「嘘でもホントでもどっちでもいいじゃん」
本当ならば二週間程前になるのだが、先日ガイナックスの新作OVA『フリクリ』の第1巻を見た。
ガイナックスというのもさることながら、エヴァ劇場版25話「Air」監督、カレカノでも4話や12話の絵コンテでその力量をみせた、大ファンの鶴巻和哉氏の初監督作品というのも楽しみにしていた理由の一つだ。ただ、事前にアニメ誌で情報を得たりプロモフィルムを見る限りでは、どうもパンク的なマニアックな作風のような気がし、あまり万人受けしないのではないかという心配があった。
けれども実際に現物を鑑賞すると、序盤でそんな心配も薄れ、見終えた後には完全にそうした印象はふき飛んでいた。カレカノで生みだした、ディフォルメされた動きと作画の面白さを全面に出す手法や漫画のコマ割りを踏襲した手法などが全編に配置されており、いやがうえにも鑑賞する楽しみに引き込まれる。それと平行しながら、主人公にして小6のナオ太の思春期にさしかかるとまどいと、女子高生マミ美のなんとなく現実になじめない様子など、まだ満足にコミュニケーションのとれない若者の感覚が描かれる。といってもあくまでそういう気分ということであり、ところどころにあるギャグのおかげでまったくといっていいほど鬱屈した雰囲気は感じることはない。二人の間に割り込んでくる謎のベスパ女「ハル子」のハチャメチャでいい加減ぶりが、余計にそういったものをふき飛ばしている。(ハル子役の新谷真弓さんはカレカノのつばさ役の人であるが、つばさよりも大人っぽい演技をしており、同じには聞こえずなかなかハマっている)
そして全編に響きわたるイカしたギターロックがバツグンにマッチしており、若者的感覚ともとに、この作品がポップでパワーあるものに仕上がることに貢献している。
このように、この作品は思春期の少年少女のまだ現実に足をつけていない感覚を、ノリの良さとギャグのパワーによってすんなり見せてしまう作品であったのだ。
真面目すぎるでもなくふざけすぎるでもなく、見ようによってはどっちにもとれるような曖昧さであり、まさに次回予告の「嘘でもホントでもどっちでもいいじゃん」の決めゼリフそのままの作品である。このセリフがひっかかってとてもお気に入りなのだが、これを単純に「いいかげん」という意味のみだととらえないで欲しい。この現実世界においては、ある事柄についてどちらが正しいか求める必要もない場合も、もしくは決められないこともある。それを必ずしも結論を出す必要もないし、何よりどちらか決めつけてしまうのも思考の幅を狭める危険がある。イチイチ嘘かホントかを吟味するより、自分にとってどうなのか、どう対処すべきものなのかを考え大事にすることの方が重要であり、それこそが若者に与えられた特権ではないだろうか。それにまだ若い人間が自分のことを語ったとしても、それが本当のことかは本人にもわからないかもしれない。結局何がホントで何が嘘か、今の自分でいいのか悪いのかもはっきりとは判らない。だが、若者はいつの世だってそうであり、そんな中で手探りですすんでいくはずである。
そんな雰囲気に満ちたこの作品はまさに「今どきアニメ」なのだ。
もう一つ、この作品を通して強く感じたことがある。
エヴァで日常描写、心理描写を確立したガイナックス。「リアル描写」ともいえるそれは、以後アニメ界に少なからぬ影響を与えたのは周知の通りである。それはいわば演出先行型のものであり、画でいえば動きの少ないもので、時には一枚絵を使用したフィルム作りであった。
先日、雑誌「アニメスタイルVOL.1」についてを日記に書いたが、この本からは「最近のアニメは止め絵をいかにうまく描くかに力を注いでいる。動きを楽しむこともアニメの大事な要素ではないか」という趣旨が伝わってきた。まったくその通りだと思っていたのだが、そこへきてこのフリクリである。
動きの妙や表現を、そのまま作品の面白さとして提供するのはまさにアニメスタイルを通して語られていたことだし、最近では見ることのできなかった新しいともいえるスタイルだ。
エヴァ以降、リアル描写リアル演出が蔓延する一方で、当のガイナックスはそれにこだわらず新たな方向を模索していく。これを「ガイナックスが常に一歩先を行く」と受け取るかは個々によって違うだろうが、これもまた「今どき」の現象といえるだろう。
P.S 個人的にナオ太の同級生の女の子ニナモリが気に入ったのだが、三巻は彼女が主役ともいえるそうで今から楽しみだ。
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