『メタモルフォセス館 ── 変貌の館 ──  試し読み

 頭がずきずきと痛んだ。頬が歪み、冷たく硬い物に押し当てられているような感触がある。
 俺は、薄く瞼を開けた。
 最初に目にしたのは、白の中に薄い茶色や灰色がマーブルに入った模様だった。身を起こそうとした俺は、硬い感触からそれが大理石の床だと気づいた。
「気がついたようですよ」
 穏やかな声がした。反射的にそちらを向こうとしたけれど、床の上に倒れた俺は上手く動けない。身体を起こそうとしたのだが、ガチャガチャという音が聞こえて、それも上手くできなかった。俺の手首には手錠がかけられていて、腕を広げられなくなっていた。
「くそっ。なんだこれ……」
 身を捩った俺の足元でも、じゃらりと鎖の音がする。それと同時に足首にも、ベルトのようなものが巻かれているのを感じた。
 首をねじ曲げ、足元を見ようとする。だけどそれより早く、頭上から声がかけられた。
「気がついたか。鷹尾翔」
 名を呼ばれ、俺はハッと顔を上げる。三メートルほど離れたそこに、豪華な椅子が置かれていた。子供の頃に絵本で見た、王様の玉座みたいなのだ。
 そこに、一人の男が座っていた。長い脚を組み、こちらを見下ろしている。だがその男も、サングラスをかけていて、目の動きはよく見えなかった。
 濃い茶色のそれは、神宮をさらおうとしていた男のそれとは、色も形も違う。あの男のは、真っ黒でごついスクエアタイプのやつだったけど、今目の前にいる男のは、ボストンタイプの目元を広く覆い隠すやつだ。
 床に這いつくばったまま見下ろされているのが悔しくて、俺は起き上がろうとした。床に手をつき身を起こそうとしたのだが、途端に殴られた後頭部がズキリと痛み、低く呻いて動きを止めた。
 そんな俺の肩に、背後から手がかけられた。
「起こして差し上げますよ」
 最初に聞こえたのと同じ穏やかな声がして、俺の身体は起こされた。
 その頃には、ようやく俺も気づいていた。着ていたはずの制服のブレザーはなくなっていて、シャツとズボンだけになっていた。起こされた時に見えたのだが、両足首には黒い革製のベルトが巻かれ、その間は長めの鎖で繋がれていた。
「なんだよ。これ……」
 思わず漏れた呟きに、傍らから鼻先で笑うような声が聞こえる。俺を起こしてくれた奴だ。反射的にそちらを睨み、俺はドキリとしていた。
 全く違和感のない日本語だったから気がつかなかったけど、そこにいたのは、俺でも一目でわかる、染めたものでない亜麻色の髪を肩になびかせた若い男だった。若いといっても、俺よりは年上だ。二十六、七……。いや。外人は老けて見えるっていうから、もっと若いのかもしれない。
 優しそうな顔立ちで、黒いベストとズボンを身に纏った姿は、カフェのギャルソンか漫画の中の執事みたいに見えた。
 もしかしたら、本当に執事なのかもしれない。
 大理石の床を持つこの部屋は広々としていて、大きなお屋敷の広間って感じがする。豪華な椅子に王様みたいにふんぞり返って座っている男は、いかにもお屋敷の主って雰囲気を漂わせている。
 椅子にかけ、俺を見下ろす男は、墨で染めたみたいに真っ黒な髪だった。神宮をさらおうとし、俺とやりあった男と同じだ。ただ、あいつは髪が立つぐらいに短くしていたけれど、この男のは違う。やや長めの髪をきちんとセットし、いかにも手入れが行き届いてますって感じだ。
 サングラスのせいで顔はよくわからない。肌の色はやや白い気はするし、顔立ちは彫りが深いけど、外国人なのか日本人なのか、はっきりしなかった。
「さて、どうしたものか……」
 肘掛けに載せた左手で頬杖をつき、そいつは俺を見下ろしている。
 その時、男の背後から腕が伸びた。白い袖に包まれた細い腕が、男の首に巻きついた。
 続いて椅子の背もたれの後ろから、華奢な姿が現われる。パッと見、女の子みたいにも見えた。だけどよくよく見ると、そいつも男だった。
 年は多分、俺と同じくらい。もしかしたら、一つ二つ年下かもしれない。
 椅子に座った男と同じで、白いシャツに黒いズボンを身につけている。ただ男と違うのは、あちらがいかにもシャツといったのを着ているのに対し、こちらが身につけているのは、ブラウスと言った方がいいような、いかにも柔らかそうな素材とデザインのだってことだ。
 だがそれよりも目を引くのは、見事な金髪と褐色の肌。男を見つめる大きな目は、黒い瞳だけれど、日本人じゃないってことは一目でわかる。
 そいつは横から男の肩に両腕を回し、しなだれかかるようにして立っていた。男に向けられる眼差しは、うっとりしながら微笑んでいるようで、まるで女が好きな男に見せる媚みたいなのが感じられる。
 男はそいつを見ない。サングラス越しの眼差しは、ずっと俺に向けられたままで、しなだれかかる少年のことなんて、完全に無視している。
 一瞬つまらなさそうな顔になり、そいつも俺の方を向いた。途端に表情は一変し、硬く冷たいそれになる。
 向けられた目に、俺はハッと我に返った。そして自分を見下ろす男を、真っ直ぐに睨みつけた。
「おいっ、ここはなんだっ? あんたら、誰なんだよっ?」


※ 本作品の内容は、全てフィクションです。
■ 実在の人物、団体、場所と同じ名称のものがあったとしても、一切関係ありません。
■ また、本作品は犯罪を助長する意図のものではありません。