『メタモルフォセス館 ── 幸福な奴隷 ──  試し読み

 メタモルフォセス館から逃げ出して三日目の夜。俺は再びハンドルを握った。記憶を頼りに山中を走り、あの館に戻ったんだ。
 だけどそこに、館はなかった。森の中に、だだっ広い空き地があるだけで、最初は道を間違えたかと思ったくらいだ。
 懐中電灯を手に、車から降りる。そうしたら、途端に焦げ臭いにおいが、鼻腔に流れ込んできた。頼りない光の中に、黒々とした残骸が浮かび上がる。
 真っ黒に焦げて木炭みたいになった太い木は、館の柱だったものか? 黒々と煤で汚れて崩れた壁は、クリーム色だった外壁だ。
 なにかが視界の端で揺れて、悲鳴を上げそうになった。慌てて懐中電灯を向けると、動いていたのは熱で歪んだ窓枠に引っかかったカーテンの残骸だ。
 足の下で硬い感触がして、みしりと音を立てた。この館に捕らえられてすぐ、俺が割ろうと、何度も椅子を叩きつけた窓のガラスだ。防弾ガラスだって言ってたけど、火災のせいか細かいひびだらけになっている。
「シン……」
 小さな声で、呼んでみた。もちろん返事はない。辺りには、人の姿どころか、気配すらない。
 真っ暗な中で弱々しい光だけを頼りに、シンたちの行方の手がかりはないかと探し続けた。だけど、館に隣接していたガレージは、停めていた車やバイクごと焼けてしまっている。館の地下室も、入り口があった辺りが大きな壁の残骸でふさがれてしまっている。
「は……ははっ……」
 残骸の上で膝をつき、乾いた声で俺は笑った。なんてこった。館がなくなっちまってる。ようやく見つけた俺の居場所が、無惨な姿を晒している。
 囚われの身となったとき、俺は何度もこの館から逃げ出そうと試みた。こんな館、なくなっちまえばいいと、何度も思った。
 それがどうだ? ひとりきりの自由な身になった今、俺はあのメタモルフォセス館が恋しくてたまらなくなっている。悲しくて今にも涙が溢れそうなのに、俺の口からは笑い声しか出て来ない。
 シン。会いたいよ。いったいどこに行っちまったんだよ。銃を持った連中に襲撃されて、なんで逃げようとしなかったんだよ。
 笑いながら立ち上がり、ふらつく足で館を離れた。
 俺が使った車を隠していた洞穴には、もう一台車があった。そこも見に行ったけど、空っぽになっていた。
 シンたちも、無事に逃げ出せたんだろうか。それともマフィアに捕まって、車も持って行かれてしまったんだろうか。
 それは、俺にはわからない。だけどもう、涙は出なかった。あんまり泣きすぎたからか。それとも、ある程度の覚悟ができていたからか。胸の奥に大きな穴が空いたみたいで、ため息しか出て来なかった。
 これから俺は、どうしたらいいんだろう? シンやマクシミリアン。剣を探す術はあるんだろうか?
 冷たい風に吹かれながら、のろのろと館に戻る。諦めて停めてあった車に乗り込んだ俺は、真夜中の山道を下りていった。今はそこしか手がかりのない、『田中』の部屋に戻るために。


※ 本作品の内容は、全てフィクションです。
■ 実在の人物、団体、場所と同じ名称のものがあったとしても、一切関係ありません。
■ また、本作品は犯罪を助長する意図のものではありません。