『魔王』 試し読み

 なにもかもが無茶苦茶だった。
 わけがわからぬまま、日下敬悟は息を乱して走っていた。

 敬悟は教師だった。近隣では最低ランクの私立校で古文を教えていた。崩壊した教室では、敬悟の授業に耳を傾ける生徒はいず、皆が勝手にしゃべったり、教室内をうろついたりしていた。
 不甲斐ないと思いつつも、敬悟はとっくに諦めていた。
 敬悟自身、なぜそんなことになったのか、まるで理解できなかったのだ。
 父兄からの問い合わせが、最初だった。
 敬悟の姿を夜の街で見かけた。いかがわしい風俗店が並ぶ通りを、深夜にひとりで歩いていた。
 ヤクザ経営の違法カジノがあると噂のビルに入る姿を見かけた。
 敬悟には、まるで身に覚えのないことだ。
 父兄から、こんな問い合わせがあったと校長に聞かれたとき、敬悟はきょとんとした顔で知りませんがと返していた。そしてそれを、校長も信じた。話を聞いた同僚の教師たちも、とんだ見間違いがあったものだと笑っていた。
 誰もがそう思うほど、日下敬悟は真面目で気弱な人間だった。彼がいかがわしい場所に出入りするなど、あり得ないことだった。
 だが、話はそれで終わらなかった。
 次は生徒たちの間に、噂が流れ始めたのだ。
 日下先生が万引きをしていた。コンビニでいくつもの商品を手に取って、そのまま外へ出てしまった。
 また、父兄からも新たな情報が入り出す。授業がある時間帯のはずなのに、日下を外で見かけたという。それも、何人もからの電話でだ。中には写真を撮った者もいて、遠く不鮮明ではあったものの、それは確かに敬悟に似ていた。
 だがそれらも、すぐに疑いは晴れた。なにしろその時間帯には、敬悟は教室で授業をしていたのだから。
 それでも敬悟に向けられる目は、次第に変わり始めていた。
 いささか頼りなくはあるが、真面目で信頼できる教師から、どこかいかがわしささが漂う、不気味な存在へと。
 敬悟自身、後ろ暗いことなどなにひとつないはずなのに、向けられる視線が気になって仕方なくなり始めていた。
 ただでさえ、素行のよくない生徒が多かった教室では、敬悟に対する彼らの態度はみるみる変わっていった。
少年たちの思考の中には、ルールに従わない『悪い奴』にはなにをしてもいいという、歪んだ正義感が息づいていた。あるいは懲罰を名目に、嗜虐心を満たしたいという欲望が。
 自分たちこそが正義であり、日下敬悟はなにか悪いことをしている罰すべき悪人。
 そんな空気が流れ始めると、ただでさえ侮られていた敬悟に対する扱いは、雪崩を打つように悪い方へと変わっていった。
 授業崩壊やあからさまな嫌がらせ。女子のいない環境のせいか、あるいは敬悟自身のひ弱な雰囲気からか、彼らの嫌がらせの中に性的なものが含まれていくのに、大して時間はかからなかった。
 授業中に持ち物検査だとはやし立てられ、服を脱げと揶揄されたり、複数人で壁際に追いつめられ、服の上からだがいやらしく撫で回されたり。
 それは少年たちからの仕打ちだとは思えぬほどに、淫らなものを含んでいた。
 もちろん敬悟も、抵抗しようとはした。
 しかし教室中が相手では、力でかなうはずがない。このような事態を他の教師に相談するには、世間体と敬悟の気弱さが邪魔をした。
 弱々しい抵抗を続けているうちに少年たちの悪意はエスカレートし、最近では授業時間中に半裸に剥かれて、ほうほうの体で教室から逃げ出すこともままあった。
 最悪の日々だと思っていた。
 教師になって三年。自分でも頼り甲斐のある教師になれたとは思ってなかったが、それでも生徒たちからここまでひどい扱いを受けるなど、想像もしていなかった。
 だが最悪は、更新された。
 ある日のこと、ふたりの刑事が学校を訪れたのだ。
 彼らは数枚の写真を、校長室で敬悟に見せた。そこには、敬悟には全く覚えのないビルに出入りする敬悟自身の姿が、はっきり捉えられていた。
 それはビルの防犯カメラが写したものだった。そして写真の隅に記録された日時の間に、ビル内で殺人事件が起きていた。発見された死体は、辺りのカジノに出入りしているチンピラで、路上のカメラが捉えたものだという別の写真には、男が敬悟の胸ぐらをつかみ上げている姿も、不鮮明だが映っていた。
 写真を見たと同時に、敬悟は血の気が引いていた。こんなビルは知らない。市内でも有数の歓楽街に建つビルだと聞かされたが、そんな場所にはろくに近づいたこともない。
 だが、写真の中の男は、敬悟自身にしか見えない。
「こんなの……僕じゃありません」
 弱々しく、やっとの思いでこれだけを口にしたが、その場にいた誰もが、汚らわしいものでも見るような視線を向けてくるばかりだった。
 当たり前だ。一人暮らしの敬悟には、平日の深夜であるその時間帯に家にいたと証言してくれる人はいない。
 ほんの二ヶ月前ならば、校長や他の教師が、敬悟が殺人だなんて、そんなことをするはずないと、証言してくれただろう。しかし今の敬悟には、陰でなにをしているのかわからないという噂がつきまとっている。
 同席していた校長も教頭も、自校の教師である敬悟が人を殺したりするはずがないと言ってはくれた。だがその表情には明らかな困惑が覗け、その口ぶりからは自校からスキャンダルを起こしたくないという自己保身ばかりが滲み出ていた。
 彼らの証言は、刑事たちの印象をただ悪くしただけだった。
 学校に刑事が来た。彼らは日下敬悟を取り調べた。
 新たな噂は、瞬く間に学校関係者の間に広がった。
 そして敬悟は、教師を辞めた。
 ただでさえ疲弊していた精神には、殺人事件の犯人だと疑いの目を向けられたり、はやし立てられたりするなど、到底耐えられるものではなかった。

 なぜだ? なぜだ? いったいなにが起きているんだ?
 敬悟には、なにがなんだかわからない。
 学校を辞めたことは、同じ教師である両親の耳にもすぐに届いた。さすがに敬悟にかけられた殺人容疑は信じなかったが、それでも彼に素行不良の噂がつきまとっていたことも聞いていて、家族の恥だと激怒した。
 電話の向こうから、とにかく釈明に戻ってこいと怒鳴られたが、敬悟はそんな気にもなれなかった。
 ただでさえ、自分でも信じられないような日々に晒され、挙げ句の果ての退職だ。そんなときに、疲弊しきった息子に対する思いやりなど欠片も見せず、頭ごなしの怒声をぶつけてきた親になど、会いたいとは思えなかった。
 自分の周囲で、なにが起きているのかすら理解ができず、ならばせめて確かめようと、敬悟は夜の街をさまよった。
 自分が出没したと噂された風俗街やビルの近辺を歩き、今夜などは思い切って殺人事件の現場となった雑居ビルにまで足を運んだ。
 そこで敬悟は、取り調べに来ていた刑事たちと鉢合わせた。
 相手が刑事とわかったのは、彼らが敬悟の事情聴取のため、学校を訪れたふたり組だったからだ。
 犯人は現場に戻るという。疑われている今の状況で、殺人事件が起きた場所の前をうろつくなど軽率だったと、そのとき敬悟は後悔した。
 だがここで、さらにわけのわからぬことが起きた。
 刑事たちは、敬悟のことを覚えていなかったのだ。
 鉢合わせ、よけいな疑念を抱かせないようにと、敬悟は自分から刑事たちに声をかけた。だが彼らは、敬悟の顔をまるで知らないようだった。それどころか、日下敬悟の名も、学校にまで足を運んで校長室で事情聴取をしたことも、日下敬悟に関することの、一切合切を忘れていた。
 敬悟は呆然とした。彼らが嘘をついているのではないかとさえ考えた。
 忘れた? そんなことはあり得ない。そんなことはあってはならない。
 彼らが刑事として学校に来たせいで、敬悟の人生は狂ったのだ。教師を辞めて、失意の中で当てもなくさまようだけの存在になってしまったのだ。忘れたなどと、言われたくない。
 だが彼らの記憶の中から日下敬悟という存在は、本当に消え失せているようだった。それは話をしたときの彼らの表情からだけでも、容易に感じとれるものだった。
 信じたくなかった。自分はなぜ、学校を辞めたりしたのだろう。自身にまつわるわけのわからない噂話で信用をなくしたところへ、身に覚えのない殺人事件の嫌疑をかけられたからこそ、逃げるように教師の職を離れたのだ。
 なのに取り調べに来た刑事が、敬悟のことを覚えていない? 敬悟の嫌疑は、すっかりなかったことになった? あの事件は、未だ容疑者はおろか、殺害方法も特定できてないらしい。この状況で、刑事である彼らが、自分たちが話を聞きに言った一般人を忘れるなど、あってはならないことだ。
 逆上しそうになりながら、敬悟は彼らに取りすがった。いったいどういうことなのかと、問い詰めようとしたのだ。
 だが、まるで記憶にないという相手にいくら聞いても無駄なことだ。最初は怪訝な顔をしていた刑事たちも、最後には狂人でも見るような目を敬悟に向け、面倒くさそうにあしらいながら、足早に立ち去っていった。
 ひとり取り残された敬悟は、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

 いったい、なにが起きているんだ?
 殺人事件があったビルの前で取り残された敬悟は、ただ自問自答を繰り返していた。
 だが、答えは全く出て来ない。そんなものは、出てくるはずがない。まるで世界中の人間に、ドッキリでも仕掛けられている気分だ。いや。ドッキリならば、そんなにありがたいことはない。誰の企画かは知らないが、今までの出来事が全て嘘であったなら、それだけで敬悟は救われる。
 あり得ない妄想に、乾いた笑いが浮かんでくる。ため息にも似た笑い声が零れ出て、敬悟は壁にもたれると、ずるずると座り込む。
「嘘だろう……。なんなんだよ。いったい……」
 両手で顔を覆い、深くうつむき身を震わす。自然と滲み出てきた涙が、頬に溢れそうになる。
 彼らに声をかけられたのは、そのときだった。
「あれぇ? 日下じゃねーの?」
 頭上から降ってきた声には聞き覚えがあった。ギョッとして顔を上げると、見知った顔が遠いネオンや街灯の光の中に浮かんでいた。
「み、三津浦くん……」
 それはかつての教え子だった。三津浦だけではない。五人の元教え子たちが、敬悟の前に立っている。
「マジかよ。センセー。ここって、殺しがあった場所でしょー?」
「やっぱ、センセーが犯人だったのかよ? じゃねーとンなトコ、こねーよなぁ?」
「センセ、こんな所でなにしてたんだよ? 泣いてたの?」
 続いて聞こえてきたのは、悪意に満ちた笑い声。見知った制服姿ではなく、派手なジャンスカや黒ずくめといった思い思いの格好をした彼らは、既に敬悟を取り囲んでいた。路上に座り込んでいる敬悟には、彼らがひどく大きく見える。
 おずおずと立ち上がりながら、敬悟はまた狐につままれたような気分に陥る。刑事の中ではなかったことになっていたのに、かつての教え子たちは、未だ敬悟を殺人事件の容疑者として捉えている。これはいったい、どういうことだ?
彼らに気づかれないように、敬悟はそっと手の甲で目元に触れた。幸い涙は零れてなかった。こんな状況で彼らに泣き顔を見られるのは、ひどく危険な気がした。
「君たちこそ、こんなところでなにして……」
「決まってんだろー? 肝試しだよ。肝試し。人が殺された場所だぜー。見に来たくなるもんだろーが」
 グイと身を乗り出して、三津浦が顔を寄せてきた。それだけでも、敬悟の心臓は大きく跳ねる。この少年には幾度となく追いつめられた。敬悟に関する悪い噂が流れ始めたとき、クラスの中心人物だった彼は、率先して敬悟に対する悪辣な行為を行っていた。
 とっさに後じさりそうになったが、敬悟の背後は壁だった。自らを壁に押しつけるようにしながら、敬悟は少しでも少年たちから身を離そうとする。
「それにしてもなー。殺人現場に来たら、まさか犯人に会うなんてよー」
 敬悟の視線が、落ちつかなく宙をさまよう。やはりだ。彼らは敬悟が事情聴取を受けたことを覚えている。当の刑事は忘れていたのに、これはいったいどういうことだ?
 だがその疑問を考える余裕は、今の敬悟にはない。
 三津浦の手が、敬悟の襟元をつかむ。教室で、そのままシャツの前を広げられ、全てのボタンが跳んでしまったのを思い出し、敬悟はギュッと身を縮こまらせる。
「やめてくれ。僕は犯人なんかじゃない」
 震えそうになる声をどうにか堪えて少年に告げる。だがその姿は、追いつめられた小動物そのままだ。これまでに何度も苛めて楽しんできた相手を前に、少年たちのニヤニヤ笑いは止まらない。
 既に教師という肩書きもなくした敬悟に、よりにもよって彼が被疑者扱いされた殺人現場の前で出くわしたのだ。
こいつをもっと追いつめたい。あわよくば、敬悟に罪を認めさせ、殺人事件を解決したヒーローになれるんじゃないか? そうすれば俺たちは有名人だ。
そんな身勝手で凶悪な欲望が、彼らの中に湧き上がる。
「へー。犯人じゃないって? けーさつが来たってのに、よく言うぜ」
「だよなぁ。犯人じゃないショーコは、どこにあるんですかぁ? 日下センセーよぉ」
「なんなら証拠。オレたちが探してあげましょーか?」
 三津浦の背後から伸びてきた手が、するりと敬悟の脇を撫でた。服の上からでもわかるほどの強い動きに、ゾッとするような感覚が走る。鳥肌が立つ悪寒と恐怖に、反射的に身を捩る。
「抵抗すんなよ。おい。どうする?」
「まずは身体検査だろー。怪しいモン、持ってねーか、ちゃーんと調べねぇとなぁ」
「だよなぁ」
 その言葉と同時に、微かに濡れた音がした。それが舌なめずりのそれだと気づいて、敬悟の精神は弾けた。
「い、いやだっ!!」
 思わず三津浦を振りほどき、敬悟は駆け出していた。彼の抵抗など予想もしていなかったか、少年たちは一瞬固まり、敬悟の逃走を許した。
「てめっ! 待てよっ!!」
「逃がすな! 追いかけろっ!!」
 夜の裏道を敬悟は走る。その後を、少年たちが追ってくる。
 表通りに出ようとしたが、敬悟はこの界隈をまるで知らなかった。少しでも明るくにぎやかな方に行こうとするが、そのたびに回り込んでくる少年たちに阻まれて、逆に暗く奥まった人気のない道に入ってしまう。
 少年たちは楽しんでいた。自分たちが遊び慣れた夜の街で、弱いくせに立場だけで自分たちの上に立っていた相手を追いつめることを心の底から楽しんでいた。
 もっと、もっと追いつめたい。この男の泣き顔を見て、この男の泣き声を聞き、屈服と服従を引き出したい。
 今ならそれが、やすやすとできる。
 獲物を追いつめる肉食獣の歓喜にも似た衝動の中、彼らはついに敬悟を路地の行き止まりに追いつめた。
 目の前にあるのが壁だけだと気づいたとき、敬悟はひどい有り様だった。さんざ追いかけられ、幾度も袖やジャケットの裾をつかまれては振りほどいたせいで、着衣はひどく乱れている。ジャケットの肩は脱げ、シャツの襟元のボタンは跳んで、白い胸元が覗けている。教師らしく清潔に整えられていた髪は乱れて汗で皮膚に貼りつき、紅潮した頬と共に暗がりの中では淫猥な気配さえ漂わせている。
「逃げるってなぁ、自分がやったって認めるからだよなぁ」
「違う……」
「犯人は、みんなそーゆーコトを言うらしいぜぇ」
「違う……」
 否定したいのに、ろくに言葉が出て来ない。弱々しく頭を振りながら、敬悟は背を壁に押しつける。
 落ちつきなく動く目は、必死に逃げ道を探していた。だが、狭い路地で重なり合うようにして立ちはだかる少年たちには、隙間などまるでない。彼らを押しのけて逃げ出すことなど、敬悟には到底無理だと思われた。
 かつて教室では、幾度もあったことだ。取り囲まれて押し返し、授業中の教室から教師の敬悟は逃げ出した。
 だが、今は逃げられない。あのとき逃げられたのは、きっと敬悟が教師だったから。その肩書きがあったから、彼らは敬悟を見逃したのだ。敬悟が自分たちと無関係になった今、少年たちのたがは外れ、徹底的に追いつめてもいいと身勝手に思いこんでいる。
「それじゃあまずは、所持品検査といきましょうか。日下センセー」
 脇に立つ三津浦に、いきなり顎を鷲つかみにされた。ぐいとそちらを向かされたのとほとんど同時に、反対側から別の誰かの手が伸びてくる。敬悟のジャケットを脱がせると、続いて誰かがシャツの前に手をかけてくる。
「おい、よせ! やめろよ!」
 身を捩って逃れようとしたが、ふたりがかりで肩を押さえられ、逆に壁に固定される。
「つまんねー。空かよ」
 脱がせたジャケットを探っていた少年が、ポケットの裏返ったそれをポイと路上に投げ捨てた。
「じゃ、こっちだな」
 三津浦が身を寄せてくる。ズボンのポケットに指が入り、マンションの鍵を抜き取る。
「返してくれ!」
 敬悟の言葉にはかまわずそれを友人に渡し、続いて尻の方に手を伸ばす。 「おっ。財布みっけ。これでなんか買ってよ、みんなで日下んちにお邪魔する? センセー、家近いのかよ?」
 ギュッと身が縮こまる思いがした。彼らに家を知られ、そこに入り込まれるなんて、考えただけでもゾッとする。
 そのとき敬悟も完全に悟った。彼らはもう教え子なんかじゃない。敬悟を玩具にし、貪ろうとする略奪者でしかないのだと。
「それを返せ!」
 自由の利く手を伸ばしたが、指先が触れかけたところでかわされて、財布は取り戻せなかった。それも仲間に渡した三津浦は、全身でもって敬悟を壁に押しつける。
「いいじゃん、センセー。こんなところじゃ物騒だしよ、俺たちだってじっくり取り調べなんかできないだろ? センセーんちで、ゆっくりやろうぜ」
 下肢の間に押し込まれた太腿を、グイグイ押しつけてくる。わざと股間を刺激しようとしているのが感じられ、敬悟の背に怖気が走る。
「だよなー。日下だってよぉ、こんなところ人に見られたくないだろうしなぁ?」
 人目などまるで気にせぬ様子で、少年たちはゲラゲラ笑う。それでも彼らのひとりが、ちらりと背後をうかがう。
 ちょうど路地の出口に、ひとりの男が通りかかったところだった。
「お、おい……」
 振り返った少年が、妙に気の抜けた声を上げた。つられて三津浦たちも振り返り、敬悟もそちらに救いを求める目を向ける。
 通りかかった男もまた、路地の奥でひとかたまりになった者たちに、ふと足を止めたところだった。
 男の姿は、スポットライトを浴びたように、街灯に照らし出されていた。怪訝そうなその顔に、敬悟も少年たちも、ぽかんとなる。
 通りかかった男の顔は、日下敬悟と全く同じだったのだ。
 一瞬、鏡でも運ばれてきたかと思った。だが、ほとんど半裸の敬悟と違い、男の服はきちんと整っている。そもそも敬悟が着ていたのは、キャメルのジャケットに白い襟つきシャツと、ウールホワイトのズボンだ。しかし男が着ているのは、黒のズボンと黒の襟つきシャツだけ。肌寒くなってきたこの季節に、その辺りの店からひょいと出て来たような格好だ。
 それなのに、その黒ずくめの上に載っているのは、敬悟と全く同じ顔だ。息をすることすら忘れ、敬悟は男に見入っていた。それは、三津浦たちも同じだ。
 無言のまま、ほとんど表情もなく、男はじっとこちらを見ていた。やがて状況を理解したのか、彼は身体を傾けると、ふらりと路地に入ってきた。
「おい、日下。あんた、双子だったのか?」
 呆然とした三津浦の問いかけにも敬悟は返事もできない。
 双子だった覚えはない。兄がひとりいはするが、父親似の彼は敬悟より無骨で厳めしい顔をしている。
 近づいてくる男はずっと繊細な顔立ちで、細い鼻梁も薄い唇も切れ長の目も、どれもこれもが敬悟の顔を写し取ったかのようにそのままだ。あえて違いを指摘するなら、表情のせいか、彼の方が敬悟よりシャープな印象があるくらいだ。
 近づくほどに自分との相似性しか見つからない男を前に、真っ白になっていた敬悟の思考にひとつの光が射した。
 こいつか?


※ 本作品の内容は、全てフィクションです。