なぜ現代を舞台にしたギャルゲーのアニメ化作品は優秀なのか


90年初頭からゲームも広く一般に認知されるようになり、それとともにゲームをアニメ化した作品というものも作られるようになってきた。

若干の例外はあるが、アニメ化されるゲームは大別して3種類しかない。

『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』『ポポロクロイス物語』といったRPG。(ロールプレイングゲーム)
『ストリートファイターII』『バーチャファイター』『飢狼伝説』といった格闘ゲーム。
『サクラ大戦』『卒業』 『センチメンタルジャーニー』といった、女性キャラ主体のいわゆるギャルゲー。

特に最近は格闘ゲームとギャルゲーが多いが、キャラクター主体という意味では共通しており、そのためアニメ化しやすく、またファン向けということにもかなうのであろう。

ギャルゲーに属するゲームのアニメ化作品は、現時点で『銀河お嬢様伝説ユナ』『サクラ大戦』『卒業』『誕生(デビュー)』 『センチメンタルジャーニー』、そしてこの『To Heart』と6作品しかない。(もうすぐ『ときめきメモリアル』が発売されるが…)
実はギャルゲーというのは「女性キャラ主体」という共通項をもつゲームのことであって、ゲームのジャンルのことではない。この6つのゲームも実際のゲーム内容に関しては、アドベンチャーであったり、戦闘シュミレーションであったり、育成シュミレーションであったりと、様々である。
ここでその舞台を見ると、ユナはSFの完全な創作の世界、サクラ大戦は大正時代であるがゲーム用に作られたオリジナルの舞台。ところが、残りの4作品は全て現代が舞台である。そして、実はこの4つのゲームのアニメ化された作品が、どれも一般にも鑑賞しうる優秀な内容なのである。
そこでこういった「現代を舞台にしたギャルゲーのアニメ化作品」がなぜ優秀なのかを、共通点をあげたうえで探ってみたいと思う。

まずはこの4作品を簡単に紹介する。

☆『卒業』 OVA作品(全2巻) 監督:西島克彦

・ゲーム…プレイヤーは学校の先生となり、5人の女生徒の能力を上げていく育成シュミレーション。
     無事に学力を向上させて卒業させるのが目的。
・アニメ…卒業を控えた5人が卒業旅行にでかけたりする中で、みんなと別れる寂しさや、
     卒業後の進路に思い悩む姿を描いた作品。

☆『誕生』(デビュー) OVA作品(全2巻) 監督:望月智充

・ゲーム…プレイヤーは芸能プロデューサーとなり、3人のアイドルの卵の能力を上げていく
     育成シュミレーション。無事に彼女らをデビューさせるのが目的。
・アニメ…アイドルの卵の3人が出演するドラマを、完全オリジナルで創作したもの。
     1、2巻で配役もドラマも違うという「劇中劇」のような異色作。

☆『センチメンタルジャーニー』 TV作品(全12話) 監督:片山一良
 ※これに関しては本当は小説とドラマCDが最初であるが、それもゲーム化のためということで、あえてゲームの話として語る。

・ゲーム…幼い頃、12人の少女とほんの一時知り合った主人公は、全国各地にいる成長した彼女らに
     会いにいき、親しくなるのが目的。
・アニメ…12人の少女が、それぞれ、恋や将来や友人のことなど自分の身近なことを
     題材にした話を繰り広げる。完全オムニバス形式。

☆『To Heart』 TV作品(全13話) 監督:高橋ナオヒト

・ゲーム…主人公、藤田浩之の、3月〜5月の二ヵ月間の女の子との交流を描いた
     アドベンチャーゲーム。8人の女の子それぞれにストーリーがある。
・アニメ…藤田浩之とその幼馴染みの神岸あかりの通う学園生活を描いた作品。
     毎回、それ以外の女の子がゲスト出演する。

この4つのゲームの共通点は何といっても女の子が高校生であるということ、『誕生』を除いて全て学園が舞台に関わるということ。いってみればどれも女子高生を扱ったお話ということである。まずこれを踏まえておきたい。

では、ここから「なぜ優秀か?」を探っていこうと思うのだが、勘違いしないでほしいのは、これから説明することはあくまで「こういう理由で良いものができた」ということなわけで、優秀な作品にしたのはスタッフのおかげである。今のところ問題ないスタッフのおかげで優秀なものができてきたが、「現代を舞台にしたギャルゲーのアニメ化」だから絶対に優秀になる、ということではない。

これら4つのゲームがアニメ化された時、スタッフは共通してあることを心がけた上でアニメ化している。そしてそれを守った点と、下記に述べるいくつかの利点が合わさることで、優秀な作品が作られてきたのだ。

そのあることとは、ズバリ、「ゲームを知っていることを要求しない」ということである。
これはいいかえれば、「ゲームにそくした内容ではない」ということだろう。ゲームをプレイした人間に「あのシーンはアニメにするとこうなるのか」「あのキャラはこういうふうに動くのか」「ああ、ここでこうなるんだよなぁ」といった、ゲームからの共通認識を要求しない、そういった「比較の面白さ」をメインとしない作品。つまり、まったくゲームを知らない人に見せるのを前提とした作りということである。そのため「ゲームとの比較」や「ゲームの良さ」に依存しない、その作品独自の良さが必要になってくる。
すなわち、「ゲームを知っていることを要求しない」のは、結果としてそれ単体として成り立つようなアニメ作品が作られるわけである。
もちろん、これだけでは「ただの普通のアニメ」が作られるということにすぎない。だがこの時、例の「現代を舞台にしたギャルゲーのアニメ化」であるがため、その「独自の良さ」が非常に自由なものとなるのだ。

ここでやっと、その「現代を舞台にしたギャルゲーのアニメ化」の利点を説明していこう。

 

(1)人物や設定の説明や紹介がいらないこと

アニメ化する時には、当然ゲームのキャラを持ってくる。その時に、キャラデザイン、名前、性格付けなどがゲームから流用なのはもちろんである。では、そういったキャラが登場していざ話が始まる時に、実はゲームのアニメ化であるがために、人物紹介やキャラ説明のシーンがまったく必要ないのである。
こういうとおかしいと思う人もいるだろう。先程述べた「ゲームを知っていることを要求しない」に反するじゃないかと。だが、これに関しては最後まで聞いてほしい。
この「ゲームを知っていることを要求しない」ということはあくまで見た結果わかることであって、前もって知らされることではない。
実際ゲームのアニメ化の場合、ゲームユーザーに売り込むのが自然だし販売上それは当然である。そういう意味ではギャルゲーの場合特に、企画物というか、イベント的にアニメ化されてきたという感がある。そのため、やはりそこには「見る人はキャラを知っている」という前提でアニメ化することができる。
そのゲームのアニメ化という「建て前」があるため、実はいきなりキャラクターを登場させても、「それは知っている」というのを前提で話を進めることができるのだ。事実、この4作品は全てキャラを紹介するようなシーンもなく、いきなり話が始まっている。
ただし、
その先の本編中で、十分にキャラの性格や関係がわかる作りになっているのだ。これがスタッフが「ゲームを知っていることを要求しない」ということを心がけたゆえんである。
もちろん、本編のセリフ、しぐさといったことでしっかりとキャラの性格付けや関係が見えるようになっていなければ話にならないが、これは作品が単体として成り立つには欠かせない、いわば必然的なことであって、それをスタッフは確実にこなそうとしている。

では、人物紹介やキャラ説明のシーンが必要ないというのはどんな利点があるのか、まとめてみよう。
TV作品は特に最初のうちは人物紹介や世界の説明などにシーンや話数を費やされてしまう。OVA作品でもそれは少なからずあるものだが、それがまったくない場合いきなり本編を始められるわけで、同じ30分のTVやOVAならばやはりそれは利点といえよう。
そうなると当然「本編中で、十分にキャラの性格や関係がわかる作り」がスタッフに要求されるわけで、それに応えていこうとする作りも、作品にとっては十分プラスとなる利点といえる。
キャラに限って話をしてきたが、もちろんこれはストーリーや設定に関しても同様である。

 

(2)ストーリーや設定に縛られることがないこと

上記(1)で述べた「ストーリーや人物の説明や紹介がいらないこと」というのは、ギャルゲーに限った話ではなくRPGでも格闘ゲームでも成り立つ話である。いってみればゲームのアニメ化に関する利点であった。
ではギャルゲー、しかも現代を舞台にした場合のみに成り立つこととはなんなのか。それがこれである。
RPGでは倒すべき相手や目的があるように、格闘ゲームでは宿命の相手やライバルがいるように、どうしてもそこにはストーリーが発生し、それを重視した作りにせざるをえない。先に述べたようにゲームのアニメ化はゲームユーザー向けに作られるわけで、オリジナルにするわけにもいかず設定を引きずるのが常で、やはりそこには「段取り」のようなものが発生する。
しかし、ギャルゲーというのはジャンルではなく「女の子主体」ということでしかないので、逆に言えばその女の子さえ出てくればいいのである。それ以外に絶対に盛り込まなくてはいけないストーリーや設定はないのだ。
この時、ユナやサクラ大戦等にはゲームの世界上戦う相手というものが存在してしまうので、そういったものの一切出てこない「現代を舞台にした」という条件が必要なのである。
そうしたギャルゲーの女の子、つまり普通の女の子ということになるが、その子の設定さえ守ればいいのである。
具体的な例をあげれば、「仲本静という人物が知的でおとなしい女の子ならば」「永倉えみるという人物が「りゅん」が口グセでUFOを信じるようなちょと変わった女の子ならば」それを題材にどんな作品を作ろうがあとは自由なのだ。
事実、『卒業』『誕生』の二作品を見てみてもゲームとはほとんど関係ない。ゲームの女の子が登場するというのが接点なだけで、あとは卒業と芸能界を題材にして独自の作品にしたてている。
後の二作品のアニメも『センチJ』では「12人の少女が幼い頃ある男の子に出会った」、To Heartでは「主人公浩之が女の子と親しくなる」という、それぞれのゲームの基本設定と女の子の設定に準ずるのみで、その基本設定にしてもキャラによってまちまちで、これといった決まり事はない。
このように何にも束縛されず、なおかつ既存のキャラを扱えるのが、こういったギャルゲー原作の利点といえるだろう。
また、これは(1)の話であるが、「現代を舞台」というのは当然作品世界を説明することも最低限度ですみ、設定説明にまったく時間を費やさないですむのである。

 

(3)題材が身近なため、そこから逸脱しないこと

これも上記(2)の捕捉というか続きといえる。いくら女の子の設定さえ守れば自由といっても、さすがに何でもありということではない。「神岸あかりがヒーローに変身して悪の秘密結社と戦う」なんて作品になったらさすがに現代の話とはいえないし、なによりすでにゲームとはなんら関係なくなってしまう。やはり、ある程度はゲームの内容を反映した作りにならなければ、ゲームユーザーに向けてという制作サイドの意向にもそぐわないし、原作のゲームメーカーも納得しないだろう。
そこで当然ゲームの雰囲気なり題材を持ってくるわけだが、元々「現代の女子高生」が主体のゲームであるため、その題材が学園生活であるとか、恋であるとか、進路であるとか、非常に身近なものになるわけである。
そのため、自由な作りが可能とはいってもそういった範囲を扱う上での自由なのであり、新たな世界や設定を作るとかそういったことは許されない。結果として現実に有り得ることを描写するしかなく、そこにこそ力を注ぐしかないのである。当然、そうなることによって「日常描写」や「キャラ描写」、「感情表現」といったことがメインの作風となり、それに時間をかけたりこだわる結果となる。
結論としてこれこそが「一般にも鑑賞しうる」という作品になる、最大の利点というか要因であろう。

 

さて、最後にまとめをすることとしよう。
3つの項目に分けて話をしてきたが、どちらかというとこの話は連続している。
続けて言ってしまえば、「人物や設定の説明がいらず、何にも縛られずに自由に作れる。その時原作を踏まえ現実にある範囲を描写する」これが利点ということになる。

実はこれ、TVアニメの劇場化作品に似ているのだ。

『超時空要塞マクロス 愛おぼえていますか』『うる星やつら1〜5』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『美少女戦士セーラームーンR』 といったものが例に挙げられるだろう。どれも秀作であるといってさしつかえないと思う。
元々がTV作品であるために当然人物の説明は必要なく、新たな劇場化であるため何にも縛れることもなく独自のテーマを盛り込める。(3)の現実にある範囲をということに関してはそのままというわけにはいかないが、元々の原作から脱線しないでという意味では似ているといえる。
キャラを利用しながらも、新作なのでキャラにおんぶした作りでは作品として成り立たず、何か「テーマ」を扱わざるを得ない。そしてそれを初めての人にも理解できるような作りが要求される。

このように先ほどの利点は、「作品を作る」ということにおいて実に好都合なのである。

 


戻る       (26話へ)      (トップページヘ)

このページに関して、もしくは私どものサークルにご意見ご感想がありましたら、お気軽にメールをください。

                                     JOKER-KAZ男