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 これは98年5月下旬に発売された商業評論誌「ポップカルチャークリティークVOL.2 〜少女たちの戦歴」に私が寄稿し、掲載された文章です。 「非日常に頼ってきた今までのアニメ。これからは日常描写が大事」は今年の私の論調になっています。


魔法少女サミーと変身少女りりか

          二つの終着点

■現実という戦い

 アニメ誕生から四十年。少女、女の子が主人公の、いわゆる「少女もの」に属するアニメはその歩みとともに数多く作られてきた。ターゲットである視聴者の女の子に夢を見させる、または楽しませるといった番組の性質上、非日常的な要素が多く盛り込まれているのがほとんどである(もちろん『ハイジ』や『キャンディ・キャンディ』などの名作物もあるが、これらは舞台がヨーロッパであることが視聴者には非日常的であり新鮮なのだろう)。
 魔法、変身、不思議なペット、アイテム、魔法の国、異世界、悪の組織等、リアルで現実的な作風とは程遠い。
 番組内容がこれ全て幼児向きの、メルヘンで空想世界的な予定調和の“おとぎばなし”、例えば『メリー・ポピンズ』のようなものであれば何ら問題はない。しかしアニメの主人公はその番組の中で生きる生身の人間であって、「悩み」「不安」といった現実的なものに支配されるわけであり、またそのような描写をするのも視聴者の共感を得ようとするテレビ番組ならば必然であるといえる。
 しかし先ほど述べた非現実的な作品世界の中で、現実的な「人物」「人間」を描くのは、矛盾とある種の問題を作りだしてしまう。空想世界、設定を「ウソ」として受け入れながら、その実その中の人物像には「リアル」を感じなければならない。仮にその二つがどんなにうまく表現されていても、視聴者は意識的にも無意識的にもその二つを乖離して、「これはこれ、それはそれ」と受け止めることになる。
 それはお互いを引っ張り合い両者にマイナス面をもたらしているように思えて仕方ないのだが、なんとなくそのままでいいといった雰囲気のまま、今日まできてしまっているようでもある。
 この本のテーマである『戦い』とは、人間が生きるうえで避けて通れない、極めて普遍的で日常的なまさに「リアル」なものである。戦いを描くならばそれなりの現実感をともなっていなければ、それはやはり作品の設定部分と同じく、絵空事にみえてしまう。逆にいえば、「リアルを描く」ということはイコール「戦いを描く」ことに通じるのではないだろうか。

 前置きが長くなってしまったが、ここでは非現実的な設定と現実的な人物像が乖離してきた中で、それに一石を投じたつい最近の二作品『魔法少女プリティサミー』(テレビ版)と『ナースエンジェルりりかSOS』にスポットを当て、番組のリアルとは、個人のリアル=個人の戦いとは何かを模索してみたいと思う。

 

■まれにみる異質な生まれの魔法少女アニメ
 『プリティサミー』TV版

 一九九六年十月より放送されたテレビ版『魔法少女プリティサミー』。それは初のテレビ化ながらすでに別のメディアでは何作にも登場し、なおかつそれ自身純粋な意味で『サミー』ではないという非常に特異な作品である。
 もともとは九二年からリリースされた、同じAIC制作による美少女満載OVAの元祖ともいえる『天地無用!』に登場する砂沙美というキャラクターが全ての始まりであった。七作目に作られたその番外篇の中で、とりたてて何の力ももってない砂沙美を魔法少女にしてしまえというスタッフの遊び心で、「プリティサミー」に変身したのが最初の登場である。そのあからさまにいいかげんなネーミングや衣装で、まさにその場限りのお遊びキャラクターだったのだが、『天地』ファンにはおおむね好評で、またスタッフもそれなりに気に入ったらしく、そのすぐあとに作られた『天地』のミュージッククリップ集ではプリティサミーのみのクリップが作られている。そしてその後九五年、『天地』シリーズではなく『サミー』オリジナルの人物を登場させ、一応の独立作品としてOVA『プリティサミー』が発売された。一応というのは『天地』のキャラが別設定で登場するし、『天地』ファンのみにターゲットを絞ったような作りで内容もあってなきがごとくだからである。

 そして九六年十月、『天地無用!』『神秘の世界エルハザード』と、AICはOVAシリーズで人気を博した作品をテレビ化していたが、それに続けとばかりに『魔法少女プリティサミー』が放映開始となった。視聴者の多くはそのあたりを見こして期待していたと思うが、それはおそらくはいい意味で裏切られる。

 

■売りとは別に用意された

 このようにとてもストレートとは言いがたい、一部のファンにのみ喜ばれそうなイベント的にテレビ化された『サミー』であるが、その誕生の企画通りの単にハチャメチャなだけのオタク向けアニメではなかった。OVAと同じく砂沙美の友だちの美沙緒というキャラが出てくるのだが、砂沙美と美沙緒の友情物語、内気な美沙緒の心を砂沙美が開いていくというその実非常に平凡な、普通の「女の子アニメ」になっていたのである。
 もちろん第一話のサブタイトルがいきなり「サミー大地に立つ!」とパロディだったり、『天地』のキャラがとくに重要でもないのに出てきたりと確かにオタクくささはかいまみえるのだが、本篇の毎回のメインが二人の描写である事がだんだんわかってくると、それらはあくまでも飾りつけの部分であることに気がつく。それほど常に砂沙美と美沙緒という九歳の女の子の視点からの作品づくりなのである。
 魔法少女ものなのだからそんなのは当たり前じゃないかと思うかもしれないが、もともとの『天地無用!』は美女満載という内容からしていわゆる男向けの作品であるし、それにテレビ版『サミー』のスポンサーは玩具メーカーではなくLD発売元のパイオニアであり、『サミー』はいっさいオモチャが発売されることはなかった。これではふつう男向けの作品になっても仕方ないところであるのにそうではなかったことが、テレビ版『サミー』においてまずおさえておかねばならないことである。
 ではなぜそうなったのかといえば、シリーズ構成・脚本をつとめた黒田洋介氏の意図によるものであると思われる。氏の文章をいくつか読んだところによると、「もともと『サミー』は生まれ方からして変則的であり、OVA等のメディアではその路線、キャラクターでもいいだろうが公共のテレビではそうはいかない。かといって完全に切り捨てるわけにもいかず、そういった面を見せつつも自分のやりたい魔法少女的な物を盛り込んでしまおう」ということらしい。つまりもともとが特別変異的に生まれた『サミー』だからこそ、氏が本当にやりたかったことを、それを隠れみのにやってしまおうということができたわけである。それは九歳の女の子の友情物語として発揮されたと思うが、もう一つ、この作品では魔法少女ものとして一番大事な「魔法」について、黒田氏の解答をまのあたりにすることができる。

 

■もしも魔法があったなら

 「魔法」……。子供のころから知っている言葉であり、テレビを見ればいつでも当たり前のように存在するものである。しかしそれが一体なんなのか、どんなことができるのか、あってもよいものか、具体的に示されたことはまずないしそのあたりを真剣に考えたことがある人はほとんどいないだろう。魔法ものは数多く存在してきたにもかかわらず、その根源たる「魔法」についてはあまり言及されないまま放置されてきたような気がする。
 魔法には大別して二種類があり、一つは『魔法使いサリー』に代表される、何かに魔法をかけ、姿や大きさを変えたり宙に浮かせたりする「使役魔法」。 魔法というとこちらがメインであろう。
 もう一つはいわゆる『魔法の天使クリーミィーマミ』など、いわゆるぴえろ魔女っ子ものに代表される「変身魔法」。こちらのほうは私はじつは「魔法」だと思っていない。自分の姿形が変わるだけなら『サイボーグ009』の007やターミネーターのような場合だってあり、これは一種の「能力」だと思っている。『不思議なメルモ』だって「能力」のある薬を飲むだけのことであり、その薬自体に魔法の力があるかなんてあまり関係のないことだろう。(余談だが、自分が瞬間移動できる『エスパー魔美』や空を飛べる『ななこSOS』等は広い意味での「使役魔法」であると考える)
 そんなわけでここでは「使役魔法」について考えてみたいと思う。『魔法使いサリー』『魔女っ子メグ』『魔法のプリンセスミンキーモモ』と、かつての使役魔法使いはいろんな魔法を使ったが、思いおこしてみるとそれほど大がかりなことはできなかったと感じる。目の前に花をだしたり、目の前の人間を浮かせたりと、スケールとしてはとても小さい。『サリー』の最終回で学校に雨を降らせる話は有名であるが、それぐらいのことが「大魔法」であったりするわけだ。これらのことをつきつめると、使役魔法というのは自分の目の前がその範囲であり、「花」「人物」といった具体的なものしか扱えない非常に現実的な観点からのものであることに気がつく。魔法という非科学的で空想的なものがそんなばかなと思うかもしれないが実はそうなのだ。仮にサリーが「この世でいちばん怖いモンスターよ、出ていらっしゃい」と言ったら出てくるだろうか。「世界よ、私のものにな〜れ」と言ったらなるだろうか。
 そんなはずはない。「この世でいちばん」とは人によってまちまちだし、「世界が私のものになる」も、なにをもってそうなったといえるのか分からないし、どちらにしろ曖昧な望みはかなったのかどうか判別しがたいことである。どちらかといえば「願い」に属するものであろう。つまり魔法というものは術者の想像に及ばないことが実現できるはずはなく、必ず万人共通でそれを現実として具体的に仮想可能なことしかできないはずだ。裏をかえせば、魔法とはそれを使った後の現実を想像し、「それを実行するための力」と言い換えることができるかもしれない。

 ここで『サミー』の話に戻ろう。何度も述べたように『サミー』はとてもストレートとは言いがたいプロセスを得て企画された番組であり、魔法少女アニメになるにあたっての設定も非常に特殊なものであった。

 地球の姉妹星、樹雷星の次期女王に選ばれた津名魅は、しきたりにより地球での自分に相当する人間に善行をしてもらわねばならず、地球の少女である砂沙美に魔法のバトンを渡す。砂沙美はこれでプリティサミーに変身できるようになるがこれは『マミ』などの変身魔法ではなく、運動能力の向上や必殺技の存在など、魔法の力によって変身や能力の補強を行う広い意味での使役魔法と解釈している。
一方、津名魅のせいで女王になれないライバルの裸魅亜は、その邪魔をせんと美沙緒をピクシーミサに変身させてサミーにぶつけるという形式で話が始まる。
 サミーが赤の他人に善行をすることはほとんどなく、ミサが悪事を行いそれをサミーが退治するというのが毎度のパターンだ。ミサはサミーに良い事をさせまいとする行動がサミーを登場させてしまうし、サミーはミサがいなければ変身する必要もなく、こうなるとそもそもなぜ二人が変身するのかということ自体に疑問が湧いてくる。魔法少女ものをするための無理やりの設定といってしまえばそれまでだが、その矛盾をもとに用意された、シリーズ構成黒田氏のねらいがあった。
 お約束として砂沙美も美沙緒も相手がサミーでありミサであることを知らないわけだが、シリーズ中最高の盛り上がりを見せる十九話、二十話の前後篇。その十九話のラストでついにお互いの正体がばれてしまう。内気で引っこみ思案の美沙緒は、ようやく砂沙美に心をひらけてきたばかりのところに自分がミサとなって砂沙美であるサミーを苦しめていた事実に驚愕し、泣きながら夜の街をさまよう。
 そして砂沙美は自分のせいで美沙緒を傷つけてしまった事を悔やみ、「サミーに変身したからこんな事になったんだ。こんな魔法があるからいけないんだ。こんなバトンなんかいらないよぉっ!!」とバトンを地面に叩きつける。不可抗力でありながらも、このような反応をするのは子供らしく納得のいくものである。そしてこのセリフこそが、砂沙美と視聴者に「そもそも魔法とは何か?」を考えさせる引き金になり黒田氏の解答の始まりでもある。
 その後の二十話で砂沙美は美沙緒の心に入りこみ、彼女の必死の呼びかけにより美沙緒の心を呼び戻し、二人の力を合わせ美沙緒の心の負の部分、ミサを退治して、より深い絆を得る。まずこの回では本当に困った時には魔法の力は何の力もないことを、必死に美沙緒に呼びかける砂沙美を通して伝えている。美沙緒の心のなかの怪物を倒すときに魔法を使うが、それはどちらかといえば二人の協力によるもの、といった描写である。
 そしてその次の話である二十一話「魔法があってよかった」では魔法に対する黒田氏の解答が示される、ある意味『サミー』の最終回といってもいい回だ。
 この回初めてサミーは他人のために魔法を使う。砂沙美のクラスは文化祭に合唱を行うことになるが、あの内気な美沙緒がその伴奏のピアノを弾くと、みずから申し出たのだ。しかし美沙緒の父はピアニストで世界を回っており、今どこにいるのかはわからない。砂沙美は何としても美沙緒の父に美沙緒のピアノを聞いてもらおうと、魔法で父のいるところにテレポートできないかと練習を始める。結局それはうまくいかないが、どこにいるかわからない父に手紙を送り届ける魔法に成功し、無事父は文化祭当日現れ、砂沙美は久しぶりに父に体面しその胸で泣く美沙緒を見ることができた。そのとき美沙緒にバトンを手渡したペットの魎皇鬼が次のセリフをしゃべる。

 「魔法で人を幸せにすることは出来ない。でもね、幸せにするお手伝いは魔法で出来る。絶対できるってボクは信じてる」

 これだ。

 人を幸せにすることができないとは、過去の幾つかの魔法少女ものを否定しかねないセリフだが、『サミー』を見てきた人間にはこのセリフは実感をともなって伝わるはずだ。魔法が万能でないことはこの前の回で示されたことだし、そうでなくても少し考えれば当たり前のことである。「A君が幸せにな〜れ〜」などと魔法を使ったところでそうなるわけはないし、だいいちそれ以来A君が幸せな人生になったとしてそれが魔法のおかげだなんて証明しようがない。それでは「おまじない」も「願かけ」も「お百度参り」も【魔法】だということになってしまう。そんな抽象的かつ神がかり的な、行使されたのかどうかも分からないようなものではなく、使役魔法とは目の前のものを現実的に変化させるもののはずだ。それはせいぜい人生のほんの一時の状況をよくするといった、サポート的なことにしかならないしできないはずである。この回の砂沙美の魔法は魔法でなければできないことではなく、速達よりも早い郵便ということでしかない。せいぜい自転車より車がいいといった「便利」ということでしかない。その便利で人が恩恵を得られただけなのだ。

 過去、魔法少女もので「魔法は何でもできる」「魔法は何でもかなう」といったフレーズが当たり前のように流されてきた中、この魔法についての冷静かつ的確な分析と結論は非常に意義のあるもので、結果としてこの魔法に関する等身大のリアルな思想により、サミーの日常の悩みや喜びまでもが絵空事ではなく現実的なリアルなものとして感じることができるのに貢献しているように感じる。
 だからこそ、砂沙美の友を救うための戦いも、美沙緒の自分自身との戦いも、魔法の世界のことではなく現実のなかの日常での「戦い」として、視聴者の女の子に伝わったはずだと私は思う。

 このような思想を盛り込み、さまざまなオタク的な匂いをまざつつも全体的なバランスをとった黒田洋介氏を評価したい。同じスタジオ・オルフェの『大運動会』の倉田英之氏のように、その場限りで全体の構成もバランスもとれないのとは大違いである。
 魔法について、ここまで考察した作品はまれであるし、当分出ないことだろう。

 

■意外と浅い、変身少女の歴史

 「変身少女」というとあまり聞き覚えがないかもしれないが、要は『セーラームーン』のことだ。『セーラームーン』およびそれ以後の同じ系統の作品が「魔法少女」と分類されることがままあるため、それとは区別するために私は「変身少女」と呼んでいる。女の子が何らかのヒーローに変身し、必殺技などを使い悪を倒す、というのが正式な定義であろう。この「必殺技」「悪」という概念が、同じ変身するでも単に大人になるだけといった魔女っ子ものとはっきりと一線を画す点である。
 いまではなんのこともなくふつうに存在する「変身少女」であるが、よくよく考えてみるとやはりその元祖は九二年から放映された国民的アニメ『美少女戦士セーラームーン』なのである。まだ誕生からたった6年しかたっていないのだ。
 この『セーラームーン』がヒットしもたらしたものは、毎度女の子が変身し悪と戦うという点、タイプの違う女の子を複数用意し幅広いニーズに応えた点、水戸黄門よろしく毎度の構成がきっちりフォーマット化されていた点などであり、その後のアニメに多々の影響を及ぼした。そのどれもとりたてて斬新なわけではないが、やはり『セーラームーン』が作られるまでは制作者の間に「女の子がヒーローに変身する」という事に対するタブーがあったように思われて仕方ない。なぜならその発想自体があまりにもオタクくさく、それを正々堂々とやるわけにはいくまいという共通認識があったのではないだろうか。
 しかし現実に『セーラームーン』は放送されその認識を覆えす。その成功の秘訣にはいくつか理由があろうが、一番のポイントは先ほどのタブーを侵すことに対する解答を見いだせたことであると考える。「女の子がヒーローに変身する」というこの命題は、単品ならばアニメファンの欲望にすぎないが、これをつきつめてみると「ヒーローに変身する」ということは「戦う」ということだ。ではなんのために「戦う」のかと考えた時に彼女らの日常を描写し、その「日常を守るために戦う」という基本スタンスが見いだせたのである。だからこそ、『セーラームーン』はアニメファンのみならず広く一般にも受け入れられたのだ。
 事実、『セーラームーン』は今までの女の子アニメよりはるかに多く、主人公・月野うさぎたちの日常が描かれている。そしてその最終回では、うさぎは大切な友だち、その友だちのいる世界、友だちとの日常を守るために戦った。決して世界のためでも地球のためでもない。自分の知る範囲での自分の大切なものを守るためだけに戦ったのだ。だからこそヒーローではなく少女「個人」の戦いとして、あの最終回は女の子の心に刻まれたことと思う。
 残念ながらこの後『セーラームーン』は四年間四作作られることとなったが、初代のシリーズではメインだった「日常描写」「日常を守るため」といったことはどんどん希薄となり、「世界を、地球を守るため」といったお題目が代わりに色濃くなっていく。『セーラームーン』以後、外見だけまねた「変身少女」が乱立したのを象徴するかのようでもあった。

 

■こだわりの日常描写アニメ
 『ナースエンジェルりりかSOS』

 九五年、変身少女ものはアニメ界でごく当たり前になったなか、『セーラームーン』とかなりスタッフをともにし日常をディフォルメ化して強調した『愛天使伝説ウエディングピーチ』が四月に、『こどものおもちゃ』『すごいよ!マサルさん』でその名を轟かせた大地丙太郎氏の初監督作品『ナースエンジェルりりかSOS』が七月に放映開始する。ここからはこの『りりか』について考察してみたいと思う。
 この作品、主人公たる「りりか」がナースエンジェル、つまり看護婦の姿に変身するわけだが、この時点でいかがわしいアニメだなと思った方も少なくないかもしれない。実際、最初の十話ほどは変身して悪を倒すだけのただの変身ものであるように見える。しかし、必ずりりかの身の回りの人間が悪者によってなんらかの異状をきたし、それによって起こる日常の乱れと、その人物を治さんがため行動する主人公の描写にかなりのウエイトが置かれている。『セーラームーン』のように一部の地域に現れ、不特定多数の人間を苦しめる悪者を退治するのとは明らかに違い、悪者は確実にりりかの日常を侵食する形で現れるのだ。当然その前後の明暗をくっきりさせるため、悪者がいない平和な日常描写もたぐいまれなものがあり、なにげない家族や友だちの会話のつみ重ねはへたなファミリードラマ顔負けの仕上がりになっている。
 そんなこだわりの日常描写の例としてこんなエピソードがある。大好きな先輩であり悪の組織・ダークジョーカーとの戦いにおけるよき指導者でもあるカノンを守れなかった悲しみから、りりかはナースエンジェルをやめようと決意する。結論からいえばこの話の最後でりりかは立ち直るのだが、その過程の描写がすごい。ふつうのアニメならばきっかけになるセリフやアクシデントがあって、それで「わかった!」とかなるわけだがそんなものは何もない。事情を知る幼なじみの男の子星夜の気遣いや、落ちこんでいるりりかに声をかける友人や両親の励ましにより、知らず知らず心がほぐされていくありさまが見事に描かれているのだ。
 変身少女ものは変身したり戦ったりすることが第一と思われがちだが、この作品はどちらかといえばそれは二の次である。しかし変身し戦うのが一介の「女の子」だということを考えた時に、その女の子の存在が生き生きと感じられてこそ作品自体は説得力を持つ。その説得力がこの「りりか」のフィルムにはある。こだわりの日常描写が普通の少女が「戦う」というフィクションを、より現実味をおびて伝えてくれる手助けをしているのだ。

 

■日常を守るため、少女は戦い、生きる

 それでいながら戦闘シーンはやや抑えめやおざなりかというとそんな事はない。いざ決戦という際には初代『セーラームーン』や劇場版『セーラームーンR』と同等の、いやそれ以上に傷ついて倒れる描写が克明に描かれ、決して手を抜くことはない。
 この大ボスとの決戦は二クールラストで終止符がうたれるが、そこでこの作品は終わらない。飛び散った黒のワクチンが各地で人間を蝕み、それを癒していくという展開になる。しかしそれに必要な緑のワクチンは残り少なく、それを補える「命の花」を探すことも急務とされ、実体のないものとの戦いや黒のワクチンが確実に広まっていく状況は、むしろここからが本領発揮だとでもいうようにりりかに重くのしかかってくる。

 まだりりかを見たことのない人には申し訳ないが、ここから先りりかの最終回について書かせていただく。どうしてもラストを知りたくないという人は読まないほうがよいが、一つだけ言わせてもらえればここでいくら最終回についての内容や感想を明確に書こうが、実際フィルムを見た時の何十分の一も伝えられないし、またそれ程の出来映えのラストであることをここに明記しておく。
 最終回一話前、りりかの幼馴染みでありパートナーの星夜が黒のワクチンに冒されてしまう。しかし緑のワクチンはあと一回分しかないことを知っている彼は「ただの風邪だよ」とそのことを隠す。しかしそれがばれた時の星夜のセリフ「バカ!最後のワクチンを使い切ったら、ダークジョーカーに負けることになるんだぞ、そしたらみんな死んじゃうんだ。(中略)それでもいいのかよ!」
これを受けてりりかは泣き叫ぶ。

「いいわけないじゃない! でもいま、星夜が死んじゃったら何にもならないじゃない!」

 ここでもりりかはいわゆる変身少女ものの主役ではなく、一人の女の子としてみずからの胸中を吐き出している。ここに建前や約束事はない。あくまでも本音のみが語られそれが視聴者の胸をうつのだ。そしてこのりりかのセリフは最後まで重要な意味を持つ。

 最終回一話前のラスト、黒のワクチンが世界を覆うのは時間の問題であり一日でも早く「命の花」を見つけださなければならないというとき、カノンからじつは「命の花」はナースエンジェルたるりりかの体内に封印されていたことがわかったと、意外な事実が伝えられる。続いてその封印をとくにはその命と引き換えだと、カノンは顔中を涙で濡らして「君の命が欲しい」と訴えるのである。十歳の女の子が背負うにはあまりにも過酷な運命であり、この衝撃的なセリフで最終話は始まる。
 カノンとて本気でそんなことは思っておらず立場上やむをえず言っただけで、「このままりりか君が決めかねてくれれば…」とこのまま滅亡もやむなしと考えていた。
 しかしりりかは決意する。折しも明日は彼女の十一歳の誕生日だという日に彼女は自分の決意を示し、
「明日は私の誕生パーティーがあるんです。先輩も、来てくださいね」とカノンに笑いかけるのだ! (個人的だがアニメ史に残る名シーンではないだろうか)。
 翌日、りりかがこの後すぐに死ぬ決意をしているとも知らず、家族や友人が彼女の誕生日を祝う。一人一人に祝いの言葉をかけられたあとに、「私…、生まれてきてよかった」と涙ながらに応えるシーンは、事情を全て知っている視聴者をいてもたってもいられない気にさせる。
 そしていよいよというとき、りりかは「加納先輩(カノンのこと)、もし私が死んで世界が平和になったら、みんなから私の記憶を消してください」と驚愕のセリフをしゃべる。このセリフから彼女は最後まで自分の身の回りの人のことだけを考え守ろうとしていたことが痛いほど伝わってくる。「世界、地球のため」といった意識だけ肥大し中身のない抽象的な正義感ではないし、自己犠牲に酔いしれたヒロイック的な感情もないことをも示している。りりかの決断自体は、初代『セーラームーン』でのラストでうさぎを守るため倒れた四人のセーラー戦士や、劇場版『セーラームーンR』でのうさぎの行動と重なる部分は多い。しかし正義の使者ではなく一人の女の子として、しかもそのあとのことまで視聴者につきつけたこの一連のシーンは、「自己犠牲」、「命」というものを視聴者に伝えるという意味で、くるところまできたと思わざるをえない。

それを受けて星夜が泣き叫ぶ。「たとえ世界が助かったって、りりかがいなくなったらなんにもならないじゃないか!」 ここで最初のセリフが生きてくる。りりかが語ったことをそのまま星夜は彼女にぶつけた。
もうこのセリフの意味をかみしめられない視聴者はいないだろう────。

 ──この後のラストに関してはあえて書かないでおく。ここからは自分の目で心で感じてみてほしい。

 ここまででもこの作品がいかに日常を描けていたか、日常を背負ったまま少女が変身少女たりえていたか、納得してもらえるだろう。(余談だが、この「おまえが死んだらなんにもならないじゃないか!」は大地監督最新作「こどものおもちゃ」のラストエピソードでもあらためて描かれた。今この時代にこれほど適切な言葉を正面から投げかけてくれることにエールを送りたい)

 

■日常での戦い 日常との戦い

 「魔法」に関して一つの解答を示した『サミー』。変身少女の「日常」をくっきりと描いてくれた『りりか』。どちらも非現実的なはずの番組を、視聴者の等身大のところへすりよせてくれるものがあった。だからこそ、どちらも作品のなかの「現実」と登場人物がぶつかり、それは日常との「戦い」として感じられたのではないだろうか。
 「戦い」とは決して物語のなかだけの正義対悪の場合のことだけを指すものではない。ふつうの女の子がほんの少し、現実に目を向ける。目を向けたとき、自分の存在意義とかそういったことと対峙する「自分との戦い」として、彼女たちにはとても大切な戦いとなるのかもしれないのだから。
 冒頭でも述べたように、アニメ番組において設定の「ウソ」と人物の「リアル」の両方が同時に存在するのは避けて通れないことであるが、『サミー』は魔法に現実感を与えることで、『りりか』は変身する少女の等身大の日常を描くことで、今まで個別に先鋭化しようとしていたことを、お互いに補いあう方向でより一歩進めたのではないだろうか。

 この2作品以後、「魔法少女」も「変身少女」もひとまず打ち止めのような感がある。

 次なる作品はこの2作品を踏まえる、もしくは立脚点として作られるのを切に望む次第である。

 


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