ビジュアルな面から明清時代の北京を追いかけていこうと考えると、その基礎となる書物が二つある。一つは、日本で江戸時代に編まれた『唐土名勝図絵』、そしてもう一つが、この連載で前から名前を挙げていた『万寿盛典』である。
いずれの書物も、当時の北京について知るための貴重な文献で、この連載でも一度は触れておきたいと思っているが、今回は、『万寿盛典』を紹介してみたい。『万寿盛典』は、数年前に北京古籍出版社から影印本が出版されている。日本でも影印が最近出たはずだが、そちらのことはよく知らない。
また、『万寿盛典』は、数回前からの宿題である、戦前の北京に在留した日本人のことにも関係なくもない。というのも、『万寿盛典』について書くにあたって拠り所としたのが、小野勝年(おのかつとし)の研究であり、小野もまた、戦前に北京で活躍し、貴重な記録を残した邦人の一人だからだ。
では、『万寿盛典』とはどんな書物なのか。まず、そこから話をはじめよう。
清朝第三代皇帝の康熙帝は、康煕五二年(一七一三)に六十歳を迎えたが、この本はその慶賀の祝典の様子を記録するために作られた。したがって、内容の中心は康熙帝の長寿を寿ぐ詩文なのだが、全一二〇巻のうち、巻四十一、四十二には慶祝の風景を記録した版画が収められていて、これが本書を有名にしている。
原画となった絵が完成したのは康煕五六年。それに基づいて木版印刷で出版されたのが、今日影印本の形で見ることのできる本である。全部で百四十七の図版が一続きの画面となっていて、祝典に向う乾隆帝の行列が通過した、万寿山の暢春園から紫禁城の神武門までの沿道の風景が、祝賀の飾り付けを中心に描かれている。
ただし、描かれている順序は逆で、神武門から画面がはじまる。その行方を追っていくと、当時は宮城の一部であった現在の景山前街、文津街を西へ、北海と中海を区切る金鰲玉〓橋を渡って西安門(現在はない)を出る。その先で北に曲がって、当時西大市街と呼ばれた現在の西四大街を北へ進み、途中で西四の四牌樓をくぐる。さらに北に向って新街口で西に折れて、西直門大街を西へ向い、西直門から城外へ出る。(※〓は、虫に東)
ここまでが巻四十一で、巻四十二は城外の光景になっている。西直門を出て高粱橋を渡った道筋は、海淀と思われる集落を過ぎて万寿山に至る。城外になると、徐々に民家は減り、田園の光景になるが、沿道の飾りつけは延々と続く。
一九八六年に出版された『明清北京城図』(地図出版社)は、明清それぞれの北京の大地図各一葉と索引からなっており、そのうちの「清乾隆北京城図」を脇に置けば、『万寿盛典』に書きこまれている道筋や書中の寺や観、廟などを後追いすることが可能だ。
もちろん、慶祝の風景を描くのが主題だから、沿道の光景は、祝賀の芝居を演じるための戯台、飾り付けをした棚(小屋)や牌樓、のぼり、康煕帝の万寿無疆を祈るための読経をする寺観、あるいは灯廊などが、画面の多くを占めている。しかし、それだけではなく、西四の牌樓や、西直門をはじめ、団城、白塔などの有名な景色はもとより、飾り付けの合間には、酒、茶、衣類、貴金属、古玩など各種の店舗や、沿道の人々の暮らしも書きこまれているし、城内では道の両側に四合院が並ぶ。
たとえば、今回の挿絵にしたのは、西四を過ぎてすぐ北の部分だが、祝賀の芝居を演じる戯台のほか、茶や煙草を売る店、水売り、食べ物屋なども見えるし、子供のケンカらしい光景もある。また、家の中には幼な子を抱いた母親もいる。
『万寿盛典』の図による都市景観の復元については、次回に。
『万寿盛典』が描く北京の風景