中国を集める63
奈良大学教授 森田憲司
岩波写真文庫 『北京』
前前回に、『北京旧城』という本を紹介して、1950〜60年代の北京の街の建造物とそれを取りまく景観が珍しく、貴重な写真集だと書いた。その時には、日本にこの時期の北京を撮影した写真集があることを、すっかり忘れていた。
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岩波写真文庫221『北京』 |
その写真集とは、岩波写真文庫の『北京』で、刊行されたのは1957年。写真撮影は戦前にも中国で活躍していた名取洋之助。彼は日本に報道写真というものを確立した人物とされ、土門拳も彼の工房で育った。
岩波写真文庫には、北京だけではなく、「江南 蘇州・紹興など」、「四川 楊子江など」、「広州-大同 中国南から北へ」などの中国を主題にした、名取洋之助撮影の巻があり、いずれも1957年に刊行されている。
岩波写真文庫といってもご存知ない方のほうが、今では多いかもしれない。B6版総アート紙64の写真が主体の冊子で、「木綿」、「石油」、「正倉院」、「蛔虫」、「空から見た大阪」、「家庭の電気」など、人文社会から自然科学、さらにドキュメントまで、幅広い内容で、いわば文化映画(この言葉も死語か)の冊子版といえる。数百冊が刊行されており、名取洋之助の中国シリーズは、その221〜224番である。
本の寸法の関係もあって一つ一つの写真が小さいのが残念だが、この『北京』は、同時代の中国の姿をビジュアルに紹介してくれているものとして、貴重な書物だった。今回思い出して、久しぶりに書庫から引っ張り出してみた。もちろん時代の空気を反映して、新生中国、人民が主人公の国といったイメージに繋がる写真も多いが、筆者のように古い街並みへの関心を持つ者にも、面白い写真が含まれている。40年以上前の北京の光景の中には今日でも変わらないものもあれば、すっかり様変わりしたものもある。なにしろ、城壁については、こわされつつある、と書かれているし、北京站はまだ前門にあって、崇文門の踏切の写真もある。人民大会堂や歴史博物館といった*十大建築が出現するのは革命十周年の1959年だから、それより前の北京の街の風景ということになる。
写真を見ていて一番関心を持ったのは、前門の正陽門を正面から撮影した写真だった。もともと中国の都市の城壁には半月形の張り出しがあり、攻めてきた敵をその中に誘いこんで攻撃する役割を持っていた。これを月城とか瓮城(オウジョウ)と呼ぶ。城壁が残されている西安や平遥では、現在でも月城の構造を見ることができるが、月城の上にも楼閣が建てられることが多かった。前門の場合、正陽門が城門で、箭楼が月城の上に建てられていた楼門であった。この本の中には、永定門の城門と月城も写真が載っている。
正陽門の写真が面白いのは、正陽門の前に建つ二つの建物がいっしょに写っている点にある。戦前の地図を見ると、正陽門の月城には、観音大士廟と関帝廟があったことがわかるのだが、これは明らかにそれだ。そう言えば『北京旧城』のこの場所の写真は、ま横から撮影されたもので、正陽門と箭楼との間の空間の状況はよくわかるが、それと思って見なければ、二つの廟の姿はわかりにくい。その点で、この写真は、戦後のこの廟の姿を伝えてくれる貴重な写真となっている。
三国時代の蜀の武将関羽を祀った関帝廟は、武神、あるいは財神として中国の人々の信仰を集め、村に必ず一つは関帝廟があるとか、中国人のいる所で関帝廟の無い所は無いと言われるほどだが、この北京月城の関帝廟は、やはり内城地安門外の白馬廟と並んで、数多い関帝廟の中でもとくに有名なものなのだ。創建されたのは、明の洪武二十年(1387)といい、財神として北京の民衆の信仰を集めた。同じく明の万暦四二年(1614)には、皇帝から「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」の位を贈られている。もちろん、1957年の段階で寺廟としての機能が残っていたかどうかは不明だが。
ちなみに、同じページの下段には「人民広場」(天安門広場)の風景が掲載されているが、天安門には毛主席の肖像画は見えない。また、広場拡張のために撤去される前の中華門の写真もある。
メモ
十大建築
- 北京駅
- 人民大会堂
- 人民英雄紀念碑
- 中国歴史博物館
- 中国人民革命軍事博物館
- 民族文化宮
- 中国美術館
- 全国農業展覧館
- 北京展覧館
- 北京工人体育場
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