山中 献(やまなか けん) 1822〜1885


泉岳寺大石良雄の墓前にて勅書を奉読する山中献(『誠忠画鑑』より)

  幕末・維新期の志士・文人で三河国郷士。明治元年に泉岳寺へ遣わされた勅使。幼名は松寿、通称は帯刀・春助・俊助でのち七左衛門と改めた。字は子文、号は静逸・信天翁・対嵐山房・二水間人。文政5年9月2日、三河国碧海郡棚尾村東浦(現愛知県碧南市東浦町)の大地主で文人としても知られる山中有功の子として生まれた。篠崎小竹・斎藤拙堂の門に入り経史を修めるなど儒学・詩文等を学んだ。安政年間に家業を弟猗に譲って京都に出て尊王攘夷運動に加わり、梁川星巌・梅田雲濱・頼三樹三郎らの志士たちと交遊、安政の大獄に際しては幕府の探索にあったが危うく難を逃れた。文久3年(1863)、14代将軍徳川家茂上洛の際には車駕親征、摂海防備の事を奏上しまた、大学寮の復興を提言した。この頃、既に帰郷していて農兵募集にあたったりしたが京都に上り、8月18日の政変後は籍を曼殊院門跡家臣に附して京都郊外修学院村(京都市左京区)に隠棲し有志の窮乏を救い、時節を待った。この間、岩倉村に隠棲中だった岩倉具視の知遇を得て、維新の謀議に参加するに至った。。
 王政復古後、明治元年徴士内国事務局権判事、閏4月会計官駅遞司知事、12月24日行政官弁事(〜明治2年5月21日)、明治2年桃生県(のち石巻県)権知事、明治3年9月登米県知事を歴任した後は、明治3年12月伏見宮家家令勤務、明治4年5月閑院宮家家令兼勤、明治5年10月北白川宮家家令兼勤を命ぜられた。明治6年8月、職を辞して西帰し、諸所を逍遙し、書画・詩文(漢詩・和歌)に親しんだ。晩年は京都郊外嵯峨(現京都市右京区・自分の山荘を對嵐山房と命名)に住み、文人・墨客を友とした。この間に権弁事だった献は明治元年11月5日に勅使として東京高輪泉岳寺に赴き、四十七士に対して勅書・金幣を下した。明治10年2月、明治天皇が嵐山に行幸した際には拝謁を賜った。その後の事績としては明治13年8月10日の大黒寺境内に文殊九助碑建立に際してはその碑文を撰したことや、明治17年4月19日に京都愛宕郡田中村に頼山陽追福のための山陽庵を建立して山陽の木像を安置したことなどがある。
 明治18年に上京し、門人堀博の家に滞留したが、発病した。前に勤功によって士族に列し、俸禄10口年金100円を賜ったが、重体につき正五位に叙せられ、内帑金200円を賜ったが5月25日に没した。享年64歳。墓所は東京都港区の青山墓地にある。大正2年11月、従四位を追贈された。
 著編書に『帖史』・『清名家論画集』・『信天翁詩鈔』・『花香月露集』などがある。

【参考文献】「明治天皇勅書」(泉岳寺文書)、信天会編『信天翁』、鳥海靖「山中献」(吉川弘文館版『国史大辞典』所収)、森谷秀亮「山中献」(平凡社版『日本人名大事典』所収)、『明治天皇紀 第一』(吉川弘文館)、新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史』(昭和9年、財政経済学会)、『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)。

(058/2002/1/8)
(2002/1/15)