book02a.gif   寄 稿  

〜 中国陶瓷に惹かれて 〜

北宋官窰(汝窰址)を訪ねて

鈴江コーポレーション 元中国総代表 佐藤 勝利

pin01a.gif  中国の陶瓷「官窰(かんよう)」と「民窰(みんよう)」

  中国陶瓷は、宋の時代に大発展し、宋のものが陶物(やきもの)として最も完成している。そしてこの時期に、正式に官窰と民窰という陶瓷制作上の大きな流れが生まれた。
  官窰とは、宮中で設計、注文、生産、使用された陶瓷のことで、数的に少なく、非常に貴重な文物。一方民窰は、一般大衆が日常生活で使うために作った陶物のこと。
  今回、私が興味を持って追いかけたのは、官窰だ。一般に宋時代の官窰には、「汝窰」「定窰」「鈞窰」「南宋官窰」がある。この他に、貢瓷(こうし)として宮中に献上された「耀窰」「ge窰」を含んで官窰という場合もある。官窰の中でも特に貴重なのは汝窰だ。一九八六年以前に公に認められた陶瓷は、台湾、中国、日本、アメリカなどにわずか六十五個しかなく、世界中の陶瓷コレクターの究極の逸品と言われている。

pin01b.gif   謎の汝遺址が姿を現す

  一九六〇年代〜一九八〇年代に掛け、中国の窰遺址が多く発掘され、それまで明らかになっていなかった陶瓷の製作年代や製作行程などが解明された。しかし、汝窰とge窰の二つの窰址は長い間発見されなかった。その理由は、汝窰という名前にあった。発掘調査は、その名前をもとに、現在の河南省汝州を中心に進められたが、ずっと空振りに終わっていたのだ。しかし一九八六年、転機が訪れた。上海博物館の手により、調査対象に含めていなかった現在の宝豊県が、宋時代の汝州に含まれていることが発見され、宝豊県大営鎮清涼寺窰址まで調査範囲を広げたところ、七十数個の北宋官窰陶瓷が発見されたのだ。ここに、多年にわたる汝窰の謎が究明された。
  しかし発見された清涼寺窰址は、官窰と民窰の両方を焼いていた窰址で、民窰を焼いていた時期も長いため、残念ながら官窰の破片は非常に少ない。この窰址の特徴は、曜窰と釣窰の影響を受けて、多くの種類の陶瓷を焼いていたこと。偶然手に取った本で、この窰址の近くに建てられた清涼寺汝窰研究所で、汝窰の研究が鋭われていることを知った。私はいても立ってもいられなくなり、九九年十二月四日朝六時、清涼寺窰址に向けて北京を離れた。

pin01c.gif   官窰を探して南へ

  当日は、穏やかな陽気で上々の出発だったが、霧のために京新高速が閉鎖されるというアクシデントが発生。途中、国道一〇七号にルート変更し、その日は鄭州に一泊することになった。
  翌日五日早朝、改めて鄭州を出発、「汎県石窟」「宋昭陵」登封・曲府の「登封窰址」に立ち寄った後、汝州経由で目的地である清涼寺窰址に向かった。夕方五時過ぎになってたどり着いた清涼寺汝窰研究所では、「今日はもう閉館した、帰れ」という。軍が管理している施設のため、規定の時間を過ぎたら簡単には見せてもらえないようだ。
  しかし私達は、明日には北京に戻らなければいけない。長い間夢見ていた汝窰を目の前にして、「見ずに帰るしかないのか……」と落胆していたところ、気の毒に思ったのか、軍人の一人が良い情報を教えてくれた。「この先二五〇メートルくらいに清涼寺窰址がある」という。そこで、官窰を見たい一心で、車の腹をこするほどでこぼこした工事中の道を進んだ。ところが、教えてもらった道を進んでも窰址らしきものは全く見当たらない。不思議に思い、一面の麦畑の中で農民に尋ねてみると、まさにここが汝窰址という。半信半疑で良く見ると、麦畑の中に累々と陶片が散らばっている。ようやく、念願の汝窰に出会えたのだ。
  日没が近かったため、急いで周辺を撮影し、陶片を採集した。ここには、圧倒的に白磁片が多く、その中に青磁片、黒陶片がぽつぽつと見えた。
  地元農民の話によると、約十年前、近くで三基の窰が発掘され、また埋め戻されたという。埋め戻されて畑になったのが、今自分が立っている場所。ここでは、一メートルも掘らずに陶片に突き当たり、三メートルにも及ぶ陶片の層があるとのことだ。
  話を聞き終わった頃、辺りは一面の暗闇で、空には星が美しく光っていた。官窰には関係がない、そんなことがなぜか強く印象に残っている。途上のトラブルで、汝窰址には一時間程度しか滞在できなかったが、想像以上の成果に満足し帰路に着いた。

今は農地になっている清涼寺窰址には、おびただしい数の陶器片がちらばっている。