秦香蓮の物語は中国の民間に伝わる物語で、劇の題材としても度々取り上げられています。また、名裁判官包拯の裁きを書いた明代の小説「包公案」(正式名称は「包龍圖判百家公案」)の中でも代表的な物語として広く一般に知られています。
宋の時代、荊州に陳士美という書生が住んでいた。家には年老いた両親と妻子がおり、日々の暮らしは決して楽ではなかった。陳士美は学問で身を立てようと、日夜読書に余念がなかったので、家のことは全て妻の秦香蓮一人の肩にかかっていた。働き者の秦香蓮は、昼間は家事をこなし、夜は夫の科挙の試験に赴く旅費を稼ぐため、機織りに精を出した。また、上は舅、姑によく仕え、下は子供の面倒と休む間もなく働いて、一言も愚痴をこぼさなかったので、陳家は良い嫁をもらったと街中のうわさになるほどだった。
数年後、秦香蓮はようやく旅費をためることができたので、夫を科挙の試験に送り出した。陳士美は京に上り科挙の試験を受け、トップで合格した。皇帝は陳士美の威風堂々とした様子をみて非常に喜び、彼を婿にとることにした。陳士美は家に残した年老いた両親や妻子のことはすっかり忘れ、この栄華に酔いしれた。
さて、秦香蓮は夫を送り出した後、何年たっても何の音沙汰もない。ある年、その地方に災害が起こり、舅、姑は病気になって、その後前後して亡くなった。このままではもう暮らしが立たないと思った秦香蓮は、子供二人をつれて夫を捜しにいくことにした。母子三人は苦労に苦労を重ね、ようやく都につくと、夫は皇帝の婿になり、高官になっているというではないか。秦香蓮は子供を連れて王府に陳士美を訪ねた。ところが、陳士美は妻子を認めるどころか母子を怒鳴りつけ、王府から追い出した。そこで秦香蓮は裁判に訴えることにした。しかし、相手は皇帝の婿である。誰もこの裁判を引き受けようとしない。香蓮はしかたなく、街中で大声で無実を訴えた。
朝廷に正直者で聞こえた宰相王延齢がいた。彼は秦香蓮のことを聞くと深い同情を覚え、彼女にいくつかの策を授けた。
八月十六日、この日はちょうど陳士美の誕生日だった。王宰相は秦香蓮に芸人の格好をさせると、誕生祝いに連れていった。屋敷に入ると秦香蓮は琵琶を弾きはじめ、当時の夫婦の愛情とその後の一家の悲惨な状況を切々と歌い上げた。この歌を聞けば、きっと陳士美も悔い改めてくれると信じて。ところが、陳士美は悔い改めるどころか、王延齢もろとも屋敷から追いだし、あまっさえ、人を派遣して母子を殺そうとした。
ちょうどその頃、公明正大で有名な名裁判官包拯が地方視察を終えて都に帰ってきた。秦香蓮は一縷の望みを包拯に託し、裁判を起こした。包拯は秦香蓮と陳士美を対面させた。初めはしらばっくれていた陳士美だが、これ以上ごまかせないと分かると、突然剣を取り出し、秦香蓮母子に斬りかかった。包拯はあわててこれを止めた。形勢が思わしくないと思った陳士美は、朝廷に上がらなければならないと言ってその場を離れようとした。包拯は、「裁判が終わってから朝廷に行きなさい」と言うと、役人に命じて陳士美を縄で縛らせた。ちょうどこの時、皇太后が入ってきて陳士美の罪を許すように言ったので、裁判は一時混乱に陥り、困り果てた包拯は自分の給料から三百両を秦香蓮の与え、「これを持って家に帰りなさい。」と諭すように言った。秦香蓮は失望した目に涙を浮かべ、「人は皆あなたのことを公明正大だと言います。でも役人は皆同じなのですね」そういうと金は受け取らず、子供の手を引き外に出ていった。この言葉は包拯の心に矢のように突き刺さり、彼は恥ずかしさで居ても立ってもいられなくなった。あわてて香蓮母子を連れ戻すと、「役人を首になっても構わない。今日、陳士美を斬り殺すことができなければ、私は天に対して顔向けできない」こういうと、包拯は首切り役人に命じ、陳士美の首を一刀の元に切らせた。こうして糟糠の妻を捨て自分だけが栄誉栄華を極め、その上妻子まで殺そうとした陳士美は法に則り処罰され、包拯の名はさらに上がったということだ。
▲ 陳士美の誕生日の場面。 ▲ 裁判の場で秦香蓮を切りつけようとする
中央奥の左が陳士美、右が王延齢。 陳士美をとめる包拯。
中央手前の琵琶を弾いているのが秦香蓮。 左から秦香蓮母子、包拯、陳士美。