前回にも書いたように、清朝時代の北京の景観を知る上で、『万寿盛典』は、有用な書物なのだが、その例として、柵欄のことを見てみよう。
北京で柵欄と言えば、前門外の繁華街の大柵欄だが、みなさんはこの名前の由来はご存知だろうか。『宣武区地名志』からの受け売りで書いてみたい。
明の時代に、各町を盗賊から守るために、当時大小一七〇〇ほどあった胡同に柵を設け、夜になると閉じて、さらに人を雇って夜回りをさせたが、やがて、町々の柵欄にも大小などの特徴ができるようなり、それが地名になるところが出てきた。たとえば、一つの胡同に二つ柵欄があるので、双柵欄胡同といったようにである。
そして、明代の永楽年間から商業地区として発展していたこの地域は、柵欄の規模が大きかったために大柵欄と呼ばれるようになったという。
そういうことだから、柵欄の付く地名は、前門外の繁華街にだけ限られるわけではない。同じ宣武区にも、西の方、西便門の南側に東大柵欄胡同や大北柵欄胡同、小北柵欄胡同がある。こちらは、清朝時代の〓藍旗の営房(兵舎)があって、その柵から名づけられたとある。※〓は、金に襄。
こうした明清時代の都市の自衛、治安機能については、夫馬進氏に研究があって、このような木戸は、北京だけでなく南京、さらにその他の地方都市にも存在したことが、紹介されており(夫馬論文は南京が主題)、『万寿盛典』の図も挿絵として掲載されている。
今回の図版に柵と木戸が見えるのが、「柵欄」で、その横にある小屋が「舗」である。「舗」は、元来は消防小屋や番小屋としての機能を持ち、宋代にまでさかのぼるものだとされる。舗の番号が、番地としての機能を持った。『万寿盛典』の図に見える「舗」にも、武具が備えられているのが見える。
ところで、前にも書いたように、この絵の主題は、康煕帝の祝賀の行列と、それを迎える北京の祝賀風景、とくに飾り付けを描くことだから、本来の街並みの前面に、芝居をしたり、祝賀の作り物を飾りつけた小屋が並んでいる場面が多い。さらに、基本的には絵の進行方向に向かって左上から(東西の道なら南側から、南北の道なら西側から)の俯瞰が基本であることもあって、一番たくさん見える民家の姿は、屋根になる。
画面のかなたまで続く屋根の波を見ていて、少なくとも城内については、ほぼ全部が瓦屋根になっていることに気がついた。この絵図としばしば対比される、『清明上河図』を引っ張り出してみたら、都市部においては、やはり瓦屋根が圧倒的だ。
『清明上河図』は、一二世紀初頭あたりの北宋の首都開封の(これについては異論もある)、『万寿盛典』は前回書いたように、一八世紀前半の北京の、姿である。それぞれ中華帝国の帝都であり、しかもその繁華のさまを描くことを目的にした絵図だから、民家も立派な姿に描かれているのかもしれないが、中国では民家に瓦屋根が普及したのはいつ頃、どのようなレベルで、だったのだろうか。
おそらくは、防火目的からはじまったのだろうが、こうしたことを知りたくなった。建築史の本や中国消防史といったタイトルの本を買った記憶もあるので、丁寧に文献を探せばたぶんわかるだろうから、時間ができたら調べてみたい。
『万寿盛典』と同時に、『南巡盛典』と『西巡盛典』の二つの書物も、同じ一九九六年に北京古籍出版社から影印されている。南巡は乾隆帝の四次にわたる江南巡幸の、西巡の方は嘉慶帝の五台山巡幸の記録である。どちらの本にも、途中の名所旧跡や行宮の絵などが名所図会風に掲載され、版画としても優れているし、数も多いが、『万寿盛典』のように都市の細部を描いたというような絵はない。もう一つ、曲阜への行幸を主題とした『幸魯盛典』という本もあるが、これは、今回は影印されていないようだ。
柵欄(万寿盛典から)