『メタモルフォセス館 ── オークション ──  試し読み

「ご用の際は、内線0番でお呼びください。それでは、どうぞおくつろぎを」
 俺たちが通されたのは、豪華な応接間にベッドルームが二つついた、広々とした部屋だった。
 案内の男が去るなり、シンに頭を撫でられた。
「な、なんだよ?」
「騒がなかったな」
 髪に長い指が埋まる。くしゃくしゃと髪を掻き混ぜられて、俺はギクリと立ち尽くす。
 騒ぐなんて、考えてもいなかった。メタモルフォセス館からホテルに着くまで、一度の休憩もなく、車から出ることもなかった。
 だけど車を降りたとき、いくらでもチャンスはあったじゃないか。
 大声で騒いで駆け出せば、仮に捕まえられたとしても、大勢の人が見ていたんだ。
 助けてくれ。俺は奴隷として売られちまう。そう訴えれば、助けてくれる奴だって、いたかもしれなかったのに。
「そんなの……思いつきもしなかった……」
「そうか」
 そう言ったシンの声には、嬉しそうな響きがあった。俺の頭を撫でる手が、さらに強くなる。何度も髪を撫でられて、ようやくシンの手は離れた。
「いい子だ。翔」
 いい子って……二重の意味で、決まりが悪い。いい子だなんて言われたことと、あんなにいやがってたくせに、最大のチャンスに気づきもしなかった自分に。
「しょうがねぇだろ。俺には、他に道はないんだ。覚悟決めるしかないんだよ」
 ここまで覚悟を決めるなんて、自由だったときにはなかった気がする。でも俺には、本当にそうするしかないんだ。それ以外の道を、全部断ち切ってしまったのは、他でもないこのシンなのだけど。
「いい傾向だ。お前は本当にいい子だな。翔」
 一度離れたシンの手が、また頭に載せられた。さっきと同じように強く、だけど優しく撫でてくる。かけられた声といい、シンのやることは、いちいち優しい。
 あんまり優しくされるせいか、胸が痛くなってきた。手を払いのけることもできなくて、シンから顔を背けるように深く俯く。そうしたら、ようやく手を離してくれた。
「そこに座れ。話をしておく」
 言われるがまま、一人掛けのソファに座った。向かいのソファに、シンが座る。今日のシンは、黒いシャツとズボン。ジャケットまで黒で、黒髪に濃い色をしたサングラスまでかけていると、闇の塊が座っているみたいだ。
 向かい合った俺は、よく着せられている白いシャツと綿のズボン姿だ。
 落ちつかない気分でいると、シンがサングラスを外してテーブルに置いた。鮮やかな青い瞳に見つめられ、いい加減見慣れていいはずなのに、俺はまた気後れしそうになってしまう。
 マクシミリアンも、うっかり部屋を出るとホテルの関係者に間違えられそうな、いつものスタイルだ。
 いつの間にか姿が見えなくなっていたマクシミリアンが、トレイを手に戻ってきた。ソーサーに載せたカップを、シンの前に置く。応接間の隅にバーカウンターがあって、そこでコーヒーも淹れられたらしい。豊かな芳香が広がって、俺の鼻を刺激した。
「いいか? 翔。ここが今日の会場だ。オークションは、十九階にあるホールで行われる」
 これだけでも、ギョッとした。ロビーを見ただけでも、ここが至極真っ当なホテルだってわかる。絶対に、日本国内でもトップクラスの高級ホテルだ。
 そんなところで、奴隷の売り買いをするってのかよ? 全く信じられない話だ。
 驚く俺に、シンの口端が微かに上がる。笑い出すのを堪えるような顔をしながら、シンはさらに話を続ける。
「ちなみに今日は貸切だ。ホテルの客は、全員オークションの関係者だ。客と、奴隷の出品者。主催者側と、彼らが雇ったダミーも少しは混じっているな」
「全員って、ここの従業員もかよ?」
「そうだ。従業員も、今日はオークションについて言い含められた者だけで構成されている。ここのオーナーは、主催サイドと密接な繋がりを持つ男でな。今日のための会場にと、進んでホテルを提供したそうだ」
「それじゃ、あのロビーにいた連中は……」
「客とダミーだ。見られていただろう?」
 途端に肌に突き刺さるような視線が甦った。
 あのロビーにいた連中。客全員がいい服を着て、いかにも金持ちってオーラを放ちながら、お行儀よく振る舞っていた。
 だけどあのとき感じた視線は、勘違いなんかじゃなかったんだ。あそこにいた連中は、俺を値踏みしていたんだ。
「言っておくが、今回の客は全員男だ。あそこにいた女客は、主催者側が雇ったダミー……エキストラみたいなものだ。客が男ばかりだと、違和感が出るからな。期待するなよ」
「別に、期待なんか……」
 そんなの今さらしていない。さんざシンに抱かれたんだ。俺を買うのは男だって、これも覚悟はできている。
「ならいい。それから、客はこのホテルにいる者だけではない。国外から、インターネット中継で参加する者もいる」
「インターネット中継?」
「そうだ。どうしても都合がつかなかった客が、やはり何人か出てな。やむなくそうなったらしい」


※ 本作品の内容は、全てフィクションです。
■ 実在の人物、団体、場所と同じ名称のものがあったとしても、一切関係ありません。
■ また、本作品は犯罪を助長する意図のものではありません。