「忠臣蔵」Q&A


 今まで当サイトに寄せられた質問のうち、主なものをご紹介します(新しいものほど上に掲示しています)。

質問内容 回                                     答
Q12.
Q11.弥兵衛老の名は、金丸と書いて「あきざね」と承知しておりましたが、時として「かなまる」と表記している場合があります。本当に、こんな、山梨の政治家みたいな読み方をしたのでしょうか。二通りに読んだのでしょうか。教えてください(Sさん)。 A.堀部弥兵衛の諱「金丸」の読みは「あきざね」と読むと認識いたしております。これを「あきざね」と読めない人が「かなまる」と呼んでいるのです。この読み方についてはさる日本史の大家が言及しています。古代の読み方に起因しているようです(2008/5/21)。
Q10.旗本となった浅野大学の領地はどこですか?(Kさん) A.内匠頭長矩の実弟、大学長廣は宝永7年9月16日に安房国平郡正木村に400石・同朝夷郡東江見村に100石、計500石を与えられました。なお、領地の変遷は次の通りです。
★長貞→天明6年 正木村400石を返上し、代地として上総国長柄郡北高根村・関村、安房平郡川名村400石を与えられる(東江見村はそのまま)
★長年→天保14年 安房平郡川名村を返上し、代地として安房長狭郡奈良林村を与えられる。以後は、この領地のままで明治維新を迎えます。幕末の当主長栄は維新の後、新政府に仕えました(2006/2/17)。
Q9.討入りのあった12月14日は新暦に直すといつですか?(Mさん他) A.元禄15年12月14日を新暦に直すと、1703年1月30日(火)となります。ちなみに松之廊下刃傷があった元禄14年3月14日は1701年4月21日(木)、四十六人の赤穂義士が切腹した元禄16年2月4日は1703年3月20日(火)となります(2006/2/17)。
Q8.赤穂義士史料館はどこにあるのでしょうか?また入館料を教えてください。(Yさん他多数)

A.申し訳ございません。「赤穂義士史料館」はあくまでもホームページの名称であって、博物館としては存在いたしません。従って入館料などもありません。実は当サイト開設以来、Q1とともに多かった質問の一つです(2005/10/15)。

Q7. 大石内蔵助良雄には何人か子供が居たはず。長男、主税は亡くなったが、確か次男は浅野家にお抱えになったはず。その後どうなったか?(Yさん)

A.次男吉千代は後に出家して「祖練」と称しますが、19歳で死去してしまいます。女子は長女の「くう」も早世し、次女の「るり」は広島藩浅野家の重臣浅野監物に嫁いで天寿を全うします。
それと、大石には妻理玖と離別の後に誕生した3男の「大三郎」がいます。この大三郎が父の余栄で広島藩に父と同じ1500石で仕官します。この大三郎は天寿を全うしました。以後、一時跡継ぎがいなくなって断絶しますが、まもなく再興され、大石家は広島藩士として幕末維新を迎えます。
 また、大石には妾との間に「李與」(りよ)という女子もいましたが、元禄14年(1701)に死去しています。もう一人の妾「お軽」との子についてはQ6を参照して下さい(2004/12/26)。

Q6.NHKの「最後の忠臣蔵」で瀬尾孫左衛門が脱盟後、大石内蔵助の命により遺児「可音」を保護するとあります。史実はどうなのでしょうか(Yさん)。

A.全て史実ではありません。大石内蔵助とお軽との間に確かに子供がいたようですが、男子だったようです。この子の消息については知られていません。ただ、佐賀県伊万里に大石の遺児「石之介良知」が死去したと伝えられている場所と墓があり、この遺児を世話をしたという家も残り遺品を伝えています。この子がお軽の子ではと推測する研究者もいます。
 大石の家来であった瀬尾は後に赤穂に戻って僧侶となり「休真」と号したと伝えられますが、詳しい伝記については不明です(2004/12/26)。

Q5.大石家の家紋は「右二つ巴」ともいい、「痩せ右二つ巴」ともいいます。また、堀部弥兵衛の家紋は「四つ目結び二つ」というのと「重ね四つ目結び」としているものもあります。どっちが本当なんでしょうか(Sさん)

A.大石内蔵助の家紋は「痩せ右二つ巴」が正しいです。堀部家の紋についてはどちらの呼び方でも良いようです。但し、熊本藩に仕えた堀部一族は必ずしもこの紋を使用していません。「丸に四ツ目菱」だったり、ただの「四ツ目菱」であつたりします2005/03/28)。

Q4.堀部金丸覚書の中の「浅野内匠家来口上」の草稿にあたるものを、細井広沢が見て手を加えたというのは事実でしょうか?「口上」の中の「君父之讐共不可戴天之儀」の部分を細井広沢が加えたと耳に挟んだのですが。ここは『礼記』の「父之讐共不可戴天」をひねったことはわかるのですが、それを広沢が手を加えた根拠がどこにあるのでしょうか(K子さん)。

A.広沢が「浅野内匠家来口上」に手を加えたというのは広沢の子孫が表した「広沢記」や大和延年という人が著した「二老略伝」(二老とは北島雪山・細井広沢)にある話です。勿論後世に著されたものなので、それらの記事をそのまま信じることはできませんが、私は堀部安兵衛等赤穂浪士数人と広沢が親交の事実のあったことを考えると大凡事実と考えてよいのでは、と思っています。
 この「浅野内匠家来口上」の『礼記』の出典に関しては八木哲浩さんが大変興味深い指摘をなされています。赤穂市発行の『忠臣蔵1巻』にその詳細がございますので、ご参照下さい(
2004/12/25)。

Q3.赤穂浪士の遺品や史料はどういったところで見られるのでしょうか?(Iさん)

A.赤穂事件関係の遺品や史料は赤穂や東京で見ることが出来ます。赤穂では赤穂市立歴史博物館・赤穂大石神社義士宝物殿・花岳寺宝物館などです(要入館料)。赤穂市立歴史博物館は平成元年に開館した博物館で、赤穂城の清水門付近の米蔵跡に建てられています。開館以来、赤穂事件・忠臣蔵関係史料の収集に力を注いでいるので、貴重な史料が展示されています。四十七士早水藤左衛門満堯の家に伝わった「早水家文書」は現在、この博物館の所蔵です。
 大石神社は大石内蔵助良雄の親戚で旧弘前藩津軽家家臣の大石家に伝来した「弘前大石家史料」や龍野藩主脇坂家に伝来した「赤穂城請取文書」他多数の史料を所蔵しており、討入関係の遺品・史料が展示されています。また、神社の境内地は旧大石邸なので長屋門や庭なども拝見できます。
 花岳寺宝物館は赤穂浅野家の菩提寺で、ここにも浅野家や赤穂事件関係の遺品・史料が展示されています。浅野家歴代の画像や書状類が常時展示してあります。
 一方、東京では泉岳寺の赤穂義士記念館で史料を見ることが出来ます。この記念館は赤穂義士討入300年を記念して開館したもので、泉岳寺伝来のものや外部からの寄贈品など多彩な史料が揃っています。
 この他にも研究機関などで史料等を所蔵しているところもございますが、中には拝見できない所もあります。ここでは常時展示を行っている赤穂と東京の数点をご紹介しました(2004/5/6)。

Q2.赤穂浪士が討ち入りの時 大石内蔵助が持っていたハタキのような物はなんていうものですか?(Eさん) A.これは采配(さいはい)という武具です。武具といっても戦場で武将が部下を指図するときに使用するものです。相撲で行司が使用する軍配と似たような用途も持っています。ただし、采配を持つのは大将とかいわゆる指揮官クラスの武将が持ちました。采や革か紙で出来ておりこれに柄がつきます。采は金箔を圧したものや朱などもありますし、柄も黒漆や朱塗のものなどあります。これは軍学の流派によって長さなど決まりがあるようです。忠臣蔵の関係で言えばよく山鹿流軍学との関係が取り沙汰されますが、この山鹿流の采配などは大将・副大将によって采配が違います。長さ・柄の色など細かい決まりがあります。
 ちなみに大石内蔵助が討入に使用したと伝わる采配が「弘前大石家史料」の中に残っていて、現在は赤穂市の大石神社の義士宝物殿に展示されています(2003/12/26)。
Q1.「忠臣蔵」というのはどいういう意味ですか?(Cさん他多数) A.この質問が今までの当サイトに寄せられた質問のうちで尤も多かった質問です。
 実は、「忠臣蔵」という意味はいまだに定説というものがありません。よく言われているのは「『忠臣』の詰まった『蔵』」とか「『忠臣』の大石内『蔵』助」という意味があると言われています。いずれも間違ってはいないように思われますが、「これだ!」と断定できるものは有りません。
 従って、こんな「意味も含まれていますよ」という程度に考えて下さい(2003/12/18)

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