『鏡の忠義』 試し読み

 ヘルムートは困窮していた。
 だがそれは、彼だけではない。かつては軍病院だったこの建物の中にいる皆がそうだ。患者である彼ら傷兵も、医師たちも、看護婦たちも、事務員たちも。
 困り果てている者は、建物の外にも溢れている。
 皆が困窮していた。追いつめられていた。このデーレンダール帝国の全ての民が、明日をも知れぬ我が身を嘆き、怯え、うずくまっていた。
 大戦で敗北を喫したこの国は、国の領土が、個人の財産が、己の地位がどうなるかもわからず、不安に包み込まれている。だからヘルムートが暗い表情をしていたとて、誰も気にも止めない。誰もが自分のことだけに手一杯な中、ヘルムートもまた俯いて、手元の書類にぼんやりとした視線を落とすばかりだった。
 ヘルムートは陸軍の少尉だった。フォンの称号を持つ貴族でありながら、一個小隊を率いて最前線に送られ、そこで銃弾の餌食になった。
 命はある。四肢もそろい、見た目にはなんら変わりはない。だが、いざこのベッドから立ち上がれば、杖の助けを借りなければ歩行もままならない。彼の右脛を貫通した銃弾は、走ることはおろか、真っ直ぐに歩く力さえ奪っていた。
 こんな身体で、いったいなにができるだろう。敗戦を向かえた今となっては、軍人としての地位すら、なんの役にも立たない。彼のように落ちぶれた貴族家では、その地位や血脈も、なんの意味もなさない。
 帰るべき家も、彼を待つ家族もなく、傷痍軍人としての恩給さえ、この状況で期待できるはずがない。
 ふと視線を上げると、顔色の悪い事務員の説明はまだ続いていた。ヘルムートは、他の退院する者たちと共に、先ほどまで日がな一日を過ごしていたベッドの上で、今後の手続きについて説明を受けているところだった。
 だが、同じことは手元の書類にも書かれているだろう。傷痍軍人としての登録手続きが行われる日時と場所。だが、その登録後に、帝国はなにかをしてくれるのだろうか。そんなことすらまるでわからなくては、話を聞く気にもなれない。それは他の元兵士たちも同じらしく、皆が一様に暗く淀んだ目をして、虚ろな顔を俯けているばかりだった。
 そのとき、ノックもなしにドアが開いた。
「ヘルムート・レーブレヒト・フォン・アスタフェイ少尉はいるか?」
 ここ半月の間では、初めて聞く張りのある声に、皆が一様に振り向いた。そこに立つ、三人の男たちの身なりに、誰もがギョッと目を剥いた。訪問者の一団は、そろって宮廷に仕える者のお仕着せ姿だったのだ。  それぞれに身体のどこかを痛めた人々の目は、男たちからほぼ中央のベッドに座り込んでいたヘルムートへと移動した。
「貴君がヘルムート・レーブレヒト・フォン・アスタフェイ殿か。ご同行願おう。これは、皇帝陛下の命である」
 ざわりと空気が揺れて、息をのむヘルムートを中心に、全ての気配がじわじわと離れていくのが感じられた。


 広大な宮殿は、なんら細疵のひとつもなく、かつての帝国の繁栄がそのまま封じ込められているかのようだった。
 ヘルムートがつれて来られたのは、宮殿内でも奥深い小宮の一室だった。小宮といっても、彼が訓練兵時代に過ごしていた兵舎の優に倍はあるだろう。待たされている一室も、天井は見上げるほどに高く、純白の壁と柱には金細工が施された優美で豪奢なものだ。細工の金は、おそらく純金だろう。爆撃を受け、そこかしこが瓦礫の山と化した市中に比べれば、ここはまるで別世界のようだ。
 ヘルムートの胸に、ちらりと嫌悪の念が湧いた。だがそれを、彼は慌てて振り払った。
 敗戦を受け、それでもなお皇位に座する男に対して、本能的な反発心が湧いたのだ。だが、そんな思いを、自分が持ってはならない。帝国を勝利に導けなかったのは、自分たち軍人が不甲斐なかったからだ。
 それになによりヘルムートには、皇帝陛下に対して、拭いきれない罪の意識がある。幼い頃より心に抱き続けていた、死を望むほどの罪悪感が。

 ヘルムートの家は、代々軍人を輩出していた。だが、中世の建国当初ならいざ知らず、時代が過ぎ、国力を増した近年では、軍人といえども貴族家の者ならば、後方の指揮系統に配置されるものである。それは大戦となり、十七歳以上の全男子が徴兵される事態となっても、変わりないものだった。
 ましてや平時ともなれば、フォンの称号を姓に持つ者には、それなりの待遇が与えられる。
 ヘルムートの父もまた、皇帝一家の護衛長官として、宮廷内に出入りする者だった。
 皇帝陛下とその家族の身を守り、ときには直接労をねぎらうお言葉を賜る立場にあったアスタフェイ男爵は、堂々とした体躯と男らしい容貌に見合う態度で、軍属の間ではもちろん、社交界にあっても一目を置かれる存在であった。
 そんなアスタフェイ家の状況が一変したのは、十三年前に起きた、ある大事件からのこと。
 その日、大聖堂の建立三〇〇年を記念する式典に、皇帝一家はそろって出向いた。居並ぶ馬車には、壮年の皇帝陛下を筆頭に、皇后と四人の皇子たちがそれぞれに乗っていた。
 多くの民が手を振り、歓呼の声で出迎えた行進は華やかで、祝祭ムードは最高潮に達していた。
 当時、十一歳だったヘルムートも、見物桟敷が設えられた建物の中、皇帝の威光に目を輝かせ、陛下をお守りする父の姿に誇らしさを感じていた。
 その中に、一個の爆弾が投げ込まれた。
 爆弾は、皇帝と第一皇子を乗せた馬車の真下に転がり込み、彼らと従者を木っ端微塵にした。死の鉄塊は立て続けに投げ込まれ、皇后とまだ幼い皇子たちを乗せた馬車を真っ二つに、あるいは十数メートルも吹き飛ばした。
 皇帝一家は全滅した。馬車から投げ出され、重傷を負った第三皇子、ただひとりを遺して。
 爆弾を投げ込んだのは、帝政に反対する活動家の男たちだった。彼らはその場で射殺された。その背後にいた組織の者も、ほとんどが捕らえられ、議事堂の前にある広場に並んで吊された。
 事件の最中、身をもって皇子の馬車を守ろうとしたヘルムートの父も命を落とした。しかし、皇帝護衛の任を預かる者が、命ひとつでその責を贖えるはずがない。
 アスタフェイ家は爵位剥奪こそ免れたものの、その名声は地に落ちた。家の零落と、周囲の冷たい視線に耐えきれなくなったヘルムートの母は実家に戻り、家の跡継ぎであった彼は、遠い親戚に預けられた。ヘルムートが軍人を目指した理由のひとつは、彼に辛く当たる親戚家を早く出たかったからに他ならない。
 だが、理由はそれだけではない。ヘルムートの心には、幼き頃に憧れた父の姿が焼きついていたからだ。
 父のようになりたい。堂々と隊を指揮していた彼のように、いつかは出世し、隊を率いて軍功を上げ、その名誉を回復したい。そんな夢も、当然ヘルムートは抱いていた。
 だがそれは、儚い夢でしかなかった。
 いくらフォンの称号を持っていても、むざむざと皇帝一家を死なせた男の息子が、軍で出世などできるはずがない。
 しかも、現皇帝陛下に目をつけられているとあってはなおさらだ。
 それはヘルムートが軍属となった年のことだった。訓練を終え、一兵卒として東方の小隊に配属された彼は、そこで初めて現デーレンダール皇帝、リヒャルト一世を間近にした。
 七年前の行進の中、遠目にした彼は、兄と弟に挟まれながら、控えめに手を振っていた。金の髪が目に眩しく、自分と同い年だということもあって、皇子たちの中では特に気にしていたのだが、大人しげな少年という印象だった。
 その、デーレンダール皇家唯一の生き残りである現皇帝は、正式な軍の視察の最中にも、いかにも退屈そうな大あくびをする青年になっていた。
 その日、視察に訪れた一団を前に、基地にいる全ての兵がずらりと整列していた。軍を預かる将軍の長々とした演説を、「もういい」の一言で打ち切らせたのは皇帝だ。いかにもつまらなさげな態度の彼は、居並ぶ兵を一瞥しただけで、下賜するはずだった言葉もなく、そのまま立ち去ろうとした。
 だが、なにを思ったのだろう。壇上より通路を通って車に向かうと思われた皇帝は、兵たちの中を歩き始めた。杖が鳴らすコツコツという音が響く中、全ての兵に緊張が走る。
 その音が近づくにつれ、ヘルムートの緊張は極限に達しつつあった。
 視線を動かすどころか、息をすることさえはばかられる中、杖の音は不意に止まった。その目の前に華やかな金の髪に縁取られた白い顔があり、唇をギュッと引き結んだ。
「貴様が、アスタフェイの子か」
 皇帝はただ一言、そう口にしただけだった。興味なさげな視線に、一瞬訝るような色が混じる。しげしげと見つめられて、ヘルムートは口を閉ざしたままでいいものかどうか、迷い始める。
 即座に肯定すればよかった。だがまさか、自分が皇帝陛下より直接お言葉を賜るなど、想像もしていなかったから、頭の中が一瞬真っ白になっていた。
 それも、アスタフェイの子か、などと。
 この方は、自分が皇帝一家を守れなかった男の息子だと、ご存じなのだ。
 ようやく認識が追いついたときには、身体が震えそうになるのを止めるだけで精一杯だった。
 それは、ほんの数秒のことだったのだろう。リヒャルト皇帝は、すぐに興味をなくしたかのように、ふいとその場を離れてしまった。直立不動のヘルムートはもちろん、リヒャルト皇帝もまた、振り返ることはしなかった。
 だが、ただこの一言が、ヘルムートの運命を決定づけた。
 ヘルムート・レーブレヒト・フォン・アスタフェイは、リヒャルト皇帝の不興を買っている。そう、噂される男に誰が、軍での地位や功績を与えるものか。
 以来ヘルムートは、各地の小隊を点々とさせられた。一兵卒として、面倒や困難でありながら、ほとんど功績にはならないような任務ばかりが与えられた。彼が少尉の階級を得、ようやく一個小隊を任されたのも、戦争が激化し、一兵卒の事情など誰も気にする余裕がなくなってからのことだ。
 そのことに対して、もちろんヘルムートが皇帝に恨みに思うことはない。皇帝は、彼に対してなんでもない風に口にしたにすぎないのだ。むしろ嫌悪され、その場で打ち据えられなかっただけでもありがたいと思うべきかもしれない。
 あの十三年前の一日で、リヒャルト皇帝は両親とふたりの兄と、ひとりの弟。そして幸福な皇子時代を失った。馬車と共に吹き飛ばされた彼もまた重傷を負い、右脚に残る後遺症のせいで、二十四歳の若さにして、杖を手放せない暮らしが続いているのは、誰もが知ることだ。
 いや。それは俺も同じか、と、ふとヘルムートの口元に苦い笑みが浮かんだ。この部屋に入るときに取り上げられたが、今は彼もまた右脚を痛めて杖が手放せない身体だ。
 それにしても、これは一体どういう状況なのだろう。宮殿につれて来られたものの、ここまでの道すがら、なんの説明も与えられなかった。待たされ続けているこの部屋が、どんな場所かもわからない。いくつものソファや小テーブルが置かれているところは、サロンかなにかにも見える。部屋の端にある数段の階段を上れば、そこにはまた新たなサロンが設けられている。ここならば、ちょっとしたパーティーだって開けそうだ。
 視線を上げると、薄いレースのカーテンが開けられたままの大きな窓が連なっていた。壁の役目も果たすそれは、庭に面しているのだろう。分厚いガラス窓には、真っ暗な夜空と、部屋の明かりに照らされた小さな茂みが広がっている。これが昼間であったなら、色とりどりの花々でも見えるのだろうか。
 そんな華やかな場所で、すり切れたシャツと軍から支給されたままの古ぼけたズボン姿の自分は、ひどく場違いに思える。
「待たせたな」
 不意に背後から声がした。いつ、どこから入ってきたのかも気づかなかった。忽然と背後に現われた。ヘルムートにはそんな風に感じられた。
 ドッペルゲンガー?
 彼がそう思ったのも、無理はない。目の前に立つ軍装の男は、まるで鏡を見るかのように、ヘルムートにそっくりだったのだ。
 顔立ちは、まるで瓜二つだ。だが、楽しげな笑みを浮かべた表情は、今までヘルムートが浮かべたことのないようなものだ。身につけている軍服も、ヘルムートがこれまで着ていたものとは、仕立てからして違うものだと一目でわかる。将校クラスの高官が着るようなもので、階級章には大佐の標がかけられていた。
 だが、そんな違いさえ除けば、ヘルムート自身が立っているようにしか見えない。高く細い鼻梁も、切れ長な鳶色の瞳も。軍帽の下から零れるくせのない黒髪も。
 ヘルムートはソファに腰かけて、振り返った姿勢のまま固まってしまっていた。
 もうひとりのヘルムートは、ソファの背もたれにもたれかかるようにしながら、静かに見下ろしている。
 男の笑みが深くなった。くっくと喉を鳴らし、それは大笑へと変わっていく。
「なんだ? その顔は。いきなり水をかけられた、猫みたいだぞ」
 肩を揺らし、やがては身体を二つに曲げて大笑いするその声は、ヘルムートのものとはまるで違う。
「誰だ? お前は」
 おののくヘルムートには、そう問いかけるだけで精一杯だ。
「お前? そう呼ばれるのは初めてだな」
 まだ肩を揺らし続ける男は、ヘルムートが座るソファの背もたれに手を置いて、ようやく笑いやんだ。まだ頬のあたりをひくつかせながら軍帽を取り、続いてヘルムートと同じ黒髪を鷲掴みにする。
 髪は、塊となって外された。その下から、長い金色の巻き毛が現われて、ヘルムートはギョッと息をのむ。まさか、この方は……。
「直接会うのは、三年ぶりだな。アスタフェイの子よ。出世はしたか? 中尉になったのだったか?」
「いえ……少尉です……」
 ようやく答えた声は、みっともないほどに震えていた。まさかと思ったが、やはりこの方はリヒャルト皇帝だ。
 だがこれは、いったいどういうことだ? なぜこの方が、ああも自分とそっくりな姿をしていた?
 皇帝をヘルムートと瓜二つにしていたかつらが外れ、楽しげに笑っている今でも、その顔はよく似て見える。
 鳶色の瞳に──睫毛は、彼の方が長いか──意志の強さを現わすように真っ直ぐな黒い眉。口元もヘルムートとそっくりだが、そこに浮かぶ笑みがひどく酷薄なものに見え、失礼ながら不気味としか思えない。
「こ、皇帝陛下。その、お姿は……」
 恐る恐る、問いかけた。その答えを得なければ、とても平静を取り戻せそうにはなかった。
「ただの偶然だ。お前は私とよく似ている」
 ヘルムートを「お前」と呼んだとき、リヒャルトの口端が微かに上がったように見えた。
「もちろん、そのままではない。眉は描いたし、頬には……わかるか? やつれて見えるように、薄く陰をつけている」
 どうやら化粧をしているらしい。だがそれだけで、こうもそっくりになれるとは。
 三年前、ご尊顔を拝する機会に恵まれはしたものの、そのときは皇帝陛下が恐れ多くも自分に似ているなど、考えもしなかった。周りにいた兵士仲間からの指摘もなかったが、これは無理もないことだろう。間近に見つめられたヘルムートが気づかなかったのだ。あの場にいた誰ひとりとして、そんな目で皇帝陛下を見たり、その顔立ちをしげしげと観察したりするなど、考えつきもしなかっただろうから。  身を乗り出して首を傾け、自身の顔をヘルムートに見せつけるようにしていた皇帝陛下は、ニヤリと笑って見せた。
「ヘルムート・アスタフェイ。お前は私によく似ている。顔立ちだけではない。身長も背格好も。なによりその右脚も」
 彼が手にしていた杖が、ヘルムートの右足首を軽く突いた。苦い疼きを感じながら、ヘルムートには、口の中でようやく「そんな、恐れ多い」と呟くだけで精一杯だ。姓だけでなく、ファーストネームまで呼ばれたことで、ヘルムートの緊張は高まり始める。それを感じ取ったのか、リヒャルトの口元に浮かぶ笑みが、わずかに苦笑のそれに変わった。
「困ったな。お前には、任を与えようと呼び出したのだが、そう緊張されると言いづらくなる」
 任。その一言が、ヘルムートを我に返らせた。
「い、いえっ。おっしゃってください! たとえそれがどのような任であろうとも、ヘルムート・レーブレヒト・フォン・アスタフェイ。喜んでお受けいたします!!」
 慌てて立ち上がろうとしたが、動かぬ右脚が邪魔をして、それはかなわなかった。逆に転げそうになり、とっさにソファの肘掛けを掴んで身体を支える始末だ。
 だがリヒャルト皇帝は、そんなヘルムートに満足したらしい。
 にっこりと微笑んで、ならばとヘルムートに告げた。
「ヘルムート・アスタフェイ。お前は私になれ」
「それは、どういう……」
 ヘルムートはぽかんとなった。自分が皇帝陛下になる? それはいったい、どういうことだろう。
「言葉どおりだ。通常は私に仕え、常に私のそばに侍り、有事の際には私の身代わりとして死ね」
 その言葉は、ヘルムートの心臓を握りつぶすかのように、その心を深く抉った。
「俺が、陛下の……」
 身代わり。すなわち、影武者ということか。恐ろしくはあった。だがそれは、命をかけて皇帝陛下のお命を守ることでもある。
 それこそ、ヘルムートの父が責務を負いながら成し遂げられなかったことではないか。
 平然と命を差し出せと命じられ、一時は呆然となってしまった。だが、そんな中でもヘルムートの心の奥では、ざわめくような歓喜が湧き上がってくる。
 本当に、そんなにも重要な任が、自分に与えられるのか。
 敗戦を喫したとはいえ、戦争は終わったのだ。これから平和を取り戻していこうというこのときに、影武者の必要があるのだろうか。
 そんな不安と疑問はあった。だがヘルムートに、皇帝陛下からの命令を拒絶するなどできるはずがない。
「お……い、いえ。小官は、喜んで、その任を拝命……」
 皇帝陛下直々の命。あれほど望んだ、父の汚名をすすぐ機会が目の前に差し出され、ヘルムートの魂はようやく歓喜に震え出す。
 だが、その言葉が終わるより早く、皇帝はひょいと離れた。
「そう硬くなるな。アスタフェイ。おそらくは、お前が望むほどよいものではないぞ」
 拾い上げた軍帽を指先で弄びながら、皇帝陛下は楽しげに笑う。
「お前が私の身代わりになることを知る者はいない。誰ひとりとしてだ。それでもお前は片時も離れず、この皇帝リヒャルトのそばにいなければならない。いつ何時、我が身に危害を加え、この命を奪おうとする輩が現われても、即座にすり替われるように」
「はい。承知しております」
「常に隠れてかつらを携帯しろ。いざというときには私とすり替わり、私を装い囮となれ。最悪、私を逃がすために、私の身代わりとして死体となるのだ。必要ならば、誰かに命じてその顔と髪は焼き尽くされることになる。死ぬのはこの皇帝リヒャルト一世で、ヘルムート・アスタフェイはただこの世から消え失せるだけだ。そこまで理解しているのか?」
「望むところです」
 既に決意はできていた。否。アスタフェイの家名が地に落ち、苦渋の少年期を過ごしたヘルムートにとって、たった今与えられた皇帝の命は、神の恩寵にも等しいものだ。
 きっぱりと答えたヘルムートに、リヒャルト皇帝は薄く笑った。
「よい心がけだ。ならば異論はないな。ヘルムート・レーブレヒト・フォン・アスタフェイ男爵。お前はたまたま私に目を止められ、戯れに我が寵愛を受けることになった。この、皇帝リヒャルトの愛妾として、常に我がそばに侍るがよい」
 ヘルムートの目が見開かれた。聞き間違いではないだろうかと、呆然と目の前に立つ皇帝陛下を見上げる。
 だが、その貌に貼りついたように浮かんだ笑みが、変わることはない。わずかに動いた視線が、ヘルムートの頭の先から足先までを、素早く舐める。
 それで、ヘルムートは悟った。この方は、本気で命じているのだと。


※ 本作品の内容は、全てフィクションです。
■ 実在の人物、国家、歴史とは、一切関係がございません。