後に京都大学の建築史の教授となる村田治郎といった官学系の学者も書いてはいるが(村田の随想は民俗関係のものが多く、現在でも貴重な文献だ)、それ以上に多くの頁を占めるのは、当時大陸に暮らしていた在野の中国通の人々の寄稿だった。

メモ
   蜜餞(みっせん)……果物の砂糖漬けお菓子(果脯)

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