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今僕の3話放送直後、まずは自分の意見を書き記してみました。(10/30)


 「今、そこにいる僕」 3話を見て 

 

■見え始めた作品の本質
・先日放送された『今、そこにいる僕』の第3話「闇の中の宴」。これでもかと痛めつけられ拷問を受けるシュウ、味方の犠牲も気にせずに使われる超兵器の残虐性と戦争の真実、そしてなんといっても男(兵士?)の慰みものとなって絶望するサラの姿、そうした心痛むシーンが続きながらも何らの救いを見せなかった内容であるため、いろいろと騒がれているようだ。そこで私の考えをつづってみようと思う。

私自身はこうした辛いシーンに心を痛めながらも、そう感じられるだけの作りに引き込まれ、くいいるように見ていた。誰にも救いを示さなかったことは、確かに重くのしかかり視聴後にも引きずることになるが、「こういう作品なのだから」と理解し、この先を見届けたいという意欲はさらに増すこととなった。

■必要性の是非は必要か
とはいえやはり抵抗を示す人はいるわけで、いくつかネット上を見ると予想以上に敏感に反応している人は多く、ほとんどの場合、やはりサラがレイプされたであろうことが話題の中心である。そうした拒絶反応を示した人の文章には「あのシーンは必要性があるのか」という意見が多く見られた。また、これに関連すると思うが、ある掲示板で「人違いの囚人に対して行なわれたのだから、直接の加害者の属性、権力内の意思決定の過程の描写が必要。 性暴力がただ戦争の悲惨さ表現するための技法として利用されており、安易だという印象を受けた」という書き込みを見た。
確かにアニメというのは人の手で作られるもの、フィクションである。しかしだからといって全てが必要性にもとづいて作られるものだろうか? 「主人公の内面の優しさを引き立てるためにこの人物を用意した」「このシュチュエーションを引き立てるには雨でなければならかった」といったこともあるだろう。しかしそうしたことだけで作られたものというのは、整合性にはかなっていても、ご都合主義の真実味の薄い作品になってしまいかねない。フィクションとは創作であるがゆえに、「作られたもの」という感覚から脱却すべきであり、「いかに現実感覚を描くか」というこの作品にとっては、それはより重要なはずである。

そもそも、このサラの件は「必要性があるかないか」が問題になるのだろうか?

「必要性がある」という場合には、例えば「この作品を通して見た時に、この描写が必要だった」「この先、サラが救われていく過程を描くために必要だった」というケースが考えられる。
反対に「必要性がない」というのは、まったく逆の「この作品にはあってもなくても関係ないもの」「サラが救われなかったので」といった場合のことを言うのであろう。
しかしどちらにしろ問題になっているのはこの先の展開であり、サラの今後のことである。つまりこの場合の必要か否かというのは、見返りがあるかどうかに基づいてであり、それを持って判断するというのは見返りがなければ描写してはいけないということであり、そうしたルールのようなものは本来フィクションにはあてはまらないはずだ。結局のところ「必要性があるのか?」という発言は、自分が嫌悪感を感じた出来事について、それを受け入れたくないという心理がそう言わせたのではないだろうか。

それを指摘した上であえてはっきり言おう。
あれは起こりうることをただ描いたに過ぎないのである。

毎日を軍隊の練習、もしくは実戦で過ごし、衛生面でも経済面でも満足にいかない戦闘国家。そこに若い少女があらわれれば、ああいう事態が起こって当然である。必要か安易かなどは関係ない、あの状況で起こるべくして起こったこと、ただそれだけのことである。加害者の男にとってみればサラが人違いの人間かどうかはまるで関係がなく、ララ・ルゥのようにハムドが管理している少女ではないので、ハムドにとってはどうでもよくなったサラが標的になったのはむしろ必然といえる。また、このヘリウッドは巨大な建造物であり、人も大勢いるだろうが軍人らしき人ばかりで、さすがにそれだけでは食料などの生産ができるはずもなく、このヘリウッド自体が国家ということはないだろう。あくもでも前線基地に違いなく、ならばこそ暴行も起こるというもの。つまりこの件は必要性や感情面や計算の上に発生したのではなく、この状況下での当然の流れの出来事なのである。
とはいえ、だからといって絶対に描かなくてはいけないというわけでもなく、これには触れない、隠すといった道も当然存在する。しかし、制作側は隠さずにあえて見せる道を選んだ。その姿勢と意志には敬意を表したい。

 

■ここではない戦争
・3話には戦争描写もあるので、戦争についても触れておく。
戦場の(戦争のとはあえて書かない)悲惨さを描いたこの話であるが、これに現実の戦争をなぞらえて語るのは無理だろう。というのも、あまりにも実際の国家や戦争とは違うからだ。
少年を含む兵士が無尽蔵に、しかもほぼ全員が歩兵で投入され、あろうことか味方の強力な兵器のまきぞえを食う。一体、現世のどこにこんな国があるというのか。それこそ古代ローマ帝国とか古代エジプトとか、そういったまだ秩序のない時代に求めるしかない。それにどの時代どの国においても、兵士というのは国家を、国土を、国に住む家族を守るために戦うのが常であるが、この作品はそんな様子はみじんも見えず、兵士達は「戦うのが当り前」と、特に選択する機会も考える時間も与えられずに兵士になっているようだ。まさに、戦闘国家と呼ばれるがゆえんで、実際にはありえない、フィクションならではの価値を持った世界であり国家なのである。そこでは人権や人生観や女性観といった価値観が、すでに現実世界とは別物なのだろう。そうした一種歪んで片寄った世界だからこそ、余計にサラの身に悲劇が起こりやすかったともいえる。
確かに戦争のもつ残虐性、非人道性などを描こうというのは見てとれるし、そういう意味では戦争を扱っているといえる。ただ戦争というよりも戦場の、「戦いあう」「殺しあう」といったことがどういうことなのかをクローズアップしたいので、そのために戦争を用いているのであろう。そしてなにより、先に述べたようにこんな国家、こういった戦争をする国家は現実にはないのだから、こういう局面はあるかもしれないが「これが実際の、本来の戦争だ」などとは思わないでほしい。

 

・最後に、「ゲーム批評002号」の大地監督のインタビューを抜粋し、監督が本気であることを示しておこう。

新作は、つらいんですよ。『今、そこにいる僕』は、少年ドラマシリーズ(NHKで放映された連続ドラマシリーズ)のテイストで、と思ってるんですけど、その前段階として、やりたいからやってるのと違って、今やらなくてはと思って作ってる。アニメーションって戦いを描くもの多いけど、でも敵を倒すこと、強くなることって本当に正しいんだろうかって。でもたぶん自分の作品の中にはこれからも戦いがでてくるだろう。そういう自問自答があった。この辺で一回、自分への戒めの意味を込めて、戦いの辛さ、冗談ではない部分を描いておかないと示しがつかないという気がしたんです。でもね、いい結果がでるかどうか。分からないですね。
                             (中略)
差別的な表現については自主規制も厳しいし。どうしてそうなのか、その理由はよく分かる。でもそれが違う方向に向かっている気がしてるんです。当たり障りのないもの。当たり障りのない中で過激なものということに向かってしまっている。どこかにスピリッツを忘れてきちゃっている気がするんです。
                             (中略)
辛いです。作ってて心が痛くなります。おまけに全てが上手くいくような終わり方をしないかもしれない。今ドラマを見ている人って必ずハッピーエンドを求めるんですけど、たぶんそうはなりません。ただ、ハッピーエンドに持っていく方法はあるはずだ。そういう部分は必ず残したいと思ってます。それは絶対にあるはずだから。ただそこまでいくにはものすごい努力と時間が必要だというのは実際にあるわけです。13本のドラマでできることは限られている。でも、その中で見たことを忘れないでくださいと思ってます。

 

 あえて意地悪な書き方をしよう。

この3話を見てイヤな思いをした人、見終えた後もサラの件が脳裏から離れない人がいたということは、この回は成功したということだ。
嫌悪するのはかまわない。ただ、それは作品中の出来事に対してであって、作品自体や制作側を嫌悪するのは筋違いである。少なくともこの作品は暴行を認めるのではなく、それを「嫌悪すべきもの」として描いたのだから。

 


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