中国を集める58

奈良大学教授   森田憲司

   前にもこの欄で書いたことがあるが、ものごとを調べていると、どんどん新しい材料が出てくる時がある。調査が順調に進んでいてけっこうなように思われるが、実はそうではない。これは、こちらの研究がまだ不充分な証拠なのだ。

   といった次第で、今回は資料の追補とお詫びになった。

   この何年間、明治の中国旅行記、とくに長城旅行記に凝っていて、その一部についても、ここで紹介させていただいた。その時は、日清戦争以前の旅行記を中心にしていたが、最近は、明治の後半期のものにも手を伸ばし始めている。そこでいくつかのことに気がついた。その中に金陵の話がある。

   もう一度金の陵墓について整理しておくと、金朝の第四代目に海陵王という人がいた。彼が、金の都を、中都、つまり現在の北京に遷都した。以後、今日まで約八百五十年間、断続はあるものの、北京は中国の都であり続けた。それとともに、金の歴代の皇帝の陵墓も房山に移された。これが、金陵のはじまりで、以後の皇帝もここに葬られた。ただし、皮肉なことに、その独裁的な傾向の故に海陵王は暗殺され、皇帝であったことも抹殺されたので、彼の墓だけはここにはない。金陵が明の万暦年間の破壊などで荒廃していたのを、清朝の乾隆帝が整備したことは、先だって書いた。

   一九九五年に金陵を訪れた時には、大理石造りの建物の遺構が残っていたことを書いた。これが、金朝時代のものか、乾隆時代の再建のものかはわからないが、あくまでも土台の石組や、石造物の残骸のみで、地上に建造物があったわけではない。しかし、戦前には、いくらかは建物が残っており、二つの本に写真が載っていることを最近知った。

   たんにそれだけなら、そうか珍しい資料があったな、で済む話なのだが、恥ずかしいのはその写真が掲載されている書物で、一方が、桑原隲蔵の『考史遊記』、もう一つが、『中国文化史蹟』なのである。

   まず、桑原だが、彼は内藤湖南と並んで京都大学の東洋史の初代の教授で、筆者にとっては、師の師の師にあたる(曾孫弟子?)。『考史遊記』は、彼の中国における史蹟踏査の記録で(明治四十年、四一年)。金陵のことは、房山の話の中に余談のように出てくるのだが、写真もある。この旅行記は、桑原隲蔵全集(岩波書店)の第五巻にも収められており、筆者の手元には、昭和十七年刊行の原本がある。現在では貴重なたくさんの写真が掲載されていて、よく参照しているはずなのに、今回は見落としていた。言い訳をすれば、旅行の記録なので、北京関係の史蹟への言及がほとんどないので油断した。

   もう一方の、『中国文化史蹟』は、仏教学者で中国各地の仏教史蹟を調査した常盤大定と、建築史学者で、やはり多くの史蹟を踏査した関野貞の編になる写真集。大正の末から『支那仏教史蹟』として刊行され、昭和十四から十六年にかけて、内容を増補して『中国文化史蹟』となった。とくに、解説編は、多くの図面があって、中国の史蹟に関する基本資料となっている。中国旅行の際には必ず予定の史蹟については、必ず目を通してコピーを持参していくことにしており、何年も大学から借りっぱなしになっている。金陵については、四枚の写真が載り、墳丘もはっきり写っている。解説は、関野の執筆。

   というわけで、どちらの文献も、筆者の立場としては、金陵について書くなら当然目を通していなければならないはずの本なのだが、手ぬかりだった。

   十年かそれ以前に、北京晩報の「話北京」で金陵の話を読んで以来、ぜひとも一見したいという念願がかなって、金陵を見ることができたのだが、その金陵の話が『鴻雪因縁図記』に載っていたので、調子に乗って書いてしまった。以前は、筆者の周囲には存在を知る人もなく、まして行っている人はいまい、という思い込みがあって、基本文献の確認を怠っていた。お恥ずかしい限りだ。それにしても戦前の人達の行動範囲は広い。

   もっとも、それでは金陵の建物は何時消えたのだろう。今度はこんな疑問が残った。

   ついでながら、この話に関連して、明治三五年に、当時大阪朝日新聞の記者であった内藤湖南が北京を訪れ、房山の石経寺を訪れていたことも知った。いくつかの文献の指摘では、湖南が明治以降でこの寺を訪れた最初の日本人のようだ。

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