中国を繙く30 |
「支那」は本当に悪くない言葉か(7)
櫻井澄夫
このテーマで書き始めてから、様々な方から電話やお手紙をいただき、また「読んでるよ」と声をかけていただいた。私がたびたび触れる「支那」派の呉智英氏の最近の文章で、呉氏やそれに近い考えを持つ「支那」派の人たちの一連の雑誌等での主張に対して、ほとんど反論がなく、支那派は増加していると威張っている。確かにそのような傾向はある。良識ある慎重な人々は、支那派の、いわばエキセントリックな言論に巻き込まれないように警戒し、または大手出版社の出版物への支那派の主張のたびたびの掲載に、当惑し距離を置こうとしているのではないかとも思われる。
私のこの連載はそういった点では、(出来の方はともかく)辞書、事典の類を別にすると、最近におけるほとんど唯一の反支那派の長い文章であるかも知れない。ただ「かわら版」という数千部しか出ていない、ほとんど中国に住む日本人にしか読まれていないマイナーな刊行物であるという制約がある。
さてあらためて私がこの連載の第一回目にあげた高島俊男氏の「本が好き、悪口言うのはもっと好き」を読むと、私の言う反「支那」派(「支那」という言葉を使うべきでないという考えを持つ人たち)のことは、ほとんど出てこない。竹内好もさねとうけいしゅうもここには全く紹介されていない。最近、竹内実氏の「支那」についての解説を読んだが、やはり反「支那」と呼ぶべきものであった。竹内氏は「支那」について、「いまは国際化の時代である。相手の感情を傷つけてまで、古い呼称を使う必要はない。(中略)相手が嫌悪する呼称をわざわざ使うのは一種の挑発であり、自らをいやしめる行為である」と書く(「蒼蒼」八七号。「中国を見る基礎用語」)。しかしこのような真面目で地味な文章は一般にはあまり注目されない。派手な月刊誌や週刊誌ばかりが注目され、声高な論調が続く。これでいいのだろうか?みんなみんな勉強不足じゃないの?という、素朴な疑問が私にこんなに長くこの連載を続けさせた。それに加え、かわら版の読者の皆さんのご支持やご質問が私に学習を促したのはもちろんだ。
前置きが長くなったが「学習」を続けよう。いただいた質問の中に、こういうのがあった。SINOTRANなど中国の会社の名称に、SINOがつくのがあるが、これはシナとどうちがうのか、というものだった。確かにSINOTRAN,SINOCHEM,SINOPECなどSINO(シノ)がつく社名が最近増えてきているように思える。いずれも国営(合弁?)の大きな企業である。このシノとは何かという問題に今回は触れてみたい。
英語の辞書を引くとSINOという言葉がたくさん出てくる。特にSINO-BRITISHTREATRYのような他の国や地域の名称(しかも多くの場合形容詞形)と一緒になって他の語を修飾する使い方が多い。SINO-AMERICAN RELATION(中米関係)あるいはSINO-JAPANESE(「中日」)というようなのが用例だ。このような語(SINO)を連結形というんだそうだ。もちろん連結形ばかりでなくSINOLOGY(中国学。今でも日本の多くの辞書には「シナ学」と書く)とか、シノワズリ(フランス語で「中国趣味」のこと)などという言葉もある。連結形の場合、SINOが前に来て、後ろの国名などが形容詞形になるのは、SINOに形容詞形がないからなのか、単なる習慣なのか知らない。今度専門家に聞いてみたい。いずれにせよSINOは現在も抵抗なく欧米の言語では頻繁に使われており、中国でも問題になっている形跡はない。(ただし「中日友好病院」を英語では、CHINA JAPAN FRIENDSHIP HOSPITALというように、日本と中国の間では使わないことが多いようだ。外交などでも同じかどうかは知らない。)
呉氏等がイギリス人も「支那CHina」といっているのに、なぜ日本人が(シナ)を使うと問題にするのかという批判は、このようなことをも指しているのであろう。
語源的には同一かも知れないが、支那もChinaもSINOもすべて同じだというのはしかし乱暴な議論だろう。中国語では「支那」はシノともチャイナとも発音しないのはご存じの通りである。
しからば「支那」という文字がいけないのか、シナ(SINA)という発音がいけないというのか、最近日本の一部の学者などは「支那」を避けて、Chinaに対応する言葉として「シナ」を(特に学術用語として)使う傾向があることもあるし、中国の人の中にも、いろいろな異なる意見があるようだから、次回はこの問題についてよく考えてみよう。
(続く)