○批判と絶賛
遠藤周作氏は、1966年(昭和41年)書き下ろし長編小説『沈黙』を上梓し、同年この作品は第2回谷崎潤一郎
賞を受賞しました。しかし、この作品は、内外のキリスト教団体、信者などから批判されました。それは『沈黙』の
中の次のような部分です。
・基督はユダさえも救おうとされていたのである。 (W セバスチャン・ロドリゴの書簡)
批判:背教者であるユダをイエス・キリストが救おうとするわけがない。
・主よ。あなたはまだ黙っていられる。こんな人生にも頑なに黙っていられる。 ([ ロドリゴの心中)
神は何もせぬではないか ([ フェレイラのセリフ)
批判:神の声が聞こえなかったということは、信仰がなかったということだ。
・ロドリゴが踏絵をしようとした瞬間、キリストが「踏むがいい」と言った。 ([の最後)
批判:キリストが棄教していいなどど、言うわけがない。
このような批判があった反面、若い読者の中で、洗礼を受ける者が続出したそうです。また、『沈黙』が翻訳された
ことにより、遠藤周作氏の海外での評価が決定的に高まり、グラアム・グリーン氏が、この作品を絶賛したのは有名
なところです。『沈黙』は、遠藤周作氏の作品中、もっとも数多くの国で翻訳されていることを考えると、遠藤周作
が書いた「弱いイエス」、「母なるイエス」は多くの人の共感を得たのではないでしょうか。
○ユダとキチジロー
『沈黙』には、何度も踏絵をし、ロドリゴを裏切ったキチジローが、イエスを裏切ったユダと重ね合わせて書かれて
います。イエスがユダに対して投げつけた「去れ、行きて汝のなすことをなせ」という言葉を蘇らせ、ロドリゴは、
「一行から離れてキチジローが杖にすがりながら従いていた。「去れ」と司祭は心の中で呟いた。「去れ」。」とし
牢屋に入れられたキチジローに対して、許しの秘蹟を与えるものの「しかしまだキチジローを許すことはできなかっ
た。」のです。しかし、棄教した後には、「あのキチジローと私とにどれくらいの違いがあると言うのでしょう。」
と「自分の弱さ」を認めることになります。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
イエスとユダ、ロドリゴとキチジロー、これは強い者と弱い者の対比として表していますが、最後にはイエス、ユダ
ロドリゴ、キチジロー全ての違いを認めず、みな弱い者としています。
『沈黙』について、遠藤周作氏は「自分の母への裏切りを投影して書いた」と言っていたそうですから、キチジロー
に遠藤周作氏は自分自身をも重ね合わせようとしたのかもしれません。
○ペテロの否認とロドリゴの踏絵
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で
最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛
み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく
知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負っ
たのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
『沈黙』
それから人々はイエスを捕え、ひぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。
人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。すると、ある女中が、
彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。ペテロはそれ
を打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなた
もあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それは違う」。約1時間たってから、またほかの者が言
い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。ペテロは言った、「あなた
の言っていることは、わたしにはわからない」。すると彼が言い終わらなぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主はふ
りむいてペテロを見つめられた。
ルカによる福音書 23章
この対比で明らかなように『沈黙』のクライマックスシーンは、福音書の「ペテロの否認」を意識して書かれたもの
なのです。ペテロはイエスを三度も知らないと言いました、裏切ったのはユダだけではないのです。イエスが捕まっ
た途端に逃げ出した弟子すべてが裏切ったのです。
それらをも許したイエスが、ロドリゴを許さない筈はないのです。何故ならロドリゴは「今まで誰もしなかった一番
辛い愛の行為」をしたのだから。
○神は沈黙したか
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえ沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について
語っていた。
そうです、神は沈黙していたのではないのです。無力なうえ、沈黙せざるを得なかったのです。そして一緒に苦しん
いたのです。
その無力なイエスを、同伴者としてのイエスを遠藤周作氏は『死海のほとり』で、より鮮明に描いています。
イエスも汗と血にまみれた顔に、それでも苦しい微笑を浮べて答えた。いつも……お前のそばに、私が……いる、と。
イエスだけが栄光ある死をとげたと思えなかったからだ。
私があなたを棄てようとした時でさえ、あなたは私を生涯棄てようとされぬ。
『死海のほとり』