中国には、駐在員、その家族、留学生、起業家、旅行者など、多種多様な日本人が集まっている。今回お会いした村本さんもその一人。しかし村本さんは、積極的に何でも挑戦するタイプではなく、「以前は何も自分で決めたことがなかった普通の主婦」だったという。「第二の人生」として踏み出した、中国留学から現在までのお話を聞いた。
村本加代子 MURAMOTOKayoko
(〓州信安信息諮詢有限公司 董事、総経理)
※〓は、さんずいに琢の旁のみ。
かわら 村本さんは、日本では普通の主婦だったそうですね。中国と関わるようになったきっかけを教えてください。
村本 直接のきっかけは、主人の死ですね、それに子供がいなくて身軽だったこと。それまでの私は自分で何かを決めたことがなかったんです。就職先は学校の推薦、主人とは母が勧めたお見合い結婚、主婦時代もほとんど夫の指示どおりの生活をしていました。その主人が突然亡くなり、何をどうしていいか分からない、本当に砂を噛むような思いを味わいました。周りの人はまだ若いんだからと、再婚を勧めてくれたりもしましたが、とてもそんな気にはなれませんでした。でも、時間が経つに従い、「このままじゃいけない、何かしなくては」と思い始めました。「第二の人生の自由を主人が与えてくれたんだ。その自由を活かす何かをしなくちゃ」って……。
そんな時、ある県民新聞で、留学生募集の記事を見て、「あ、これだ」って思いました。実は年齢制限に引っかかっていたんですが、ちょうど、天安門事件の後だったので、応募が少なかったんです。担当者の「健康に自信があるならどうぞ」という一声で、私の大連留学が決まりました。
かわら 中国には、以前から興味を持っていたのですか。
村本 自分ではあまり自覚はないのですが、やはり、興味があったんでしょう。この前久しぶりに会った中学時代の同級生から、「かよちゃんはあの頃から中国、中国って言っていたわよ」って言われました。私はあの頃、中国を題材にしたパールバックの『大地』を読んで、すごく感動したことを覚えています。内容は忘れましたが、なぜか、荒涼としたイメージだけは、今でも頭にこびりついています。それに、その頃の姉のボーイフレンドが中国語が上手で、私に中国語を教えてくれたりもしました。そう言えば、OL時代も周りが英会話学校に通うなか、中国語を習いに行っていましたね。だから、見えない糸に引っ張られたというか、大きな流れに乗っているようなものを感じます。
かわら 中国留学について、周りの人は反対しませんでしたか?
村本 それはもう、母が不憫がって。四〇歳で女一人中国に行くわけですから。主人の両親も、息子が早く逝っちゃったからあなたには苦労かけるわねーって。でも、私にとっては、「一人で中国に行く決断」ができたということに大きな意味があったんです。私の人生で初めて自分一人で決断したことですから。
かわら 留学前に、中国にいらしたことはあったんですか?
村本 いえ、中国どころか初めての外国でした。だからショックが大きかったですね。だって、大連空港から大学に向かう道に馬が走っていたんですから(笑)。そんな、発展途上の大連を目の当たりにして、留学仲間とは、「中国ではどんな商売をやったら儲かるか」など、卒業後についてよくおしゃべりしたものです。でも、留学期間が終わったら、結局はみんな日本に帰ってバラバラになってしまった。その時の留学仲間でいまだに中国に関わっているのは私だけですから、不思議なものですね。
大連留学を終えて日本に帰ってから、「このままじゃ、中国語をどんどん忘れてしまう」と思い、日本でも中国語の勉強を続けました。そしてしばらくして、二回目の中国留学を決めました。
しかし、この北京への留学を決めた後、高齢の父が老衰で入院してしまい、そんな中での出発でしたから、私は後ろ髪を引かれる思いでしたね。父は、私が北京に発つ前は言葉も話せなくなっていたんですが、じーっと大きく目を見開いて私の目を見つめて。お互い何も言葉は交わさなかったけど、あの時父は私にお別れを言っていたんだと思います。
そして父は、私の北京留学中に亡くなりました。看護婦さんも寝ていると思ったくらい、安らかに逝ったそうです。だから誰一人として、父の最期を見とった人はいないんです。それを聞いた時私はこう感じました。「これって父の私に対する思いやりじゃないかしら」。だって、私は会いに行きたくても行けないところにいたわけですから。
お葬式の後、留学をやめて母のそばにずっと付いていてあげようかと、一時期本気で考えました。一人になるさびしさは、主人を亡くして充分すぎるほど分かっていましたから。いくら高齢である程度覚悟ができていたとしても、歳だから亡くなっていいっていうものじゃないんですね。やはりずーっと一緒にいたいんです。だから一人になった母を残して北京に戻るのが本当につらかったです。
かわら その後、留学生生活にはピリオドを打ち、会社を興されたわけですね。かなり勇気ある決断だと思いますが、そこまで思い切らせたものはなんですか?
村本 中国語を活かして仕事をしたいという強い思いでしょうか。ただ、私の中国語のレベルでは日本で通訳や翻訳をするところまでいっていないのはよく分かっていましたから、中国で会社を興そうと思いました。それに留学ではお金が出ていくばかりですから(笑)。私って結構生真面目なところがあって中途半端じゃ納得できないんです。四〇代に主人から自由をもらって、日本を飛び出して、結局日本に戻ってパートのおばさんじゃあね。なんていいますか、いい経験をしただけじゃ終わらせられない何かが自分の心の中にあったんだと思います。まあ、何も分からなかったから飛び込んで来られたのかもしれませんけど。
かわら どんな段取りで合弁相手を探したんですか?
村本 ある方に相談したら、三つの合弁先候補を挙げてくれました。一つは個人でコンサルタントをしている人、一つは個人で商売をしている人、もう一つは経済開発区。その中で、一番信用できそうな政府機関である開発区を選びました。開発区の候補も二つありましたが、北京から通える距離だったこと、私のような素人のおばさんとの交渉を積極的、好意的に進めてくれたことを理由に、〓州に決めました。
かわら 合弁会社設立の手続きについてお聞かせ下さい。
村本 実は、細かい手続きは自分では何もしていないんですよ(笑)。当時の開発区の担当者沈さんが、全部進めてくれました。もちろん私も、他の人が会社を興した時の資料を手に入れ、勉強はしました。でも手続き進行中は、沈さんからの連絡を待つだけだったんです。ずっと連絡をくれないので、「なんでこんなにほおっておくんだろう」と不思議に思っていたものでした。中国では、良い回答が出来ない時は何も連絡しないんですよね。その当時、私はそんなことは分かりませんから、時々こちらから連絡をとると「何もしてないんじゃない。ただ、難しいんだ。大変なんだ」という回答が返ってきたものでした。
沈さんのおかげで会社が設立できてからも、その時々で手をさしのべてくれる人が必ずいました。そういう人の縁に恵まれてきたからこそ、今までなんとかやってこられたような気がします。でも重要なのはそれを活かせるか活かせないかっていうことじゃないでしょうか。そしてそれは自分次第なんですよね。
かわら 具体的な仕事内容を教えて下さい。
村本 本業は日本企業を〓州の開発区に誘致すること、平たくいうと不動産屋ですね。会社を興した当時は、いろんな提言をしました。商社に土地の購買権を与えたらどうかと提言したり、開発区のバスツアーを計画したり、駐在の奥様方に〓州に一泊旅行に来ていただいたりとか。そういう中から、ゴルフのアレンジというのも生まれてきたんです。うちの会社の場合、私以外の職員は開発区のボランティアですから、経費は基本的には私自身の活動費だけです。資本金を切り崩さないためには、自分の活動費を得なくちゃいけない、そこで始めたのが日本人向けのゴルフの予約と会員権の販売サービスです。
まず、FAXで日系企業にゴルフ場情報を流し、コンペやプレーの予約を取り次ぐ。そしてコンペ当日は、主婦経験者としての細やかさで、現場従業員のメンツをつぶさないよう気をつけながら、受け付けから懇親会のセッティングまでをお手伝いしています。今では本業の活動費に見合うだけの収入は得られるようになりました。最近では、〓州以外のゴルフ場の予約も無償でお手伝いしていて、知り合った中国人従業員から、「ツンベン(村本)、私、今度ここに移籍したの、日本人の予約お願いね」と声を掛けられるほどです。
かわら 中国に来てからは、どんな苦労をされたのですか。
村本 苦労なんてなかったですよ。確かに、昔書き留めた日記を見ると不満がいっぱい書いてありました。でもね、それは中国を理解していなかっただけのこと。要は自分の捉え方一つだと思います。
かわら 中国で一人暮らしをしていて、さびしいと思いませんか?
村本 それはあまり感じませんね。ただ、高齢の主人の両親のことが、心にいつもひっかかっています。私はないものねだりはしないんです。人とは比べない。だって、比較しても何の生産性もないし、メリットはないですから。でもそういう心境に至るまで、やはり心の中ではずいぶんと葛藤がありました。そしてある時、「子供があるために、家庭があるために悩んでいる人はいっぱいいる」って、何かで読んだんです。それを見た時に、「ああ、そうか」って、目から鱗が落ちた気がしたんです。そして冷静に周りを見回したら、自分の近くにも家庭のことで悩んでいる方が多くいて、「決まりきった幸せの形なんてないのだ」って思えたんです。それは、一緒に手をつないで歩める人がいたら最高、最高だけど、今現にいませんから。だったら今のこの現実を、ありのままを受け入れて、川の流れのように生きていけたらそれでいいんじゃないか、と。そう思えるようになりました。
こんな風に言うと消極的に聞こえるかもしれませんが、実際にはいろんな挑戦をして、多くの壁にもぶつかりました。それはもう、一冊の本が書けるくらいに。最近私はこう思っています。「私が今中国にこうしているということは、なにか中国でやるべきことがもっと他にもあるからではないか。それが何かはよく分からないけど、少しずつ近づいていけたらいいな」って。私はこの広い中国で自作自演のドラマを演じている気分なんです。こんな自由な生き方ができるのも、多くの日本の方、中国の方に支えられてきたからです。このご縁をこれからも大切にしていきたいですね。
かわら 今日は本当にありがとうございました。
※〓は、さんずいに琢の旁のみ。
● 取材後記
「自然体」。村本さんを形容するのに、これ以上ぴったりくる言葉はないでしょう。
こぼれるような笑顔と飾らない前向きなお話。聞いている内に肩の力が抜けて、心の中がポカポカと暖かくなってきました。
これが多くの人を惹きつけてやまない「ツンベン(村本)パワー」なのかもしれないと感じました。今後のご活躍を心からお祈りします。
(かわら版編集部S)