『北京かわら版』編集顧問 櫻井 澄夫
十二回もの長きにわたり、「支那」について書かせてもらった。もっと批判や反対意見が来ると思ったのに、意外に少なく、賛成の意見ばかりが目立った。反対意見の人も、言語の知識はあるのだが、私が言う「言葉に色が付く」、「元々真っ白の言葉に歴史が色を付けていく」ということが理解できないようだ。語源的にどんな意味を持っていようとも、色のいったん付いた言葉は、元へ戻りにくい。戻す努力をする力がないなら、現状を受け入れそこから出発するしかない。「支那、シナ」は蔑称でない、これは日本語なんだ、相手が誤解している、と言ったって始まらない。何語であろうが、相手に知られ、相手がそう感じてしまったら終わりである。ましてこれは相手の名称についての議論である。その相手がいやだと言っているのに、この名前はおまえにふさわしい、日本人が日本語で呼んでいるのだから、文句言うな、では話にならない。シナはチャイナやシーノと同じ言葉だという反論も、歴史を意識しない発言だ。親友から「おまえ」と呼ばれても怒らないが、知らないヤツや仲の悪いヤツからそう呼ばれたら不愉快だろう。誤解もあろう。曲解もあろう。知識不足もあろう。しかし我々はここから出発するしかないのだ。前にも言ったようにIさん効果のお陰で、これから中国の映画やテレビで今までにもまして、「シナ」と言う言葉が使われ、解説されるだろう。近現代史研究の必要性とその現代的意義を感じた連載だった。