中国美術探索

美への彷徨(二)

真品と贋物のはざ間で


   過日天津にある「贋物工場」を密かに見学してきた。贋物とは即ち「ニセモノ」のことだが、お粗末過ぎて話にならないものがその殆どだ。こちらもご多分に漏れず偽作者のレベルが今一つ、形態の物真似に終始しその内奥に肉薄した凄みのある贋物にはほど遠いものだった。かつての“蘇州騙子”の如く真偽を惑わすほどの精巧なそして生き生きとした偽物を眼にすることも最近では殆どないと言ってよい。なぜなら贋物製作には真品以上のより高いレベルと学問が要求されるからだ。

閑話休題

   先日ある雑誌で作家吉川英治氏のご子息の文を読んだ。ご子息は専門の鑑定家ではないのだが、時に依頼を受け父英治氏の掛け軸等をお母様即ち令夫人と共に鑑定されるのそうだ。そのような時、作を一見しただけでその物の真贋が分かるのだという。正に直感、第六感なのだ。依頼人としては無論そうした抽象的な表現では納得するはずも無く、その時は一つ一つ具体例を挙げ、「落款(らっかん)のこの部分、恐らく父はこの様には書かないでしょう」等と補足的に説明を加えるのだという。しかしそれは、ただ一見した時に感じとった違和感を再度確認する作業でしかないのだ。かつて私も令夫人にお目にかかった際、伺ったことがあるのだが「主人を見間違える事が無いのと同じ事だと思います」とおっしゃられていたのを今でも覚えている。誰にしても最も身近な人々を見間違える事はあるまい。原則はここにある。しかし時の流れとともに過分に他の要素が混入し、この真実の光を覆い隠してしまうのである。ましてや幾多もの贋物が世に横行しては尚更であろう。

   間もなくやって来る北京の暑い夏。異国の蝉しぐれを聴ける日もそう遠くではない。幼い頃の思い出に残るあの神秘なるひととき。…そう、東の空が静かに白みはじめる頃、土の奥底から這い出し、積年の労苦から身を引き抜くように羽化を遂げる蝉たち。夏のまばゆい朝の日差しを浴び登仙したあとに残された脱け殻からは、ついさきほどまで暗闇の中を徘徊していたあの力強い生命感をいささかも感じることはない。形態の中に内在する真の姿。それは見える世界から見えない世界への深化と言えよう。真品と贋物の境界にはまさにこの越え難き見えない隔たりがあるのだ。

   この世に書画がある限り必ずや贋物も存在し続けてゆくに違いない。時に「追うもの」と「追われるもの」の永遠に繰り返されるこの不断なる負の戦いを通じ、互いに向上をしてゆく事実を無視することはできない。

   いつの日か、ハッと我が眼を疑うような贋物に出会えたならば、それもまた本望かもしれない。

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