6月1日 土曜日


リトル・ワールドの風景
 結局、12時すぎてしまって、1時半頃、出発した。たびは母さんが出かけるのがわかっているのか、荷物に入り込んで眠ったりしている。シルクロードから帰ってきて、二晩は新潟に泊まったし、要するにろくに家にいなかった。その上また、20日も四国に出かけるのだから、わかっていればおもしろくあるまい。ちょっと、申し訳ない気持ちがする。
 風邪が治りきっていないので、困ったなあと思っていたら、友人がお餞別を持ってきてくれた。その話をすると、ちょうど週末なので、帰りの電車賃さえ持ってくれたら途中まで送ってくれるという。ありがたい。新潟に出かけた前の晩から毎日平均2時間位しか寝ていなかったので、運転に自信がなかったのだ。早速、お願いして、友達の運転で出発した。両親の家に、両親の荷物を取りに行って、北池袋から首都高に乗った。私の車のテープの趣味の批評やら、シルクロードの話、お遍路の話などをして、快調に東名高速に。途中、海老名のサービスエリアで、ハイウェイカードの5万円のを購入した。
 友人も、とうとう眠さに耐えきれなくなったらしく、富士川のサービスエリアで止まったのが、午前5時頃。二人でシートを倒して仮眠をとった。私の方が、あまりの暑さで目を覚ましたのが午前7時頃。車を木陰に動かして、再度10時まで寝て、一路、名古屋の北の犬山を目指す。そこには、何年か前に、この友人と、拾ったばかりのたびをつれて、日帰りドライブに出かけた、リトルワールドという遊園地があるのだ。せっかく久しぶりに一緒に出かけるので、またいってみることにした。まだ、お遍路に出発していないので、お遊びもいいだろうと思ったのだ。
 ここには、世界各地から移築されたり、ここで再現したりした特徴のある民家が、園内を一周するコースにそって立っていて、それを順番に訪ねるようになっている。ほとんどのパビリオンで、現地の衣装を着て写真を撮るという有料のアトラクションがあるし、いくつかのパビリオンでは、現地の食べ物を食べることができる。これがとてもおいしいのだ。私とこの友人は、このリトルワールドの旅を、『リトルワールド食い倒れツアー』と密かに呼んでいる。今回も、いくつかのビールを含む飲み物と、カレーとナンやこんにゃくのそば、わにのステーキなどをたべた。わには何に似ているということもないが、結構おいしかった。展示も見応えがあるし、何よりも一周コースの長さがちょうどよく、なかなか楽しいお散歩コースなのだ。この前きたときは、秋の残暑の厳しい頃で、車の中で脱水で死んでも困るので、たびをかごに入れて、入り口で預かってもらって待っていたので、結構大急ぎで回ったけれど、今日はゆっくり回ることができた。私たちが戻ったら、入り口のゲートのところの風通しのいいところにあった、たびのかごには、たびがまだ400g位でかわいい盛りだったから、人がたかっていたっけ。
 今回も猫をみてくれている、玉青ちゃんにだけおみやげを買い、5時の閉園のころ、リトルワールドを後にした。 
 小牧東は、中央道に入っているので、もう一度名古屋まで戻って、東名阪自動車道から名阪国道を通って、西名阪の郡山で24号線に入ったのが午後8時頃。それから、橋本を通って高野山にあがり、奥の院に着いたのが10時40分だった。二人で、わざと明るい声ではなしながら、奥の院に参拝し、お遍路の無事とご縁をいただいたすべての人の幸せをおねがいした。
 高野山を和歌山の方に向かって降り始めたのが、11時半ごろで、和歌山市内に入った頃には1時近くなっていた。これから泊まるところを探すのもかったるいし、ビジネスホテルの小さなユニットバスにも魅力がないので、二人で相談して、もしあいていたら、ラブホテルに泊まろうということにした。こんなことを書くとびっくりされたり、誤解されるかもしれないので説明をすると、地方周りの仕事をしていた頃、ホテルの手配に手違いがあって、どこも泊まるところがなかったときとか、うちの猫がたび一匹だった頃、つれて旅行にでると、決まってその手のところに泊まっていた。というのは、そういうホテルは予約がいらないし、車ですーっと入ってしまう形式のところなら、猫をつれていても大丈夫だからだ。いわゆる生活の知恵というやつだ。地方のラブホテルは部屋も広いし、ベットもこの世のものとは思えないほど大きい。お風呂もジェットバスだったり、サウナがついていたり、とても豪華なところもある。そしてだいたい、泊まりは1万円で足りてとても経済的なのだ。たいていは、部屋の中にソファーもあるので、二人や三人なら楽に寝られる。今夜のような日は、結構便利なのだ。和歌山市のはずれに目指すものを発見していってみると、ちょうどひと部屋あいたところだった。これを逃すと探すのが手間になるので、そのままそこに泊まることにした。プロノートミニとデジタルカメラとわずかな着替えを下ろして、部屋に入り、いつもの作業をしている間に友人に風呂に入ってもらい、二人で、リトルワールドで買ったドイツのビールを飲んで明日の相談をして、私が風呂に入ってでてきたら友達は長距離運転の疲労とビールの酔いですっかりソファーの上で眠り込んでいたので、起こしてベットにいってもらい、私はソファーで眠った。


6月2日 日曜日


徳島へのフェリーの中で
フェリーの中にて
 朝、10時のチェックアウトぎりぎりまで寝て、和歌山へ。始めてきたという友人のために和歌山城に行った後、南海電鉄の和歌山市の駅前で小鯛雀寿司とサンマの寿司という名物料理でブランチを食べた。そして昨日相談したとおり、せっかくここまできたということで、友人は関西国際空港から、飛行機で羽田に帰るということにして、車で30キロほど離れた関空まで送っていった。
 関空は本当にきれいな空港だった。ただし、本土から関空にわたる橋の通行料金が往復で1700円と高かったのと大阪からは遠そうだった。1時55分発のJALに乗るという友人と1時30分にゲートのところで別れ、私は和歌山のフェリーの港から、徳島の小松島までのフェリーにのった。15時35分発で約二時間の船旅だった。
 徳島東急インで両親と落ち合い、駅前でうどんの夕食を食べた。さて、明日からはお遍路さんだ。気持ちを入れ替えなくては。


6月3日 月曜日


8番熊谷寺の塔とつつじ
 天気は曇り。朝ご飯をちゃんと食べたいという母の希望で、9時少し前にホテルを出発した。
 一番の霊山寺で納札や壊れてしまった鈴の代わりなど、不足している用具をそろえて、いざお遍路に出発である。私自身は、母と父が体の調子を崩していた6年前に初めてお遍路にきて以来、これで4度目である。今回は、主に父母のお礼参りを兼ねている。私はいつも通り、お経を上げて回るが、6年前にはお経をきちんとあげていた母が今回は気力が続かないらしく、手を合わせるだけのお寺もある。
 他に6年前と変わったことといえば、お遍路を回るスピードが落ちたこと。歩き方も、階段の登り方もすっかり変わっている。父と母の老いを目の当たりにして、少し悲しい気分になった。すごくプライベートなことを書くと、父と母が亡くなると、独身の私は天涯孤独になってしまうのだ。それに対する恐怖もあって、たびと暮らし始めたのだ。いつまでも元気でいてもらいたいけれど、こうやって年老いた両親をみると、本当に不安になる。
 約2年前に一人でお遍路にきたときは、拾ったばかりのたびが一緒だった。たびがいるので、宿に泊まれず、毎日たびと車の中で寝た。あれはあれで楽しい旅だった。今回は、野宿の思いでの地だの、いろいろをついでに回ろうと思っている。3番のお寺では、たびをつれてのお遍路でたいそう心配していただいたので、その節のお礼を言って、たびの今の写真をお目にかけたら、覚えていてくださった。犬をつれての歩き遍路というのはたまにあるらしいが、子猫をつれた遍路というのは珍しいのでよく覚えているといわれた。
 夕方、たびと野宿した鴨島の公園に両親を連れていった。ここで車を止めて寝たといったらびっくりしていた。今日は1番から10番まで打って、夜の泊まりは、御所温泉ホテル。両親が年寄りなのでたくさんお料理がでても食べきれないと思い、一番やすい料金の一泊8000円でお願いしたのだが、やはりたくさんお料理がでて、私ですら食べきれなかった。おそるべし、御所温泉ホテル。夜、同時進行で写真の入ったお遍路日記を作ろうと思ったが、時間がかかりすぎるので断念。ソフトバンクのデジタルマガジンの記事を作って寝た。  


6月4日 火曜日


12番焼山寺の山門
 朝から雨。昼過ぎにあがった。今日は11番からスタート。雨の中を12番へと峠を越えた。途中の山の上からの雨に煙る景色をみて、父が墨絵のようだと感動していた。父はビデオを撮ったり写真を撮ったり、本当はお遍路はお遍路だけに集中しなければいけないのだけれど、半ば楽しみながら回っているようだ。もっと真剣に参れとしかられるかもしれないが、数え80の父の楽しそうな顔をご覧になれば、御大師様も勘弁してくださるだろう。そのぶん私が丁寧にお参りをしよう。
 山から降りて、平地の13番の大日寺の近くでお昼を食べた。料理屋を出ると雨はあがっていた。
 今日は、17番まで打って、ホテルへ。父と母の体調を考えて、今回はとてものんびりした計画になっている。本来なら2日で回るところを3日かけているような具合である。その分ゆっくりお参りもできて、私もうれしいが。宿泊の数が多くなるので、倹約するため、宿屋を切りつめている。もっとも、宿坊泊まりよりは少しかかるが。一番やすいのは、野宿だが、経験上、年寄りには勧められないので、今回は野宿の予定はない。
 夜、ホテルに、2年半前にたびと回ったとき、友達になったお坊さんが会いに来てくださった。3人のかわいい娘のいる、同い年のお坊さんだ。明日は休みを取って、一緒に23番まで回ってくれるという。うれしい話だ。つもる話をしていたらあっという間に時間が経ってしまって、今睡眠時間を気にしながらこの日記を書いている。
 お遍路日記は東京に帰ってから作ることにして、この日記をつづけることにした。とにかく、写真の処理と、いろいろに時間がかかりすぎるのだ。毎日車を運転するので、睡眠不足は大敵である。今日も夕方からとても眠かった。人生にはいろいろ大切なことがあるけれど、やはり命も大切だし、親子3人で心中することもないしね。東京に帰ったら、ちゃんと作りますからまたみてくださいね。。


6月5日 水曜日


一九番立江寺の塔とお大師さま
 今日は、昨日とは打って変わって、まばゆいばかりの快晴である。朝、ゆっくりとホテルのロビーで新聞を読んでいる父の尻をたたいて、九時に出発した。今日は、小松島で昨日ホテルに訪ねてきてくれたハナさんとおちあい、一緒に回ることになっている。ハナさんは、徳島のお寺の跡取り息子で、現在は役僧(各お寺に雇われているサラリーマンのお坊さんのこと)として、二十番の鶴林寺の納経所にいる。私とはたびをつれてお遍路したときに、そこで知り合ってそれ以来本当にいいつきあいをさせていただいている。私は、お大師様のくださったご縁と信じているので、今回も一緒に回れると聞いて本当にうれしかった。
 ハナさんはすぐにうちの両親ともうちとけて、両親にお参りの仕方、お寺のいわれ、お遍路のいろいろなど、明るい口調で話してくれた。父などは、ハナさんの明るく誠実で親しみやすい人柄にすっかりとりこになってしまって、ハナさんの車に一緒に乗せてもらって移動する始末だ。
 ハナさんは日頃納経所にいるので、お客さんの納経にくる貸し切りのタクシーの運転手さんとは、ほとんど面識がある。今日、一緒に回ってくれているとき、ある運転手さんから、「今日は鶴林寺の奥さんが納経所に座っておいでるので、どうしたかとおもったら、こんなところにおったんかい、お参りかね」と声をかけられた。ハナさんが友達がきているので一緒に回っているのだと答えていたので、私が、「今日は、貸し切りなんです。いいでしょ。」というと、運転手さんが「ほんに、ええなあ」と大笑いしていた。
 そして、二十一番の太龍寺では、お寺の副住職がハナさんのお友達で、ハナさんが頼んでくれたら、本堂を始め、山内のお堂のすべてを案内してくださって、普通は見せていない仏様まで拝ませてくださった。これには本当にびっくりした。ところが徳島出身のハナさんでさえ、こんなことは初めてだと言っていたので、私は二度びっくりした。
 夕方、一緒に二十三番の薬王寺まで参って、ホテルに入って、しばらく四人で話をして、ハナさんに温泉にも入ってもらって、八時頃まで話をしていた。ハナさんの明るい人柄のおかげで、父も母も本当に楽しくお参りができたと大喜びだった。ありがとう、ハナさん。


6月6日 木曜日


快晴の太平洋。
海がまぶしかった。
 今日は、朝から真っ青な空が広がっていた。いい天気で、これは日焼けするぞとちょっとこわくなった。ホテルを7時40分に出発し、一路室戸岬に。
 昨日、ソフトバンクのYahoo!インターネットガイドの編集さんからメールが入っていて、あちらのホームページにもYahoo!インターネットガイド:お遍路旅日記というタイトルでエッセイが載ったそうで、ちょっとうれしかった。むこうも原則毎日更新ですのでよろしくお願いしますね。
 今日は、たびが一緒にお遍路にきたときに、たびが病気をして私が精神的に参っていたときにとてもよくしていただいた、二十七番の神峰寺(こうのみねじ)の奥様にお会いできるかもしれないのがたのしみだった。お寺に行くと奥様はちょうど納経所にいらっしゃって、いろいろその節のお礼を申し上げた。今回は両親が一緒だといったら、また、お茶を勧めてくださって、両親とも話をしてくださった。
 お昼は車の中で、お接待でいただいたおすしと沿道で買ったビワやみかんなどの果物ですませた。快晴の空ときらきら光る太平洋をみて、つくづく遠くにきたなあと思った。今日は、お納経の締め切りの五時ぎりぎりまで回って、予定通り三十二番まで打ち終えた。最後の二つは大忙しだったけれど。
 夜は、高知の桂浜のところの丘の上の国民宿舎桂浜荘に泊まった。料理もおいしくいい宿だった。私は母と親子喧嘩をしてしまって、ちょっと気まずかったけれど。それよりも、本当はもめ事を起こしてはいけないお遍路なのに、御大師さまに申し訳なかったな。明日、一番にお参りするお寺でちゃんと謝ろう。


6月7日 金曜日


33番雪渓寺の境内。
後ろ姿はうちの父である。
 朝、一番のお寺、33番の雪渓寺で一番に夕べの不始末をお詫びした。どうも、母も私も子供じみたところがあっていけない。
 昨夜の睡眠不足がたたって、どうもからだがだるかった。昨日の神峰寺と南国のインターチェンジの近くの道の駅、南国に続いて、今日は、たびと回ったときの思い出の場所の中村の温泉センターなどの写真をとった。
 かなり疲れて頭痛がするので、明日詳しく書くことにして、今日はもう寝ることにする。


6月8日 土曜日


 風邪を引いたか、朝から頭痛に悩まされた。今日は休養日にしてあり、足摺岬の旅館でゆっくりしていた。一昨日、昨日の二日間が一番きついのだ。一日布団の中で、うとうとと眠ったり起きたりしていた。


6月9日 日曜日


みんなの幸せを
願って、お灯明を
あげたお不動さま
 今朝は、雨は小降りになっていた。38番の足摺の金剛福寺から45番の岩屋寺まで打って、夜の泊まりは岩屋寺の近くの国民宿舎古岩屋荘である。ここは、たびときたとき、45番を打ち終えたとき、すでに頭痛ががんがんして、ここに泊まってゆっくりしたいのに、と思いながら通り過ぎた思い出の地である。
 今日は、日曜日なので、昨日と今日の二日間の週末休みを利用して、部分打ちにきておられる方が多く、どこのお寺でも納経をたいそう待たされた。特に、前に団体のバスがいたりすると、お軸(掛け軸のこと)が30本に、帳面(納経帳のこと)40冊、それに白衣が25枚なんて言う量がすむのをじっと待つ羽目になったりするのだ。団体の納経をしにきているのは、だいたいバスの運転手さんで、私のちょびっとの量の帳面を見て、先に納経させてくださったりする。とにかく、どこかの納経所で団体とかち合った場合、先を急いでいたら、途中の道でバスを追い抜くしかないのだ。バスを追い抜いて、札所に着いたら、おつとめをすませてからなんて定石通りのことを言っていないで、一目散に納経所に駆け込んで、納経をすませてから拝みに行くことにするのだ。
 しかし、四国を回っていると、たくさんの運転手さんに出会う。とにかく、みんな仏様のようにいい人ばかりで、この前、たびと一緒の時には、たびがおやつをいただいたり、ミルクをいただいたり、果ては、中で煮えてしまわないように(猫は体温の上昇に弱いので)細くあけておいた窓から逃げ出したたびを、私が戻ってくるまで、だっこしていてくださった運転手さんもいた。道のことでも、ちょっとでも不安そうにしていると、「同じ方向に回っているなら、ついておいで」といってくれて、ついていくと、私の分まで納経をしておいてくれて、また、次の札所まで、金魚のふんをさせてくれるのだ。これには本当にどれだけ救われたかわからない。納経を代わりにしておいてくださる分、時間には少しだけ余裕があったから、最後に運転手さんの無事も一緒に拝むようにしていたものだ。
 拝むと言えば、今日、岩屋寺の願掛けのお不動さんに、私も含めて5人の願を掛けてきた。もしうまく行って願いがかなったら、みんな、ちゃんとお礼参りに行くんだよ。わかった?かずさん、恭子ちゃん、まゆみちゃん、今野先生。頼んだよ。


6月10日 月曜日


四十六番浄瑠璃寺の
しゃくなげ。
きれいでしょ。
 今日は、昨日とばした四十四番の大宝寺から一気に五十九番の国分寺まで、走りに走った。朝は、6時20分に古岩屋荘を出発して、朝御飯も昼御飯も車の中で、パンやおにぎりを食べた。もっとも、全体にスピードアップはしていても、ろうそくも線香もたてるし、お経もちゃんとあげて行くので、その時間はある限度から短くならない。車も急ぎ回って、事故でもしたらおおぼけなので、それもそうは飛ばせないのだ。というわけで落ち着いた中にも、それなりに大忙しの一日だった。
 今日回った49番の浄土寺では、前回、たびも一緒に納経に行ったので、納経所の奥さんに覚えていらっしゃらないとは思いますが、と話してみたら、なんと、ご記憶だった。去年の末にとったたびの写真をお見せしたら、曰く「毛の薄い、貧相な猫を大事そうに抱いていて、どうするんだろう、こんなぼろ猫って、心配してたのだけれど、立派な猫になりましたねえ。」と喜んでくださった。ここでも猫づれのお遍路は珍しかったので、と言われた。この次は、本人ならぬ本猫と来ますねと約束して、お寺を後にした。  その後、56番の泰山寺から57番の栄福寺に行く途中、二人の男性のお遍路さんが、中ぐらいの犬をつれて(といっても、ひもはついていなかったが)歩いているのを見かけた。犬を友達にして、お遍路を回る話はよく聞くが、実物を見たのは初めてだった。
 今日は、今治の東の「湯の浦ハイツ」という公共の宿に泊まっている。忙しい日だったので、もう休もう。明日は、難物の60番の横峰寺がある。これは、徒歩の山登りがきついのだ。休んでおかねば、痛い目をみるぞ。


6月11日 火曜日


三角寺の山門。
山号は由霊山。
一歩間違うと幽霊山と
聞こえてちょっと怖い。
 今日は、雨には遭わずにすんだ。昨日あまりに気合いをかけすぎたため、今日は気抜けがしていた上に、横峰山が楽になったとは言え、駐車場までの登りがきつかったらしく、両親が参っていたので早めに宿に入った。今日は、六〇番から65番まで打っておしまいだ。
 明日は、仕事のため母が東京に帰ることになっている。私は、納経軸の土佐和紙でできたものを求めるため、高知の二八番の大日寺まで母を高知空港に送りながら、ドライブする予定だ。今、私が持っている納経軸は、たびと一緒に回ったときに、私が作ったものだが、やはり長い時間の経過には絹布は弱いので、丈夫な土佐和紙で作っておきたいと思うようになったのだ。しかし、一番の霊山寺には土佐和紙の軸は売っていないので、この次のために買っておこうと思っている。きっと、この次と言うことがあるはずだから。
 夕食後、泊まっている観音寺グランドホテルの屋上ビアガーデンで、ビールを飲んだ。風に吹かれていたら、なんだか、とてもゆっくりした気持ちになれた。あ、お酒のせいかな。  母が、金曜日の夕方に戻ってきて、後三日、月曜日には全部終了の予定だ。さて、後一週間がんばらなくては。


6月12日 水曜日


泣きながら走った
瀬戸大橋のパーキングエリア
 昨夜、インターネットにISDNの公衆電話から接続して、最後にメールを見たら、猫のお世話を頼んでいる友人から、『緊急事態』という題名のメールが入っていた。内容を見ると、3匹の猫のうち、一番小さくて、一番甘ったれでかわいかった八雲が、たびがあけてしまった居間のドアを通って、玄関にでてなぜか鍵の開いていた窓を通って、逃げてしまっていた。
 世話を頼んでいた玉青ちゃんが八雲がいないのを見つけて、探し回ってくれたらしいが、見つからなかったという。友人も玉青ちゃんもしょげ返っていた。私も、気を使って「仕方ないね」と、言って後のことを頼んで電話を切ったけれど、あまりにショックで涙もでず、部屋に帰ってお不動さんの御真言を唱えているうちに眠ってしまった。
 朝になって、今日は母が東京に帰ると言うことで、ついでに観音寺から高知までの高速を走って、高知でこの次のお遍路の時のために、土佐和紙の掛け軸を買いにお札所であったタクシーの運転手さんに聞いた仏具店に行った。土佐和紙の掛け軸と納経帳を購入して、その後、母を高知の空港に送った。よっぽど東京にこのまま帰ろうかなと思ったが、東京の仲間を信じるべきだという気がして、踏みとどまった。
 空港から知り合いのお寺さんに電話をして、事情を話して、どこへ行って拝んだらいいかを聞いたら、猫さん、犬さんの他、家畜全般は、馬頭観音様が守ってくださると聞かされた。88カ所の本を見ると、観音寺の近くのまだ参っていない70番の本山寺が、ただ1カ所お祭りしているということだったので、電話をして事情を話した。うちへ帰ってこれるように、ご祈祷をしてもらえるという。事情を説明してご祈祷をお願いしながら、「そのくらいしか、してやれることがないので」と話したら、急に涙が流れた。もう、なでてやることも、お風呂に入れてやることも、膝の上で眠らせることもできないかもしれないのだ。昨年の5月1日に家で生まれてから、この13ヶ月あまり、私は、彼にとっていい家族だっただろうか。邪険にしたことは一度もないけれど、あの子は幸せだっただろうか。今もこの日記を書きながら、ぽろぽろ涙がこぼれる。
 車をとばして、お寺に向かった。南国のインターまでの国道を走りながら、2年半前のことを思い出した。あのときも、この同じ道を、同じように猫のことで泣きながら走ったのだった。あのときは、たびが重い腸炎で、私の膝の上に力無く横たわって、すでに意識がなかった。途中の公衆電話から、イエローページを見て高知の動物病院に電話をかけ、日曜日の夕方だったにも関わらず、すぐにつれてきなさいといってもらって、その病院に向かって車をとばした。雨が降っていて、私は、たびが今にも冷たくなってしまうのではないかと思って、怖さと悲しさと後悔で涙が流れ続けた。今日と同じように、お遍路にでたことを後悔し、心の中で猫に詫びていた。病院で、お遍路さん値段で格安で最前の治療をしてもらった。帰り際にお医者さんが、「明日の朝まで生きていたら、もう大丈夫だから、もう一度つれてきなさい」といってくれた。
 ぐったりしたたびを抱いて、南国のインターチェンジの近くの道の駅で、夜を明かした。父に電話を入れたら、「助かってもひどく具合が悪いようなら、帰ってきなさい。小さくても一つの命だ。それを犠牲にしてお遍路なんて、意味がないからね。でも、きっと元気になるから、そうしたらお遍路を続ければいい」と言ってくれた。お薬師さんの御真言を唱えて、一晩中猫を抱いていた。そして、夜が明ける頃、たびは目をさまして私の指先をすすって、ミルクをねだってくれた。あのときほど、うれしかったことは、私の人生にはあまりないような気がする。
 12時半ごろ、本山寺についた。納経所で、ご住職にご祈祷をお願いした。ご住職は、馬頭観音様のご真言を紙に書いてくださって、一心に念ずるようにと教えてくださった。そのときお金を包んだが、車に戻ってから、もっとたくさん包んで、3日とか1週間ご祈祷を続けてもらうことはできないかなと思い立ち、もう一度お寺に戻った。その旨を、ご住職に話すと、「家はおとなしゅうに拝んでいる寺で、おがみやと違うのだから、これでちゃんと拝みますから心配しないように」と諭された。そして、お接待で、馬頭観音様のお守りをいただいた。
 そうやって、お寺で話をしているとき不意に、私はあることを思い出した。日頃、3匹が私の家族だといっていながら、私は今回のお遍路で、あの子たちの幸せを一度も願ってあげなかった。口先で、家族といっているだけで、自己満足だったのだ。それに気がついて、本堂の前で、初めて大きな声を出して泣いた。悲しくて、切なくて、今頃どこにいるかわからない八雲がかわいそうで。私の思い上がりに、罰が当たったのだ。私に罰が当たるのは仕方ないが、八雲がこの雨に濡れているかと思うとたまらなくつらい。私は何度も、馬頭観音様とお大師様にお詫びを言って、八雲を帰していただけるようにと願った。
 悪いことは重なるもので、へろへろになってたどり着いた岡山の友人は、留守だった。2時間ほど時間をつぶしたが、何か大きな予定変更があったらしく、戻ってこなかった。仕方なく、駅前のホテルに入った。寂しくてたまらない。東京に帰った母や、友達に電話をかけてしまった。本当に参っている。
 八雲は雨に濡れていないだろうか。おなかは空いていないか。心配でたまらない。たまらなく寂しい。夜9寺すぎて友達と連絡が付いたが、もう移動する元気がない。明日朝、訪ねてみよう。


6月13日 木曜日


八雲のことをお願いした、
岡山の西大寺の観音院
 朝、7時過ぎに朝食までにはおいでといってくれたので、友人の岡文女(おか あやめ)さんの家に行った。ちょうど、昨日がお父さんの命日と言うことで、阿蘇から弟さんがいらしていた。岡さんといろいろな話をしながら、一日を過ごそうと言うことで、岡さんの家でゆっくりさせてもらった。お遍路はけっこうくたびれるので、ころころと横になってのんびりしていたら、いつの間にかぐっすり寝込んでしまった。
 午後から、岡さんのお友達が来て、三人で、西大寺の観音院というお寺にいった。ここは春に有名な裸祭りがあるところだという。岡さんのお友達のまきちゃんに言わせると、ご神木を取り合うのが本来のお祭りの趣旨なのだが、どさくさに紛れて怖い人たちが、人を殴るのを目的にお祭りに紛れ込んだりするそうで、人が死んだり、いろいろ問題があるのだそうだ。私は、いつも通りにお参りをして、ついでにおみくじを引いた。八雲が帰ってきてくれるかどうかと思って。結果は大吉だったけれど、失せものは、土の中か灰の中からでてくるという風に書いてあって、もう、死んでしまって埋められちゃったのかなと思ったら、またまた悲しくなった。
 今日は岡さんの家に泊めてもらう予定で、ビールを飲んで、岡さんの仕事である、ホームスパンを少し手伝わせてもらってとてもくつろいだ一日を送った。ありがとう、岡さん。


6月14日 金曜日


上が高速道路、下がJRと
二段になっている瀬戸大橋
 朝、早くに目が覚めた。それも野鳥の声で。幸せなことだ。朝から、岡さん自慢のおいしいコーヒーを飲んで、昨日に続いて、岡さんの家の縁側で、手紬=ハンド カーディングで岡さんの染めた羊毛をブラシでといて過ごした。八雲のことが頭から離れず苦しかったので、何も考えず手を動かしていられることがありがたかった。草木染めで染める工程で堅くなった羊毛を、ふかふかになるまで針金のいっぱいでたブラシ二つをすりあわせるようにしてとかすのだ。これは実に楽しい作業だと、私は時間ぎりぎりまで、この作業を大喜びで続けていたのだが、岡さんは肩を痛めてから、これが得意でなくなったとかでとても喜んでくれてうれしかった。
 お友達のお通夜に行くという岡さんを駅まで乗せて、岡山駅に出かけた。本当は親友が亡くなって悲しくて仕方ないのだろうに、ピザを作ってくれたり本当に暖かく迎えてくれた岡さん。大切な友人だ。おつきあいが、一生続きますように。私も努力しなければ。
 夕方、仕事を済ませて新幹線で岡山にやってきた母を、新幹線ホームに出迎えて、父との待ち合わせば所に向かったが、父はいなかった。そこで父は、単独行動で今日の宿泊地に移動したものと思って母と二人で、車に乗り込み、瀬戸大橋を渡って、四国に戻った。瀬戸大橋は往復割引で、一万円。うっぷ。途中、与島のパーキングによって、夕方の瀬戸内海と大橋を見せてあげた。母は、大喜びで100円望遠鏡をのぞき、写真を写して、パーキングエリアの売店で絵はがきを買い込んでいた。うれしそうな顔を見るのは本当にうれしい。今日二つ目のうれしそうな顔だ。
 私たちが、宿舎に着いたのが、7時15分、一時間遅れて、父が宿についた。明日から、また、お遍路だ。


6月15日 土曜日


たびを覚えていて
くださった若奥さん
のいる出釈迦寺
 朝、母が少し疲れていたのでゆっくり出発した。今日は、祈願のろうそくをあげられるところではすべて、八雲が無事に帰りますようにと拝んで、ろうそくをあげて回った。本当に心配だ。
 一日、いい天気で、日が照って、私はますます土方やけしてきた。でも、雨で老人を連れてこけむした札所の石段を上ってお参りするというのは、滑って転んだら大変と、本当に気をつかうので、まだ、かんかん照りの方がましである。
 今日の最後は、73番の出釈迦寺だった。ここでは、たびとお参りしたとき、たびがお接待でミルク代を頂戴したお寺である。納経所で、二年前と変わらず美しく優しそうな奥様にお会いしたので、二年前に猫とお参りに来たものですが、というと、奥さんは、「ああ、たびちゃんのおかあさん・・・」とおっしゃってくださった。そして、少し申し訳なさそうに「猫ちゃんの名前はおぼえてるのですが、肝心のあなたのお名前がちょっと」とおっしゃってくださった。猫の名前を覚えていてくださるだけで十分である。東京に帰ってから、お手紙も出しているので、それもあって、記憶に残ったともおっしゃっていた。このごろのたびの写真をお見せしたら、「あら、大きくなりましたねえ」とほめてくださった。お遍路に来た頃はたびは極度の栄養失調で、毛並みもぽしょぽしょで情けなかったから、確かに今の彼は見違えるようだろう。私と猫3匹の連名でまた、お供えを少し包んでお願いしたら、また、ウーロン茶と手ぬぐいを父と母の分まで頂戴してしまった。困ったことだ。この次はまた、猫ちゃんを連れてきてくださいといわれてお寺を出た。  今日は6月15日でお大師様の誕生日だ。その日にお大師様の生まれたところの75番の善通寺で泊まることになっている。私はお遍路にくるたびに、ただ一カ所、善通寺だけ、宿坊に泊まることにしている。宿坊に泊まると翌朝、読経に出るのだが、明日は5時半かららしい。はよねんと。


6月16日 日曜日


75番善通寺の本堂
 昨夜は原稿を送りに、宿坊の事務所に行ったのが8時半ころ。通信自体は、ものの5分足らずだったが、その後、11時半ごろまで、いろいろお話を聞かせてくださった。現役のお坊さんのお話というのは、本当にありがたいもので、たくさん勉強になった。
 今日は、八雲のことが心配でばかばかしいかなと思いながら、おみくじを引きまくった。どれも、失せものは必ず『出る』だし、待ち人は必ず『来る』だったけれど、逃げたにゃんこは失せものなのか、待ち人なのかよくわからない。今は、きっと帰ってくると信じるしかないので、ひたすら信じて待つしかない。私にできることは八雲が無事に帰るようにお願いする事だけなので、祈願のろうそくを立てられるところには、みんな無事に帰りますようにとお願いを書いて灯明をあげてきた。
 いよいよお遍路も明日で終わりだ。明日の夜、両親を徳島空港で東京に送り出して、私は小松島からフェリーで和歌山にわたり、そこで一泊。翌日高野山に上がって奥の院にお礼参りして、それから天理に出て、夕方までに静岡県の豊川市の豊川稲荷に。豊川稲荷で一泊して、新しく商売を始める友人の商売繁盛のご祈祷をお願いして、それを受けたら、東京に帰る予定だ。思えば、6月1日の早朝に家を出て、もう16日、東京に帰るのは、遅ければ19日になるのだ。3月にシルクロードに出発して以来、通算で、73日旅行していることになる。1月のお参りで3日関西に来ていたからほぼ半年で76日、日本経済新聞社に泊まった日が3日くらいあったから、約80日外泊したことになる。半年って、だいたい180日だからたった100日しか家にいなかったことになる。これじゃあ、出かけ歩く母さんをやっくん(八雲)が嫌いになっても仕方ないかもしれない。ぐっすん。
 さあ、明日はお遍路最終日だ。がんばって最後まできちんとお参りしよう。


6月17日月曜日


車のコンソール
ボックスで眠る子猫
 今日は、朝御飯をしっかり食べて、ゆっくり目にホテルを出て、残りの5つの札所を回った。昨日と同じように八雲のこともしっかりお願いしながら。ところが、昼前に86番の志度寺で子猫に出会った。最初は、みて見ぬ振りをしていたのだが、あまりに足にまとわりつくのとかわいらしいので、抱き上げてしまったら、もういけない。両親と相談して、連れ帰ることにした。車に乗せて、後部座席の母の横のクッションに乗せたら、たちまち丸くなって寝てしまった。本当に安心したのか、おなかを上にして熟睡しているのを見て、日頃私の猫暮らしに批判的な母までが、「この子はおまえに縁があるのね」なんぞといって、88番を打ち終えてから、獣医さんに寄ったり、ホームセンターのようなところで餌や、トイレや、かごなどを買い込むのを応援してくれた。獣医さんでは、風邪を引いているようだということで、薬をもらった。体温を測ったついでに検便をしてもらった結果では、寄生虫は見つからなかったが、のみがたくさんいるので、きっと何かはいるだろうと言われた。
 徳島空港に両親を送って小松島のフェリーの埠頭で、22時のフェリーを待っている間、子猫はずっと、車の運転席のコンソールボックスで丸くなって寝ていた。八雲のことが心配で仕方ないのに、お遍路中にお大師様が新しい子猫をくださったということは、八雲はもう戻ってこないのかなあと思うと悲しい。
   それでも、まだ名前のないこの小さい命が尊いことに変わりはないので、大事につれてかえって、家の子にしようと思う。大切に面倒を見れば、きっと大丈夫だろう。


6月18日火曜日


 昨日の原稿は、四国徳島の小松島港と和歌山港を結んでいる南海フェリーの埠頭でお願いして、乗船待合室とフェリーの中でコンセントを使わせていただいて、原稿を書いた。そして、運良く22時のフェリーにキャンセル待ちなのにも関わらず乗れたので、午前0時に和歌山港に着き、それから市内を走って、和歌山市役所の前で、おなじみのグレイのISDN公衆電話を見つけてアクセスして送った。
 このころには、雨も風もすっかり本格的になり、フェリーがあれほど揺れたのも納得できた。それから、高野山までの山道を登る気にはなれず、今宵のねぐら探しにかかった。といっても、子猫がいるので宿屋には泊まれない。ラブホテルに潜り込むか、公衆トイレのある公共の駐車スペースを見つけて車の中で寝るしかない。どうしようかと考えながら国道24号線を走っていると、深夜なのにも関わらず、妙に煌々と電気のついたビルを見つけた。経験上、ピンとくるものがあったので、引き返して見ると案の定和歌山東警察署だった。事情を説明して、条件に合うようなところを教えてもらったが、危ないのではないかと心配されてしまった。相談したお巡りさんが、ここでよかったら、トイレはいくらでも使っていいので、警察署の駐車場にいたらどうかといってくださったので、ご好意に甘えて、警察署の駐車場に居させてもらった。免許証を見せて、一応身元ははっきりさせたけれど、正直本当に助かった。
 その夜はものすごい雨で、なかなか寝付けなかった。
 朝になって、土砂降りの雨の中、高野山に上がっていった。奥の院に参拝して、納経をして、山を下りた。24号線まで降りたころには、天気は完全に回復していた。ほっとして少し疲れたが、そのまま24号を大和郡山まで走って、西名阪、名阪国道から東名阪を経由して東名へ。途中でまた、天気が悪くなり、パーキングエリアで天候待ちしたりしていたら、遅くなってしまった。友達に頼まれた豊川の豊川稲荷でのご祈祷もあったのだが、くたびれたせいもあって、まっすぐ帰りたくなった。しかし、豊川の手前で事故で2時間半全く動かず止まっていたら、くたびれてしまったので、豊川で降りてお寺に向かった。
 ところが、夜が遅すぎたというか、朝が早すぎたというか、午前2時前だったので、門が開いて居なくて車を止めるところがない。また、門前の交番で車を止めるところを教えてもらって、そこに行って車を止めて寝た。


6月19日水曜日


豊川稲荷の点心
 緊張して寝たら思っていた通り、5時50分に目が覚めた。6時に豊川稲荷でご祈祷をお願いし、それが終わってから、お寺で出される点心を朝御飯代わりにいただいた。お正月のお参りでも、最初はここから始まるので、点心が出ることは知っていたが、一年中出されるとは知らなかった。おいしいのは、お稲荷さんらしく出されるお上げの煮物である。
 ご祈祷の後は、一路東京を目指して車を走らせて、12時頃に東京の両親の家について両親の荷物を下ろし、そのまま、かかりつけの北川動物病院に子猫をつれていった。見ていただいたら、心配した耳ダニはいないが、おなかに虫がいるのと風邪を引いているので、やはりつれてかえってすぐに今家に居る二頭と一緒にはできないことがわかった。そして、虫下しをもらって、家に帰った。
 家について、子猫を下ろし、居なくなった八雲を探しに行った。1時間ほど探して家にもどってすぐ、電話がかかり、八雲らしい猫が先日目撃された、病院の跡地に居ると聞かされたので、かごをもって行ってみたが、違う猫だった。せっかく出てきたので、八雲を見かけたという病院の跡地の裏の丘の上に、探しに行ってみた。名前を呼びながら歩いていると、夕方でちょうど窓を開けている家が多く、動物好きの人が家から出てきてくれる。何軒かで事情を説明していたら、近くの香取神社にこのごろご飯をもらいにくるようになった猫が、八雲に似ているという。早速訪ねてみると、はっきりしないが、八雲に似ていることは確かだ。今日の夕方はこなかったが、いつも朝は食べにくるというので、明日の朝、もう一度訪ねることにした。八雲でありますように。


6月20日 木曜日


 朝、5時に香取神社の方から電話があり、八雲に似た猫が来ているという。あわてて服を着替えて見に行ったが、よく似た猫だけれど違っている。がっかりした。何だか力が抜けてしまった。
 今日になったら、力が抜けてしまって、何だか眠くて仕方がない。困ったものだ。たびとことんは、奥の部屋から聞こえる子猫の鳴き声が気になって仕方ないらしい。ドアの前で、首を傾げている。たびがドアを開けてしまわないように、ドアの前にバリケードを作って夕方から、友人のK氏の家に出かけた。先方のパソコンのシステムがおかしくなっているというので、S氏を連れていって見て貰った。さすが、仕事がそっち方面のS氏。ちょっといじって、すぐにK氏が自分でインストールした外づけハードディスクのインストーラーがいけないことを発見した。彼なりに色々やってみたようだが、結局うまく行かなくて、うちのソフトを持ってまた出直しということになった。
 仕事帰りにK氏の所に直行したS氏は、深夜にK氏の所を失礼する頃にはくたびれて、すっかり食欲が無くなってしまったといっていた。先に食事をしていたK氏や、時間が不規則になっても何とかなる私はいいけれども、S氏には悪いことをしたなあと思って、気を使って色々すすめたけれど、とにかく会社の仕事が本当にきつい時期なので、一分でも多く眠りたいと言われて何も食べさせて上げられなかった。心遣いが足り無いなあと、しみじみ反省した。
 私の大切な友人だからということで、仕事がむちゃくちゃ忙しいのに、無理して時間を作ってくれて、S氏に迷惑ばかり掛けていると思ったら悲しくなってしまった。他の友達の世話を、私が私の手でする分にはいいけれど、もう、友達を巻き込みたくないなあと肝に銘じた。


6月21日 金曜日


 今日は1日、お遍路の後始末で暮れてしまった。夜、たびと遊びながら(ことんは本棚の上で一日中寝ていたので)、テレビを見ていたら、manaちゃんから電話がかかってきた。「お元気ですか」とかかってきたのは、どうも公衆電話からみたいだ。夜の9時過ぎに外から掛けてきて、お元気ですかとは限りなく素っ頓狂だ。心の中でワーニングランプが点滅している。何かおかしい。「はい、元気ですよ。どうした、なにかあったの」と聞くと、「会社辞めることになりそうです」という。言葉の語尾が涙声になっている。やっぱり。
 こう言うときに、電話で話しているとろくな事はない。電車に乗れるくらいの元気が有るかどうか。無ければ、電車か車で迎えに行くしかない。私の家も最寄り駅まで来られるかどうか聞くと、来られると言う。駅に着いたら電話するように言って、電話を切った。まず、manaちゃんの家に電話して、今日は泊まって貰うことにしたとお母さんにお願いして、それから大慌てでひっくり返っている部屋を片づけた。まず、凶暴たびを奥の部屋に閉じこめ、新入りのちびこのはいったケージを居室に出して、お客様の準備をした。
 10時半頃、電話がかかった。駅までmanaちゃんを迎えに行き、途中の酒屋で、缶入りのフルーツカクテルを何本か買い、車で環状七号線沿いのファミリーレストランに行って食事をした。こういうときは、まず、お腹をいっぱいにするのが一番だ。家についてから色々事情を聞いて、励まし、色々アドバイスをした。まだ、若いのだから、チャンスはいくらでも有るだろう。話をしているうちに落ち着いてきたのか、2時頃には、manaちゃんが眠そうになったので私は、たびとManaちゃんには、ことんとちびこと寝て貰った。  


6月22日 土曜日


 朝は、8時頃に起きて、又、色々な話をした。話をしながら、ゲームを始めたら、すっかりはまってしまって、Manaちゃんは結局夕方7時頃までいた。相談に神経を集中してくたびれたので、奥の部屋のたびも出して、3匹の猫と一緒にのびていた。まだ、たびもことんも物怖じせず近づいてくるちびこが怖いみたいだったので、ちびこをだっこして寝た。小さくて柔らかくて可愛いけれど、じきに大きくなってしまうのだ。ああああ。


6月23日日曜日


 お昼頃から、近くのドイトにドアのノブを買いに行った。今のラッチ式のハンドルのノブはたびが開けてしまうので、丸ノブに替えようと思ったのだ。しかし、うまく会う物が無く、がっかりして帰ってきた。
 今年は旅ばかりしていて、仕舞いそびれていたホットカーペットと、冬用の暑い羽布団を屋根裏にしまって、少し部屋を片づけた。
 夕方、S氏がやってきて、再び二人でK氏の家に。今日はさっさと片づけて帰ってこようと相談していった。けれども、私が、K氏のところでビデオをダビングして貰ったり、S氏の作業が長引いたりで、やはり12時を少し回ってしまった。本当にS氏には申し訳ない。埋め合わせを何か考えねば。このS氏、日頃は、朝の8時半の定時から夜は、早くて9時10時、遅ければ徹夜もしょっちゅうという仕事ぶりで、いつもとても疲れている。親友の私の頼みだから、無理をしてくれているが、週末にゆっくり睡眠をとらないと体が持たないのだ。その週末だって、下手をすると出勤しているので、本当にきつい環境なのだ。本人はそうやって実力を付けてきたのだから、といって気にもしていないようだが、くたびれて目の下のクマの濃いのを見ると胸が痛む。
 家に帰ると、ことんがちびこを抱いて寝ていた。やっぱりことんは、母猫の経験があるので、あまったれちびこを放っておけなかったようだ。良かった良かった。


6月24日 月曜日


 朝から、東京女子医大に検査にいった。このところ疲れがひどいのと、他にも若干症状があり、どうも、健康体とは考えにくいので、母と一緒に出かけていった。結果的には、今飲んでいる薬の影響が無くならないと検査ができないということで、来週の月曜日7月1日に改めて、出直すことにした。
 帰りに母と、新宿の中村屋で食事をして、母の絵画教室の時間まで、世界堂にこの前私が中国から買ってきた飛天の絵を額装してもらったのを受け取りに行き、発送を依頼したり、隣の追分け団子でかき氷を食べたりして時間をつぶした。その後、母と別れて紀ノ国屋で色々本を買いあさって帰り、そのまま本を読んでゆっくりしていた。疲れがたまっていて、血圧が下がっているそうで、腹をくくって、休むことにしたのだ。


6月25日 火曜日


 午前中ゆっくりして猫を見ていたら、たびがちびこと遊んでやっている。昨日まで唸っていたのが嘘のようだ。名前をそろそろ付けてやらねばと思っている。きじ虎猫なので、虎千代にしようと思う。変かしら。
 昼から、八雲の訪ね猫広告を新聞の折り込みでするための、折り込み広告用の紙を買いに行った。プリントはうちですればいいので、とりあえず、紙だけ買いに行った。どうも、車を運転していて変だと思ったら、熱が出ていた。困ったモンダ。本当にしっかり疲れをとらねばだめそうだ。


6月26日 水曜日


 熱が下がらず、1日うつらうつらしていた。早く熱が下がりますように。


6月27日 木曜日


 昼過ぎにごそごそと起き出して、メールを何本かうち、6時半の待ち合わせで、K山さんに会いに行った。5月に会って以来なので、ずいぶん久しぶりだ。私は、K山さんを含む、ほんの何人かの人としかお酒を飲まないのだが、今日は仕事のこととプライベートで、気分がふさぐことがあったので、久しぶりにたくさんお酒を飲んでしまった。このK山さんは、実にすてきな人で、色々な相談や話をイヤな顔をしないで聞いてくれる。本当にありがたい。そうして、ぽつぽつと話しているうちに頭の中が整理できて、何となく気分がスッキリするし、実に的確にアドバイスして下さるので、問題点がとてもはっきりするのだ。
 12時頃に帰宅して、まゆみちゃんと電話で話した。今日、イヤだった仕事の話を少しして、その後は、プライベートで気になっている事を相談した。私は、友達が多い方だ。でも、その友達にも何通りかあって、私のお人好しが裏目に出る人もいるのだ。特にこのところ、良く連絡を取っている友人に私はちょっと我慢ができなくなっていた。私は実にきまじめなところがあって、約束をしたらそれを必ず実行しようと思う。しかし、その友人は何か約束をしてもどうも忘れてしまうらしい。結果的に、自分がいいように利用されているような気がして、私はどうも居心地が良くない。留守番電話に、折り返し電話が貰いたいというメッセージを入れても、かかってこない。思いやりのない言動が目に付く。そんなことがいくつか積み重なって、その友人のことを考えるのがイヤになってきた。こういうことは珍しい。結局、まゆみと相談して、友人関係の自然消滅を待とうということになって、結論がそこに落ち着いた。
 残念だけれど、新しく友達ができてもその人とずっとつきあいが続くとは限らない。自分が居心地悪く感じる何かの要素があったとして、それを我慢するに値する何か(メリットという意味ではない)がなければ、やはり友達は続けられないのだ。今回は、色々考えてみたけれど、相手の人に何が心にざらざらと居心地悪い感触を残すのかをぶつけるのはやめにした。なぜかというと、同じ話を以前にしたことがあるからだ。きっと、もう変わらないのだろう。今は、私も色々な問題を抱えているので、人のことにそうそう関わってもいられない。私も、年をとったのだろう。いつまでも、青春ドラマはやっていられないのだ。悲しいことだけれど、我と我が身は守らねばならぬ。はっきり、腹をくくったら、気持ちがさっぱりした。


6月28日 金曜日


 しかし、部屋が散らかっている。私は本来、部屋が散らかっていると弱いのだ。何となくいらいらしてしまうのである。今の部屋の状態は、はっきり言って台風が通った後を、猫が更に荒らした上に、母の私がそれを放置したとでも言おうか、壮絶な状態になっている。具体的に説明すると、3月からまとまって掃除をする時間がとれなかった上に、猫達があれこれと悪さをしてくれるので、部屋が散らかっているのだ。このまま、またタクラマカン砂漠に出かけたら、きっととんでもないことになるだろう。
 というわけで、部屋を片づけたり2回の旅行の後始末をすることにした。まず、散らかりっぱなしの机の上を片づけて、その後、ダイエーにシルクロードの写真を整理するアルバムを買いに行った。5冊のポケット式のアルバムが一つの箱に入っている物で、柄が猫というのが購入のポイントだ。ちょうど可愛いのを見つけたので、それを買って帰ってきた。
 ツアーでご一緒させていただいた方々から、ぼちぼち写真を送っていただいており、私もお送りしたいと思っているから、早々に整理をして焼き増しをしなければならない。考えてみれば、あれこれすることがあるのだ。このところ疲れがでて、何となくだるくている日が多いけれど。


6月29日 土曜日


 今日は、シルクロード関係、お遍路関係の本と資料を整理した。そして、夕方から近くのイトーヨーカドーに行って、小物家具を見たり、猫のおもちゃを買ったりした。それにしても八雲はどうしているのだろう。夕方、印刷を頼んでおいた、八雲の新聞折り込みチラシができあがってきた。明日、頼みに行こう。


6月30日 日曜日


 午前中、丘の上の朝日新聞の販売店に、折り込みを頼みに行った。新聞の折り込みチラシは、紙の大きさで値段が決まるのだそうだ。私は一番小さな、B5版でお願いした。折り込み料金は協定で決まっているそうで、B5は一枚が2円80銭だそうだ。私は一万枚印刷して持っていったので、折り込み料金は2万8000円に消費税だった。
 折り込みを頼みに行って、販売店のお兄さんと話しをしていたら、もっといなくなってすぐなら、販売店のお兄さんに頼むのが一番いいかも知れないと言う。というのは、新聞配達のお兄さん達は、どんな小さな路地でも入っていくので、その分、良く猫達を見かけるそうなのだ。また、チラシを入れるなら、賞金を付けるとお金目当てで必死で探す人もいるので、それはそれで有効な手段だという。その場合、前例があるのは、賞金10万円くらいまであったという。その話しを聞いたときは、私も賞金を出そうと思えば10万円は無理でも3万円とか、5万円くらいなら出せるから、今からチラシを作り直すかなと思ったけれど、よくよく考えたら、人をお金でつるようで何となく私と猫達の暮らしにはなじまない気がしてそのままお願いしてお店を出た。
 八雲のことを考えない夜はない。見つかるか、帰ってくるかしてくれると信じていたいけれど、もう今日で20日だ。いよいよ難しいかも知れない。そう思うと涙がでる。本屋で見かけた本にあった、いなくなった猫が帰ってくるおまじないも、お風呂に入って身を清めて、午前3時を待って、墨をすって本に書いてあったようにいつも使っているカレンダーの猫のいなくなった日に丸を付けた。毎日、夕方と夜、名前を呼んで歩きもした。後は、本当に信じて待つだけだ。うちから、猫の行動半径を考えて決めた一定の範囲で、明日から順次、全部の新聞にチラシが入る。私は知らなかったが、一つの販売店で頼むと、その範囲に配っている全部新聞の販売店にチラシは配られるそうだ。きっと、手がかりくらいあるかも知れない。今は、行き倒れの猫に該当する猫がいなかったことが、せめてもの心の支えだ。見つかりますように。


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