中国を集める60

奈良大学教授  森田憲司

   今年も、八月の十一日から十六日まで、京都の下鴨神社で青空古本市が開かれた。昨年はこの青空古書市で根箭前編集長の母堂の歌集を入手したが、今年手に入った北京関係の資料は、『北京日本人史考』という、昭和十五年に出た本一冊だけだった。

   この本は、当時日本人小学校の校長であった大越親氏によって、「郷土史」の資料として作成されたもので、日本人小学校は東城区三條胡同豫親王府にあった。出版したのは、新華社という、北池子にあった印刷所。

   内容は、明治三年(一八七〇)七月の柳原前光の中国派遣から、昭和十二年(一九三七)の蘆溝橋事件までの日中関係、北京をめぐる中国国内の政治情勢、そして在住日本人に関する事項で、年表風に箇条書きになっている。日中の公的な関係や事件が多く、在留邦人の日常生活に関係するような記事はほとんどない。もちろん、日本人小学校に関わるものについては、細かな事項も取り上げられている。

   このように一つ一つの項目は箇条書き的で、大部分の記述は短い。しかし、本書に記述されている項目の中には、より具体的な内容を他の文献で追いかけることのできるものも多い。

   歴史は時代が現在に近づけば近づくほど、細かな事実までが伝わるようになる。だから、年表も近代になれば、年単位では追いつかず、月表になり日表になる。近代の中国については、中国では社会科学院近代史研究所の編になる『中華民国大事記』、台湾では国史館編の『中華民国史事紀要』が、出版されており、中国近代の詳細な日表が利用でき、当然ながら、本書に関連する事項も取りあげられている。

   たとえば、蒋介石の北伐の完成で中華民国の首都は南京となり、民国十七年(一九二八)六月二十日、北京は北平特別市と改称される。『北京日本人史考』では、「北京ハ改メテ北平ト改称スルコトニナレリ」とあるだけだが、これらの日表を検索すると、その前後の軍事情勢から特別市の組織法の条文まで、見ることができる。もちろん日本人の動静や日本人小学校についての事項は、これらの資料では追跡することはできないし、排日事件についての記述が異なることは言うまでもないが。

   『北京日本人史考』にもどると、日本人社会の各方面にわたって記述があるわけでもないし、記述もそんなに詳しくはない。それでも、日本人社会について考えるための資料としては有用なのだ。というのも、戦前の北京の日本人社会について、まとめて書かれたものが案外少ないからだ。本書に載っている統計によれば、昭和十五年五月現在で北京の日本人人口は、六五二七八人(朝鮮、台湾籍を含む)、日本人小学校の在校児童数は、十三年現在で二二四九人であったにもかかわらずである。

   戦前の北京の日本人について研究の材料がないというわけではない。明治時代には前回取りあげた『燕塵』があるし、大正なら以前に紹介した中野江漢の『北京繁昌記』が連載されていた、『京津日日新聞』、さらに、戦争中であれば、『北京横丁』や『北京百景』の著者の高木健夫の在籍した『東亜新報』などなど、北京で刊行されていた、日文の新聞や雑誌は少なくなく、そこから日本人社会の動静についても知ることができるし、さらには北京に在住した人の手になる回顧録の類も少なからず存在する。

   だれか、北京の日本人史をまとめようという人はいないものなのだろうか。

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