◆◆留学生必見◆◆
中国サバイバル指南 第5回
社会人インタビュー VOL3

   このコーナーでは、夢を抱いて留学している留学生、中国で事業を起こし成功している日本人を紹介し、中国で成功するヒントを提供します。
   社会人インタビュー第3回目は、中国でのテレビ番組撮影、CM撮影、広告制作などのコーディネーターとして活躍されている赤羽さんのご登場。赤羽さんはまた、北京でアウトドアショップを経営し、アウトドアを通しての日中交流の可能性を模索しています。

企画・構成・執筆 坪井信人

私たち二人ができること、
「言葉」で勝負しよう

「お前らこじきか?」 これが中国初体験

《プロフィール》
赤羽光一(あかばね こういち)
81年、日中友好親善ワンダーフォーゲル隊の一員として、日本人学生としてはじめて中国大陸徒歩旅行を企画、実践。84年より地方自治体勤務。95年春、北京経済学院(現首都経済貿易大学)留学。96年、日本に帰国しテレビ番組制作プロダクションに就職。97年、北京にてテレビ番組、CM撮影、広告撮影のコーディネートを始める。98年、アウトドアショップ「Snow Bird(雪鳥)」設立。99年、広告代理店「IGT(艾広通)」設立。現在、日中の若者向けのスキーツアーやカヌー講習会などを準備中。NHK-BS1で放送された「アジアWho's who」や、北京の街で見かける「金夏利(ゴールドシャレード)の看板」は、赤羽さんがコーディネートして制作されたもの。38歳。
Outdoor Shop Snow Bird(雪鳥)
北京西城区徳勝門西大街68号
TEL:010-6606-9500
E-Mail:akabane@public.bta.net.cn

かわら 赤羽さんは日本で約10年間、公務員をされていたそうですね。なぜ中国なんですか。  

赤羽 中国との関わりを振り返ると、81年までさかのぼります。私は大学時代ワンダーフォーゲル部の部員として、日本人学生として初めて中国大陸徒歩旅行を企画し、中国の大地を踏みました。「初めて」を強調して下さいね(笑い)。当時の中国を自分の体で体験して、肌で触れて感じてみて、「自分に合う国だな」という印象を強く受けたのを覚えています。その時は、日中合わせて約50人の学生が、上海と江蘇省の無錫周辺をキャンプをしながら徒歩旅行して、黄山にも登りました。大荷物を背負って歩いたので、すぐ黒山の人だかりができたんですが、「何してるんだ」と聞かれて、「アウトドアライフ(野外生活)」と答えたら、「お前らこじきか?」と言われたものでした(笑い)。当時の中国にはアウトドアがなかったんです。そんな中国の状況を目の当たりにして、今に繋がるんですが、「中国の方にもアウトドアの楽しさを知ってほしい」という希望を持つようになりました。

かわら では自分の職業としてなぜ公務員を選ばれたのでしょう? 私には中国との繋がりがないような気がするんですが。

赤羽 「町興し」とか「国際交流」に関心を持っていたので公務員を選びました。国際交流事業を通して、中国と関わりがある仕事がしたいという気持ちを持っていたので、全く繋がりがなかったわけではありません。しかし自治体のようなお役所では、自分の意のままに希望は通りませんよね。そして結局、10年経っても中国と関わるチャンスは巡ってこなかった。そこでどうしても捨てられない夢を実現するため、10年で公務員を辞めて、北京に留学することにしたんです。これは自分の中ではぎりぎりの選択でした。「ここで公務員を辞めないと一生新しい道は歩めない」と。

かわら 中国留学の時には、公務員という安定した仕事を辞めて、「さあ、中国だ!」と突然乗り込んできたのでしょうか。

赤羽 いいえ、公務員時代から中国語学校に通って準備をしてきました。私が中国語を本格的に勉強したいと思った年は、日本でちょうど週休2日制が始まった年。公務員は2連休を取りやすかったですから、その2日間を利用して中国語講座に通い始めました。ただ、地元栃木には中国語学校がなかったんです。そこで土曜日の朝の新幹線で東京に出て講義を受け、夜は東京に一泊し、日曜も1日講義を受けて新幹線で帰宅するという生活を続けました。

かわら その後、留学を決断したわけですね。留学時代はどのように過ごされたんでしょう?

赤羽 とにかく勉強しました。北京へ来た時はもう33歳だったので、「後はない」と思っていましたからね。もちろん、40、50になっても勉強が出来る人はいるでしょうが、30を過ぎて今までと違う人生を歩むには相当な努力が必要だと思ったんです。元々旅行は好きですが、旅行などでエンジョイしようという気持ちはありませんでした。周りの留学生から見れば悲愴感が漂っていたかもしれません(笑い)。

かわら あ、私の周りにもいます。「すごい……。オーラが出てる」って思わせる勉強熱心な方が(笑い)。

赤羽 30を過ぎると記憶力も落ちるんです。以前は気付かなかったのですが、それを留学で痛感しました。周りは20前後の若い留学生が多かったですから、暗記するのも早かったんです。みんなが遊んだり酒を飲んでいる時も勉強しなきゃ習得できない、1年という時間で中国語をマスターしたいと気合いを入れたんです。

留学時代に築いた就職先との信頼関係

かわら 赤羽さんのお話からは、自分の道を歩こうとする意志の強さがひしひしと伝わってきます。次に約一年の留学を終えてからについてお聞かせ下さい。

赤羽 日本に帰国し、テレビ番組の制作プロダクションに入社しました。この会社は、留学中から縁があった会社です。私は留学中、あるパソコン通信の「中国アウトドア事情」というコーナーの原稿を書いていました。大学時代から中国のアウトドア事情に興味があり詳しかったので、中国の若者の釣りや山登り、キャンプなどの様子を取材して、毎月1回原稿を送っていたんです。その原稿を送っていた会社が、帰国後就職した会社でした。映像の仕事は経験がありませんでしたが、公務員時代に担当していたのは広報誌の制作でしたから、職種の違いこそあれ、「何かをゼロから作り上げていく」という点は共通している仕事でした。もちろん、テレビ用語などは何もわからなかったですから、一から勉強でしたね。日本では日本語でテレビ用語を覚え、後に中国に来てコーディネーターの仕事を始めてからは中国語でその言葉を覚え……と。今のコーディネーターとしての仕事の基礎も、留学を終えて日本で働いていた時に身につけたものです。

かわら なるほど。どれだけ勉強されたかを想像するだけで、ん〜、気が遠くなりそうです。日本での仕事を経て、今は中国で仕事をされていますね。

赤羽 はい。いろんな事情があったんですが、「とにかく中国に来たかった」というのが本心です。公務員を辞めてまで中国に留学したわけですから、中国で仕事をしなければ意味がない、と。一年ちょっと日本で働いてから、97年春に中国で仕事を始めました。

「中国は面白い!」と、日本にどんどんアプローチ

ゴビ砂漠取材のコーディネート
かわら 現在はどんな事業をされているのですか。

赤羽 大きく分けて3つの仕事をしています。ひとつはフリーランスでのコーディネートの仕事。二つ目は中国人パートナーと共同でのアウトドアショップの経営。3つ目は、広告会社の経営です。

かわら コーディネートと言われてもちょっとピンと来ないのですが。

赤羽 具体的に言えば、テレビ局の中国大陸での撮影のコーディネート、広告代理店の中国大陸でのCM撮影や広告制作のコーディネートなどです。要するに、日本から撮影隊が来る場合、空港まで出迎えに行って、お客様からの要望に添えるようセッティングしたスケジュールでロケを進めてもらい、最後に空港で見送るという仕事です。待っているだけでは仕事にならないので、「こんなことができる」と、日本の雑誌に広告を出したり、「中国はこんなに面白い!」と、いろんな会社に企画書を送ったりして、こちらからアプローチしています。最近も私の企画に興味を持った日本のアウトドア雑誌が取材に来ました。

かわら ではアウトドアショップと広告会社にはどのように関わっているのですか。

赤羽 アウトドアショップでは小売りと卸しの両方をやっていますが、店舗にはなかなか顔を出せないので中国人パートナーに任せっきりです。卸しの方では、トレーディングマネージャーとして、輸入の交渉などを担当しています。広告会社は、広告デザインをやっている友人がいたので、彼と一緒に仕事をしてみることにしました。立ち上げたばかりなので、今後の展開はまだまだ未定です。

ゴビ砂漠取材のコーディネート
かわら なぜコーディネーターをしようと思われたのでしょうか。

赤羽 コーディネートという仕事が自分に向いていると、ずっと前から思っていたんです。こんなことを言うと、「自信過剰だ!」って思われてしまうかもしれませんが、学生の時も公務員の時も今に繋がるいい経験をしていたんです。学生時代はワンダーフォーゲル部で「どこの山に行くか」といった企画をしていましたし、公務員の時は、広報誌制作の他に、3年ほど福祉の仕事に関わったことがありました。その時、「人にサービスする」という今の仕事に繋がる基本が勉強できたような気がします。

仲間探しは、アウトドアで やっぱり、いい奴はいい!

かわら コーディネーターとして、日本と中国の橋渡し的立場で活躍されていますが、日本と中国のビジネスの違いを感じていますか。

赤羽 中国では、テレビ撮影などの時にいろんな制約があります。社会主義の国ですから当然と言えば当然ですが、日本では何の許可を取る必要もないような場所でも、国家機密とのことで撮影できないケースが多いんです。ですからお客さんから、「こんな場所でこんな画が撮りたい」という依頼があっても、なかなかすぐには撮影できないのが現状です。ただ、こんな時にも人間関係が生きてきます。普通は撮影許可が下りないような場所でも、友人の力添えで撮影できるケースがあるからです。そのおかげで、お客様には最大限満足してもらっています。
   その他、私の仕事柄とも言えますが、人間関係は日本以上に難しいですね。私はまだまだですが、たとえ自分に実力があっても、周りにそれをサポートしてくれる良い友達がいないと、中国で日本人がビジネスをするのは難しい。例えば、雲南省に行って雲南省に友達がいなければ、撮影許可などの手続きに手間取ってしまい、仕事になりません。日本との違いと言えるかどうかはわかりませんが、私のようにフリーランスでコーディネートの仕事をするには、全国に友達がいなければやっていけません。

かわら 日系の大きな会社で、ブランド名があれば、知り合いがいなくても大丈夫なんでしょうね。

赤羽 そうでもありません。中国には「内外有別」という言葉があり、知り合いかどうかが重要になります。日本では大企業に所属していれば、その名前だけで取り引きが出来てしまうことも多いですが、中国ではそれがない。肩書きでもダメです。いくら「社長だ!」と言っても、社長は星の数ほどいますから、「それが何だよ!」になってしまう。それより「良い友達関係」の方がずっと大事なんです。

かわら 「人間関係の大切さ」はよく耳にしますが、どうすれば良い人間関係が築けるんでしょうか。

赤羽 「一朝一夕に出来るものではない」としか言えません。今、中国で私を助けてくれる友達は、日本にいる時から長年付き合ってきた人が多いです。中には十年来の付き合いの友達もいるくらいです。中国に留学している1、2年の間に良い関係を形成しようと思っても難しいのではないでしょうか。

かわら では、ビジネスのパートナーとしては、どんな中国人が信用できるとお考えですか。

赤羽 国籍に関わらず、人を信用するのは難しいものです。ただ私の場合、アウトドアを一緒にやって、相手がどんな人かを見極めています。本当かどうかは知りませんが、「山をやる奴に悪い奴はいない」という言葉がありますからね(笑い)。アウトドアショップのパートナーも山に一緒に遊びに行って出来た仲間です。一緒に苦しい活動をすると、疲れた時にずるをしてしまう人と、自ら進んで他の人を助けられる人の二つのタイプがいますから、「あ、こいつは信用できる」っていうのがわかってくるんです。日本と中国では生活習慣も思想も違いますが、根本的に、いい人はやっぱりいいんだと思います。

かわら 最後に今後のビジネスの方向性をお聞かせ下さい。

赤羽 コーディネートの仕事は、日本の景気とも連動しますが、まずは多くの方にコーディネーターの存在を知ってもらうことが大切だと思っています。大都市の友達の他、少数民族の「援軍」も大勢いますから、中国大陸どこでも対応できます。今は中国人スタッフと二人でコーディネートをしていますが、今後うまくジネスが拡大していけば、パートナーも増やしていきたいと思っています。私は体育会系ですから、口で言うより、誠意を態度で示せるような方と一緒に仕事がしたいですね。
   アウトドア関係では、スキーバスや山登りツアー、カヌーツアーなどの企画を準備しています。実は東北地方にも新彊にも雲南省にもスキー場はあるんですが、中国ではスキーはそれほど知られていません。そこで、スキーの楽しさを知っている日本人留学生にパイオニアになってもらって、中国にスキーなどのアウトドアが根付いてくれたらうれしいです。以前私の店を訪ねてくれた留学生も言っていたんですが、そんなツアーを通して、日本人留学生と中国人学生が交流できたら面白いんじゃないかなと考えています。81年に初めて中国に来て以来心に抱いてきた、「中国の方にもアウトドアの楽しさを知ってほしい」という夢が、ようやく実現できるところまできました。

かわら 赤羽さんの仕事が、日中の相互理解の一助になることを願っています。

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