中国美術探索 |
永遠(とわ)を包む−中国の包装文化に想う
過日、何気なく家のテレビを点けてみるとBSにて「包装」に関する番組を放映していた。包装に関する歴史、そしてそこに込められた人間の思い等短い内容であったが、私にとりなかなか興味を惹かれるものだった。“包む”という言葉は、「胎児を母体が包んでいる形」からその意味が生まれたという。早速、手元の字書を引いて確認してみると、まさしく「母親の腹の中にいる未完成の児の形」(形声)とある。母親がその慈愛の視線を投げかけながら、これから生まれるであろう胎児に、優しく語りかけている構図が思わず私の脳裏に浮かんだのだった。又同時に昨年の暮、故宮博物院に於いて見た展示の一つに、中国の包装文化に関する展示があったのを思い出した。これは《故宮博物院50年入蔵文物精品大展》の見学のついでに覗いた展覧だったのだが、簡潔に中国の包装文化の変遷が伺える展示内容だった。
人類がこの小さな星の上をぎこちなく二本の足で歩くようになって以来、人類の歩みと共に発展してきたものの一つに、この包装文化があるのかもしれない。恐らく始めは物を損傷なく保護・運搬する為のもの、即ち第一に保護を目的としたものだったろう。その原点に立ち戻ってみると、我々の服や靴そして帽子等々、身近な生活の中にこうした包装の概念に含まれ得るものが溢れているのである。こうした基本概念が後に拡大し、徐々に神そして皇帝、はたまた他の人への礼物に対して施されるようになり、更に多岐にわたり変化発展してきたのだ。展示の中には一般庶民の生活に即した、簡素かつ合理的な包装から、宮廷に納められる様々な品々を、保護・保存するための、それ自身が独立した一つの美術工芸品と言える精緻なものまで、幅広く展示されていた。普段、美術品に接する機会の多い私にとり、こうした包装を観ると、人間の物に対する深い思い、そしてその激しい執着・執念を想起せずにはいられない。これはまさしく人類が“生命”に執着するのと同一の、若しくはそれを超えたものなのではなかろうか。人は死して朽ち果ててゆくが、物は人の何倍もの時間を、朽ち果てる事なくこの世に存在しえることを、人類は遥かなる悠久の昔から知っていたのかもしれない。
「包む」−もしやこの言葉の奥底には、子々孫々と限りなく続いてゆくであろう、永遠の時、そしてその生命をも含んではいないだろうか。包むという行為を通じて物に託された、儚い人の思いというものは含まれていないのだろうか。
我々が見ることの出来得るこの世界の様々な現象には、決して覗くことができない人間の心の深層からの叫びが、影響していることを見逃してはならない。我々は過去から受け継いできた輝くばかりの無数の遺産を、これからも限りなく続いてゆくであろう未来へ、精一杯の心と技術を以ってそれを包み、伝えてゆかねばならぬ重い責任と使命があるのだ。