北京雑感

日本料理コンテストを振り返って

「北京かわら版」編集顧問 櫻井澄夫

   日本料理コンテストは七回目を迎えた。今回も下手な司会をやらさせてもらった。一年に一回の開催だから、初回から七年が過ぎたことになる。私は第一回の時から北京にいたものだから、かわら版の編集長の根箭さんや、高橋正毅弁護士、そして居酒屋兆治の田端秀臣さんたちが、北京でこのコンテストの計画を話し合っていたことを、つい最近、建物が消えた兆治の同じテーブルで聞いていたことを昨日のことのように思い出す。そして、根箭さんにお前も加われということで、参加させられ、一緒に以前の大使公邸に当時の國廣大使にご協力のお願いに行った。大使公邸の中に入れてもらったのはこの時が初めてだった。七年前、北京の日本料理店は二十店舗しかなかった。今は二百を数えるそうだ。つまり、日本料理コンテストの七年は、北京の日本料理店が大増加した七年でもあると言える。単純に計算して十倍、調理師の数も二十倍近くになっているのだろう。

   日本料理店の技術の向上、日本料理の普及などを目的に開始されたこのコンテストの効果、影響を正確に分析するのは難しい。しかし、コンテスト出場者に対する各店の特訓のしかたなどを聞くと、間違いなく技術は向上し、教えられた人が教える側にまわり、調理師の底辺を広げている。私たちは、自分の舌でその確認をするしかない。いやもう毎日のように一杯傾けながら、その効果を無意識に了解している人も少なくないはずだ。残念ながらこのコンテストの発案者三人はもうこの世にいない。しかし、間違いなくこの人たちの目的は達成されつつある。七年間の生き証人として、そのことをあらためて銘記しておきたい。

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