あかりという存在


1話はそのモノローグの多さ、最後の自室のシーンでの終わり方などから、誰が見ても「あかりの回」であると思うだろう。当然私もそう思い、次回おたのしみにの際のカットがあかりなのを見て、「なるほど、ここはその回の女の子のカットになるんだな」と一人納得した。
その次の2話。2話はその登場するシーンの長さからも志保の回といえる。(事実、片方のアイキャッチの曲が志保の曲である) しかし、次回おたのしみにのカットがまたあかりであり、志保だと思い込んでいた私は「なぜ?!」と驚いた。
だが直前に電撃ANIMATIONMAGAZINEの監督インタビューを読んでおり、すぐにそれを思い出すと「あぁ、なるほど」と納得し、同時にインタビュー内容がより理解できたのである。

 

ある意味、あかりと浩之っていう存在は、普通のドラマにおける主役になっていないんですよ。僕はこの2人をこの番組の司会者であると考えていますから。そんな2人の存在が、シリーズ13本をとおして見たとき、ひとつの味わいになっていればいいと思っています。また、浩之はほとんど物語を動かしてはいません。あかりもそういう浩之を基本的にはただ見ているだけなんです。長年連れ添った夫婦のような存在であるあかりと浩之の2人が、この物語の中心にいないっていうのが、To Heartのすごく難しくも、変わった点なんです。

 

基本的にこの作品は誰の主観でもない三人称で見せていくわけだが、それは一人称の作風にはしたくないからであろう。というのは、そうなればその人物が主役の「ドラマ」になり、その「物語」を見せていくことになる。そうでなく、この作品で描きたいのはその場の雰囲気や空気なのだと思う。そのため客観に徹した三人称での作りになったのであろう。

おおまかに浩之を追っていく内容から、この作品では彼が主人公のようなものというのは感じとれるが、インタビューからは彼と同様にあかりも特別な存在であると理解できる。事実、2話以降も次回おたのしみにのカットはあかりであり、アイキャッチの片方の曲はゲームのあかりの曲となっている。本編でも彼女だけがモノローグを許され、各話の締めを飾るのもその時に音楽が使われるのも、彼女だけの特権のようである。

このようにあかりに限ってのみ、彼女の視点、感情というものが描かれる。それにはどんな意味があるのか。
もし、あかりもそういった描かれ方をせずに、全ての人間を客観的に見るだけの作品だったなら。視聴者は出来事のみを見て、それに対して感想を持つといった反応をするしかない。それはそれでかまわないが、そんなふうに、出来事に対しての意思なり気持ちが誰からも発せられないというのは、一方的に見るだけの視聴者にはある意味つらいことかもしれない。それはいってみれば、その現場にいながらも相手にされないといった感覚をおぼえてしまうからだ。もし誰かの気持ちが提示されれば、視聴者はそこから入っていける。完全な傍観者にならずに現場に入っていけるようになり、その場の「空気」を感じられるようになる。
まさしくあかりは「司会者」であり、視聴者と作品世界をつなぐ「パイプ役」といえるだろう。

ただ、そうした役は別に誰でもいいのでは?とも考えられる。それこそ主役的な浩之自身が、自分の気持ちをまじえながら話をすすめていくのが一番わかりやすい。が、それでは彼の主観の一人称の作品になってしまうので、この作品の趣旨に反してしまう。

ここで先ほどと同じく電撃ANIMATIONMAGAZINEの監督インタビューの後半部分を読んでもらおう。

 

彼女は、要するに一種の象徴というか、この世界のバランスを保っている存在なんですよ。彼女がいない世界は成り立たないんですけど、実際にはその人のためのお話は存在しないという。だからあかりは、視聴者の人たちを包み込んでいる存在だと思っていただいた方がいいと思います。

 

視聴者と作品世界をつなぐパイプ役。それがあかりなのは、彼女がまったく話に関わらないからである。関わりながらもその人物の視点を描けば、当然それは主観ということになってしまう。その話に距離を置いた人間だからこそ、傍観者としての視点を持つことができるのだ。
あかりと志保以外の女の子が回ごとに登場することになるが、当然彼女達の話になるわけで、関わっている以上彼女らは傍観者ではありえない。そのため、あかりが部外者でないながらも傍観者という特別な存在になりえるのである。
当然、あかりが浩之と切っても切り離せない仲であることも大事なことである。あかりが浩之を見つめているといっても、四六時中というわけではない。あかりのいないところでその回の女の子と浩之の会うシーンは山程ある。しかし浩之とあかりの信頼関係が見えるので、そういったシーンも浮気といった感覚はまったく感じずにすむので非常に安心して見ることができる。浩之を見つめるシーンは一部でありながらも、二人の結びつきのおかげであかりはまったくの部外者にならないのである。
あかりが傍観の司会者ならば、浩之は進行役。その回の女の子はゲストといえるかもしれない。進行役の浩之がゲストの女の子をもてなし、司会のあかりがその様子を伝えたり、最後にしめくくったりしていると考えていいのではないだろうか。
浩之が話を動かし、あかりがその様子や結果を視聴者に伝えるというふうにも言える。
そしてその二人の間に結びつきや信頼が見えるからこそ、視聴者は安心してこの世界に入っていけるのである。
そんなあかりだからこそ、次回おたのしみにのカット、アイキャッチの曲、唯一のモノローグ、各話の締めを飾り、その時に音楽が使われるといった特権を持つ。
彼女こそはこの『To Heart』という作品の司会者であり、顔ともいえる大事な「語り口」なのである。
そして彼女がいるからこそ、ここまで客観に徹したこの作品が成り立つのだ。

 


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