かわら版紙面の方でも少し触れていますが、「北京星星雨研究所」では年に4回「星星雨通信」を発行しています。実はかわら版4月号、5月号で掲載した田恵平先生の原稿は、この通信に掲載された田先生の手記のダイジェスト版でもあるのです。
そこで、田先生のご了承を得て、通信に掲載された田先生の手記を以下に転載することとしました。田先生がご自分の息子さんの教育を通じて、如何に自閉症児の教育という問題に取り組んでいるかがおわかりいただけると思います。
余談ですが、私はかわら版の取材で「星星雨」を訪問するまで、自閉症というのがどんな病気なのか、自閉症児とその家族が中国の社会においてどんな問題に直面しているのか、全く知りませんでした。取材中に田先生がおっしゃった中で一つとても印象深いお話がありました。「『星星雨』を設立した当時は、『自閉症』という言葉を聞いたことがないという人が多かった。でも、今ではそれがどんな病気か分からないにしても、その言葉は聞いたことがあると言う人が増えてきた。これは私たちの活動と無関係ではないと思う。」自閉症児を巡る社会状況にはまだまだ厳しいものがあります。そうした状況を変えるには、自分自身を含めまず一人でも多くの人に「自閉症」を知ってもらうこと(たとえその単語だけでもいいから)、これがまずその第一歩なのではないでしょうか?かわら版がその一助になればと思います。
中国語で「自閉症」のことを「孤独症」ともいいます。「孤独」は自閉症児とその家族だけでなく、現代社会における私たち一人一人の問題ではないでしょうか?
かわら版編集委員 関口美幸
私と息子「楊韜」
田恵平(日本語訳:関口美幸)
1998年第11号〜1998年第12号
(かわら版紙面での文章とほぼ重なる内容なので、省略しました。…訳者)
二.私は涙を流しながら、楊韜が自分で学校の門に入るのを見送った。
多くの自閉症児の父母がたどるのと同じ様な心理的過程を経た後、私は息子を抱え、「星星雨」を開設した。その時から「星星雨」の長い道のりが始まった(台湾の自閉症児も「星星雨の子供達」と称されている)。私の生活の中にはたった一つの目標が残された。それは「星星雨の子供達に、地球が彼らにとって適応できる社会であるということを知って欲しい」ということだった。楊韜は、創設期の星星雨で1年間の訓練を受けた。1994年の秋、楊韜は北京海淀区培智中心学校(特殊学校)の一年生となった。学校生活に適応できるかどうか気が気でなく、彼が学校に行きだしてからの一週間、私はずっと不安で落ち着かない気持ちで過ごした。これは彼が家庭と「星星雨」から外に出た初めての「社会」だった。一週間たって、私の心はようやく落ち着き始めた。楊韜が学校に上がる前に「星星雨」で受けた訓練が成功だったことは事実が証明していた。息子は初登校した日に如何なる強烈な不適応現象も現さなかった。しかし、これは同時に、これから彼が社会で生きていく上での最初の一歩に過ぎず、今後も彼の前にはさらに多くの挑戦が待ち受けていることを私に分からせた。なぜなら、彼が歳をとるに従い、彼に対する社会の要求も変化するからだ。そのため登校第一日目から「楊韜をさらに社会に適応させる」という私にとっての新たな挑戦が始まった。
自閉症児の社会適応力を高めさせるには、まず最も実用的な技巧から始めなければならない。かれらにこれらの技能を学ばせ、運用させる過程で、私たちは全ての知恵をしぼることを学び、耐えることを覚え、そして苦楽が相半ばする人生体験をかみしめることになる。
楊韜が学校に行き始めて間もない頃、私は毎日彼を教室の中まで送っていき、机の前に座らせ、鞄を下ろし、先生に挨拶させた。これらが終わった後、私は「じゃあ、お母さんとさようならしましょうね。」といった。「さようなら」彼は私を見て手を振った。第一日目にこのようにした後、私は行動訓練における「手助けを徐々に減らす」原則を実行していった。私は彼にどの机が自分の机で、かばんはどこに置き、どの人が先生かを完全に分からせた後、「一歩後退」を開始した。教室の入り口まで送っていき、そこで「さようなら」を言った(もちろん、学校を出る時には窓の外から思わず覗いてしまったが)。そして、彼に私の前を歩くようにさせ、観察してみて、私はまもなく彼が間違いなく自分の教室を見つけることができることを確信した。そこで私はさらに「一歩後退」した。彼を教室の建物の門まで送っていくことにしたのだ。こうして、わずか1ヶ月の間に、私は学校の門まで後退し、彼が自分で教室の建物に入るのを見送るようになった。40日目には、学校の前の通りの入り口で私は立ち止まり、息子に言った。「おかあさんとさようならしましょうね。いい?」「さようなら」彼の答えはしっかりしていた。彼は自分で鞄を背負い、あの大きな頭をゆらゆらと揺らしながら、楽しそうな様子で小走りに学校の門に入っていった。
この情景は私の心にいまでも焼き付いている。こうした気持ちは普通の人には分からないだろう。普通の親にとって子供が学校へ上がるのは喜ばしいことだが、ごく当たり前のことである。しかし私たち母子にはそれがいかに贅沢なことだったか。重慶の幼稚園で、彼と同じクラスの子供達が小学校の予備クラスに上がり、泣きながらそれを断念した時から、息子にはもう二度と同じ歳の子供と同じように鞄を背負い、学校の門を入れることはないのだと私はあきらめていた。前の何度かの「後退」の時、私は比較的平静でいられた、それはなんだかんだいっても学校の中での「さようなら」であり、特殊学校の先生は特殊児童に対し多くの理解を持っているからである。でも、その日は違った。私が息子と別れたのは学校の門からわずか2、30メートル離れているだけに過ぎないが、でも、私は確かに始めて「息子が登校した」という事実を味わったのだ。これは夢ではない。彼はとても自然に、そう、普通の子供のように歩いていったが、私の目からは涙が止めどなく流れ、そこに突っ立ったまま、しばらく涙が流れるままに任せていた。往来の人たちは奇異な目で私を見たが、そんなことはどうでもよかった。その時私は喜んでいたのか、辛さに耐えていたのかすら分からなかった。
それからは、私は毎日彼を学校の前の通りの入り口まで送っていき、彼が学校の門に入るのを見送った。これは息子のことが心配だったからではない。私は息子が一人で鞄を背負い、学校に入っていくあの瞬間を見たかったのだ。私は毎回、涙を浮かべながらそこから離れた。そんなことが約2ヶ月近く続いた。
楊韜が入学する前、私は繰り上げて一つの訓練項目を彼に与えた。それは、「なぜ……なの?」という形の質問に答える練習である。ここで「繰り上げ」といったのは、楊韜の当時の言語能力では、本来こうした質問に答えることはまだ訓練のカリキュラムに上ってこないからである。しかし、私は楊韜が今度学校に上がるということは、家や「星星雨」にいるのとは質的に異なることだと考えた。家では、私は彼のあらゆる特徴を理解できたし、「星星雨」では、先生方は自閉症児のことをよく知っており、彼の表情からその原因を探すことができる。しかし、学校ではそうはいかない。特殊学校といえども、そこの学校の先生にとって、自閉症はまだ新しい課題なのだ。そこには、「星星雨」よりもずっと多くの人がいるし、その中の多くの人は自閉症を理解していない。そこで、私は楊韜に自分を説明すること、自分を表現することを学ばせようとした。それにより、人から誤解を受けることを減らそうとしたのだ。例えば、もし、彼が突然大声で叫んだとして、先生が「楊韜君、なぜ叫んでいるの?」と彼に聞いた場合、楊韜には説明することができない。これでは、先生との間の意思の疎通がはかれないであろう。
私は日常生活の中でその機会を捕らえるようにした。(最初は、因果関係にできるだけ具体性、特に可視性を求めるようにした。つまり、目で見える原因と結果ということである。)例えば、
*彼が手を洗う時に、「手はなぜ湿っているの?」と聞いた。典型的な自閉症である楊韜は、自閉症児としての典型的な反応を示した。つまり彼は、「なぜ湿っている。」と繰り返す。そこで、私は行動訓練における「指導は適時、徹底して行う」という原則を運用し、彼に質問を出した後、答えを教えることにした。「手を洗ったから」その後、それを二度繰り返し、はっきり印象づけるようにした。しばらくすると楊韜はすんなり答えられるようになった。「手を洗ったから」(手を洗う度に彼に質問し、答えさせた)
*彼がこの特定の状況(手を洗う)の「なぜ……なの?」に答えられるようになった後、これに行動訓練の「一般化」の原則を運用することにし、その他の状況の中で練習することにした。例えば、彼が顔を洗ったタオルを洗面器に入れた時、「タオルはなぜ湿っているの?」、洗濯した服を干す時「服はなぜ湿っているの?」、モップで床を拭いた時、「床はなぜ湿っているの?」、彼が水を運んでいて、うっかり机の上に水をこぼした時、「机はなぜ湿っているの?」、雨が降った時、「地面はなぜ湿っているの?」と聞いた。楊韜は「因果関係」を理解して、「手を洗ったから」と答えていたわけではない。だから質問が変化しても機械的に「手を洗ったから」で全ての質問に答えた。こうした状況では「指導」の原則をしっかり把握しなければならない。そこで私は彼に答えるべき言葉を教え、次第にヒントを少なくして、自分で完成できるかどうかを観察した。こうして、徐々に楊韜の頭のなかに、「湿っている」と「水」が関係づけられるようになった。しかし、これでも彼が全ての「因果関係」を理解したとは言えない。
*楊韜が「湿っている」と「水」になんらかの関係があると理解した後、私はさらに次の一般化を始めた。「服はなぜ洗濯するの?」「汚れたから」、「なぜ醤油を買うの?」(彼を連れていって)「なくなったから」、「なぜお茶碗が要るの?」「ごはんを食べるから」、「なぜ電気をつけるの?」「暗くなったから」、「なぜ鉛筆が要るの?」「字を書くから」
この段階はとても大変だった。楊韜はこの「なぜ……なの?」の後ろの変化が大きいことを感じ始めていた。情景を見て言葉を話すのは自閉症児の言語障害の特徴の一つである。彼らは変化に対応することができない。そこで、「賢い」楊韜は私に対抗する方法を見つけだした。何を聞かれても、彼は「だから」(注:原文は「因為」)と答えるようになった、これで自分の任務は終わったというかのように。彼は答えが何であっても、「因為(だから)」は変わらないことに気が付き、「因為(だから)」と言えばそれでいいと考えたのだ。これは彼がどんな状況に対しても原因と結果の関係を理解していないということを暴露してしまった(実際、自閉症児の頭の中では、外部の世界は一つ一つ独立した世界であり、互いに関連した映像ではない)。私は、初めて彼からこの答えを聞いたとき、本当に泣き笑いしてしまった。しかし私は、彼が「手を洗っているから」と答えることができるようになれば、あらゆる「なぜ湿っているの?」の質問に答えられるはずだ、そして彼は「……から(だから)」を使って、あらゆる「なぜ……なの?」式の質問に答えられるようになるはずだと信じた。
訓練が進むに従って、楊韜はついに異なった「なぜ……なの?」の質問に答えられるようになった。私は言葉に尽くせないほどの喜びを感じていた。これは彼が「機械的言語」の障害から抜け出して、「機動性言語」の思惟基礎を確立したことを意味する。外部世界は彼の頭の中で単なる独立したユニットの反射ではなくなった。たとえ、これがほんの小さな始まりにすぎなくても。
*楊韜が具体的な、可視的な「因果関係」に対する質問に答える能力が付いたところで、私の訓練は抽象的な段階に入った。例えば、「おかあさんはなぜうれしいの?」「楊韜がよく勉強するから」。「おかあさんはなぜ怒っているの?」「楊韜が本を破ったから」。「今日はなぜ学校に行かないの?」「土曜日だから」。「なぜ水が飲みたいの?」「喉が乾いたから」。「なぜごはんを食べるの?」「おなかがすいたから」。「なぜ眠るの?」「眠いから」。
この段階では、同時に「因果関係」をひっくり返して答える練習も行い、発生した事件との間の関係を理解するのを固定することとした。
例えば、「おなかがすいたらどうするの?」「ごはんを食べる」。「喉がかわいたらどうするの?」「水を飲む」。「ちゃんと勉強しなかったらおかあさんはどうするの?」「怒る」。
この期間、楊韜の先生も私たちに積極的に協力してくださったので、彼の言語交流能力は大幅に向上した。ある時、先生が私にこういったことを覚えている。楊韜が今日突然昼寝室でおしっこをした。注意深い先生は簡単には叱らずに、まず彼に尋ねた。「楊韜君、なぜトイレに行かなかったの?」すると楊韜は「トイレの床は水で濡れているから」と答えた。先生が実際にトイレに行ってみるとトイレの床は水で濡れていた。そこで先生は楊韜を叱らなかったそうだ。このように、先生との間にコミュニケーションをとることができるようになった。
楊韜が学校に行き始めてすでに4年あまりが過ぎたが、「なぜ……なの?」に答える訓練は日常生活の中で一度として途絶えたことはない。今でも彼は、理解できなくて、どう答えていいか分からないと「復唱」の方法で答えることがある。しかし、彼が理解できること、答えることができることは益々多くなってきている。
今年の春、イギリスの衛星テレビの記者が私が楊韜をバス停まで送る情景を摂りたいといってきた。私は、「私は今もう楊韜をバス停まで送っていない。楊韜は毎日朝ご飯を食べた後、家で私に『さようなら』を言った後、自分で出かけていく。」と答えた。記者は撮影のために一回だけ例外を作って彼を送りに行ってくれないかと言うので、私はしかたなく承知した。
私たちの家からバス停までは約30分だ。バス停に着いた後、私と記者は傍らに立ち、楊韜がバスの乗るのを待った。楊韜は私たちの存在を知らないかのようでもあり、全てを承知して自分とは“関係”がないと思っているかのようでもあった。バスが来たがそれは彼が乗るバスではなかった。彼はその場に立ったまま微動だにもしない。二台目のバスが来た、374番だ。彼は乗っていった。バスは混んでいた。ちょうどラッシュの時間帯だ。彼は仕方なくドアの近くに立った。吊革につかまり自分の体勢を整える。バスが発車するその瞬間、彼は顔を私たちの方に向け、嬉しそうにちょっと得意げに微笑んで、「さようなら」と言うように、私たちに向かって手を振った。
バスが遠ざかるのを見ながら、イギリスの記者は感慨深げに言った。「すごい、信じられない。イギリスでもこれはとても難しいことなのに。」まして中国のバスはその上混んでいてお互い譲らないことが当たり前だと言うのに。
外国人とつきあっていると、私は彼らが人の気持ちを察することに長けていると感じることがある。しかし、このイギリス人でもとても想像すらできなかったであろう。楊韜に自分でバスに乗って通学するように訓練している間、私が剣の山の登り、火の海に飛び込むような思いをしていることは。
お母さん、僕は乗らないよ
楊韜がここまで来たのは、5年余りの練習の結果だった。初め、楊韜が北京に来たとき、彼はまだ小さく、私も若かったので、バスに乗る時、楊韜はバスがまだちゃんと停まる前に人がドアに殺到するのが怖かったらしく、いつも私の手を力一杯握りしめ、「おかあさん、僕は乗らないよ。」と言ったものだ。私は、「楊韜、どうしても乗らなきゃいけないのよ。私たちはこれからしょっちゅう乗らなきゃ行けないのだから。」と言った。彼が分かろうと分かるまいと、私は彼を背負いバスの人混みの中に突進していった。時には、親切な人が助けてくれたこともあったが。
バスに乗ればそれで終わりというわけでもない。楊韜は、バスの混雑に耐えられず、大声で騒ぎ始め、混んでいるため彼に触れた人を叩いたりして、自然に“さわぎ”を起こしてしまう。こうしたことがあるたび、私は楊韜の非を誤る羽目になる。そして、母親の立場からこの子が“自閉症”であることを告げ、またはあらゆる病気の子供に対し、周りの人が許してくれることを望んだ。「病気なんだから何も混んでいるバスに乗ることないのに。タクシーに乗ればいいのに」、「病気なのに、あちこち連れて歩くなんて。家でおとなしくしていればいいのに」時々私はこうした人を傷つける言葉も聞いた。またさらに多くの周囲から投げかけられる奇異なものを見るような目にも耐えなければならなかった。もちろん、その中には同情も多分に含まれてはいたが。
「星星雨」を開設した日から、私は人の同情を受けることに徐々に慣れていった。さらには人の同情を求めるようにもなった。なぜなら私の後ろには楊韜が、「星星雨」が、さらに多くの自閉症児とその不幸な母親たちがいるのだから。過去のあの気高い、あの人の「同情」を無視し、さらには私に対する侮辱と同じだと思う心は、今は跡形もなく消えている。思い起こせば89年重慶で、ある児童精神科の医者が私にこう言ったことがある。「田恵平さん、もしあなたに失敗する運命が定められているとしたら、徹底的に膝まずかされるとしたら、あなたは受け入れられますか?」その当時私は彼の言葉の中からなにかを感じたようだが、それは朦朧としてつかみ所がなかった。数年来の生活経験を経て私はついにその意味が分かった。楊韜が「自閉症」と診断されたその日、私には失敗する運命が定められた。私は運命の前に無理矢理膝まずかされたのだ。しかし、私が「星星雨」の設立を決心したあの日から、私は運命に甘んじず、再び立ち上がろうとした。人は自分でしか自分のことを打ちのめせない。裏を返せば、自分に勝つことさえできれば、生きていく勇気がまた新たに生まれてくるのだ。
私は楊韜をバスに乗せることをやめなかった。それはタクシーに乗る経済的な余裕がなかったからだけではなく、私は楊韜に彼がこれから生きて行かなければならないこの社会にできるだけ適応させたかったからだ。次第に彼は適応していった。騒がなくなった。その上、バスの乗りやすいように自分からバスの前に近寄るようにさえなった。バスの中の混雑にも慣れた。これは私にとって成功への第一歩だった。
車内では彼は当然のように人の膝の上に座った
楊韜が重慶にいた頃、彼はまだ4歳か5歳で、眉毛の濃い、目の大きいかわいい子供だった。バスでもいつも人が譲ってくれた。ある時は立たないまでも、「この子本当にかわいいわね。さあ膝の上に座りなさい。」と言ってくれる人もいた。これがよくなかったのだ。自閉症の一つの特徴に型通りの動作を繰り返すというのがある。この時から彼はバスで席があれば座る、席がなかったらおじさん風の人の前に行き(天才でなければ彼がどんな基準でその人を選んでいるか分からないだろう)、何も言わずにその人の膝の上に座る。当時は彼がまだ幼かったので、座られた人も彼をどかすのがためらわれ、ついには立ち上がって席を譲ってくれるのだった。彼はとても喜んだ。でも私は危険を感じた。もし彼がもう少し大きくなったら、どうなるだろう。そこで、私は彼にバスの中では必ず座る必要はない、ましてや他人の膝の上に勝手に座ってはいけないと言った。楊韜は理解したようで、そうしたことは起こらなくなった(もちろん、そのころ私は彼のことをきつくつかんでいた)。
しかし、気を抜くのは早すぎた。新たな問題が起こったのだ。人が降りようと立ち上がると、楊韜はどんなに混んでいようと人をかき分けてその人のそばまでいき、その席に座る。これは北京のバスの中では人に非常な反感と不快を与える行為である。楊韜はまだ7、8歳になったばかりで、表面的には異常は見られないから余計困ったことになる。他人はこのような彼の行為を許すことができないようで、軽いのはちょっとにらみつける。ちょっと程度が上がると「何だ、バスに乗ったことがないのか!」さらに程度が上がると、乱暴に彼を押しのける。こうしたことは、私に心の中でこっそり涙を流させるだけでなく、楊韜を驚かせどうしていいか分からなくさせる。私は楊韜がかわいそうでならなかった。でもこの機会に「席を争う」ことがどんな結果を引き起こすかをどうしても彼に分からせなければならない。少しずつ楊韜は分かったようだ。目の前の人が立った時だけ、彼は座るようになった。一度など、彼ともう一人の人がある席のそばに立っていた時、空席が一つできた。楊韜はしばらく待ってもう一人の人が座らないと分かってようやく席に着いた。これを見たときは、私の心の中に苦味を伴った喜びがわき起こった。楊韜は公共の場所に相応しい行為を又一つ覚えたのである。
楊韜はバスでどこが一番安全かを知っている
楊韜はバスの中ではよく立っていなければならないということを学んだ。しかし、さらにバスがカーブや急ブレーキなどの時、自分を守らなければならないということを学ぶ必要があった。そこで私は毎回バスに乗ったら真ん中に行き、座席の背をしっかりつかむことを教えた。こうしていれば、安定して立っていられると同時に、バスを降りる人のじゃまにもならない。まもなく(楊韜は本当に賢い)彼はこれも覚えた。毎回バスに乗ると真ん中に行き、両手でしっかりバスの座席の背をつかんだ(この時、彼はまだ小さくて吊革には届かなかった)。安定して立つと、彼はにっこり笑って見せ、まるで自分の成功を自慢するかのように、口の中で何かブツブツ言った。この訓練段階では、私は彼の後ろにいて、彼がどう処理するかを見ているだけで、「手取り足取り」面倒を見ていたわけではない。いつの日か、彼はこうしたことに自分一人で向き合わなければならない、これは、私に「ただ見守るつらさ」を教えた。
1から100まで数えられるのに、何番のバスが来たかが分からない
自閉症児の認識系統では、外部の世界は互いに関係のない単体である。彼らはこれとあれ、あれとあれの間に関係があるこということに対する認識、理解が欠けている。だから一人の自閉症児が大勢の中で自分だけで遊んでいる時、陶淵明の「心遠ければ地自ずから偏る」がどんな境地かよく分かるというものだ。
楊韜は学校に行き始めた1年目に数を数えられるようになった。1から100まですらすらと言えた。数字も書けた。しかしバス停でバスを待っている時、一台のバスが来たので、私が彼に「何番のバス?」と聞くと、彼は「何番のバス」と答えるだけだった。その時はまだ一年生だったが、これから彼は自分で学校に行かなくてはならないのだ。だからバスの番号を覚えることはどうしても必要だった。そこで私は楊韜をバスの前に連れていき、まず彼にバスの番号が掛かっている場所を教え、楊韜に「323」、「374」と読ませた。その後、私はほとんど毎回彼を学校に送っていく度に、彼が正確に答えることができようになるまで「来たバスは何番?」と尋ね続けた。その次の練習は、「学校に行くには何番のバスに乗るの?」「374番に乗る」、「323が来たら乗る?」「乗らない」。この練習は約2年間続けられ、ようやく正確に答えられるようになった。正確に答えられるとしても、それがそのまま行動に移されるとはかぎらない。そのため、バスが来ると、私は私がまずバスに近づくという方法をやめ、彼に判断させるようにした。初めの頃はうまくいかなかった。なぜなら楊韜は私の行動を見てから動くのに慣れていたからだ。たとえ374番のバスが来ても私が動かなければ、楊韜も動かない。こうした時、私は先ず彼に質問する。「来たバスは何番?」「374」「乗るの?」「乗る」「じゃあ、あなた先に行って早く乗りなさい。そうしないとバスは発車しますよ。」一定期間の指導の後、彼は完全に自主的にバスに向かって行くようになった。私はただ彼のあとに付いていくだけ。そのうち、323番が来ると、彼は私をちらっとも見ないようになった。実際彼はすでにかなり離れたところから323だと分かっている。バスの中でのことからバスの乗ることへと、楊韜は一歩一歩前進していった。
楊韜と一緒じゃないと、私はよくバス停を乗り過ごす
多くの自閉症児は非常に優れた記憶力を持っている。この大都会北京においても一度でも行ったことのある場所は楊韜は忘れない。そのため、私はよく彼に道案内を頼む。バスに乗るときもそうで、私はよくバスの中で考え事をしていることがある。そんな時、降りる駅が近づくと楊韜は自主的にドアのそばに移動するので、気が付くのである。楊韜と一緒でないとき、私は何度も乗り過ごし、ひどい時など終点まで行ってしまい、時間を無駄にした。
だから、私は楊韜が学校に行くとき、どこで降りればいいのか分からなくなるという心配をしたことがない。たとえ、彼が放送を聞いていない又は乗務員の「まもなく万泉庄に着きます」という言葉が速すぎて聞き取れないにしても(それとも、彼はそれが自分に向けて言われているということに全然気がついていないのかも知れないが)。そうであっても、私は毎回彼を学校に送っていった。私は彼に放送を注意して聞くようにさせたが、それは彼が乗り過ごすのを心配していたからではなく、彼にこれらのことが自分と関係があるかも知れないということを分からせたかったからだ。こうして、楊韜はまた一歩一歩自分でバスに乗るという目標に近づいていった。
彼が学校に入った三年目、私は彼を送るのを学校の門からどんどん離すようにしていき、ついにはバスを降りたところまでにした。私は彼がどのようにして歩道橋を渡るか、どのようにして十字路で車が来ない時に道を渡るか、彼の後ろ姿が消えるまで見守った。道を歩くときは歩道を歩くというのはすでに訓練ずみだった。
楊韜は定期の裏面を乗務員に見せた
バスに乗るのにはさらにまだ重要な行為がある。それは切符を買うということである。私は彼に定期を買い、胸にぶら下げておいた。こうすれば多くの面倒を起こさずに済むからだ。しかし、思いかけず面倒が起こった。まず、楊韜は乗務員の「切符を拝見します」という指令に反応しない。自閉症児をよく知っている人は皆分かっていることだが、ある指令がその自閉症児だけに発せられたものであれば、自閉症児は反応するかも知れない。「星星雨」ではこのようなことはよく起こる。先生がある子供に「timestimesちゃん、立ちなさい」というと、その子供は立ち上がる(訓練しなければ全然反応しないかもしれないが)。しかし、先生が一列に並んだ子供達に「立ちなさい」と言っても一人も立ち上がらない。楊韜はバスのこうした広く一般を指す指令を最初自分と関連づけることができなかった。次には乗務員のあのモゴモゴとした早口の北京語が聞き取れない。この問題を解決するために、私と家族は家で模擬訓練を行うことにした。私やその他の家族は乗務員の口まねをして「お降りのお客様、切符を拝見します。」と言い、楊韜にこれが何を意味するかを分からせた。ところが、一度目の実践で早くも馬脚をあらわすこととなった。乗務員が楊韜の前に来たとき、楊韜は定期の裏側を乗務員に向けて見せたのである。この意外な行動は私を泣き笑いさせた。こうして又一つ訓練項目が増えた。乗務員のおばさんに定期を見せるということはどういうことなのかという項目である。
楊韜が初めてバスに乗った時、私の心も一緒に付いていった
楊韜が4年生になったとき、私はアメリカに1ヶ月あまり研修に行くことになった。楊韜の面倒を見るため、80歳近い老父母が湖北から上京した。毎日の楊韜の送り迎えは、彼らの一大任務となった。私は心配しながらもサンフランシスコに向かう飛行機に乗った。飛行機が太平洋を飛んでいるとき、もうすぐアメリカが見えるということで興奮していた以外に、父母の事を考えると私の体は飛行機に揺れに合わせて震えるのだった。私はまず、年老いた父母がどのようにしてあの北京の混雑したバスの乗るのか(その点、楊韜はすでに百戦錬磨の老兵士になっていた)想像できなかった。私が帰国する二週間前に父が突然病気になり、両親は楊韜を置いて湖北へ帰らざるを得なかった。こうした状況では、楊韜は学校に行けず、毎日従姉妹に職場に連れていってもらうしかなかった。この事件は私に楊韜を一人でバスに乗らせることを決心させた(この前にもこうした考えは持っていたが、万が一の事を考えるといつも恐くて実行に移せないでいた)。
アメリカから帰国すると、私は早速実行に移した。楊韜を自分だけで学校に行かせる全過程はわずか二週間ですんだ。もちろん、その基礎は4年の間に蓄積されていた。
最初、私は乗務員の協力に頼ることを考えた。そこで私はたくさんの同じ様な内容の紙に「おばさん、こんにちは、僕は楊韜といいます。万泉庄で降りたいです。僕は自閉症なので、駅についたら教えてください」と書いた。前に書いたように、私は楊韜が乗り過ごすことを心配していたのではない。私が心配していたのは、@楊韜が途中の駅で他の乗客に押されて降りてしまう。A万泉庄についても混んでいて降りられない、ということだった。そこで私は楊韜を連れてバスに乗り、彼にその紙を乗務員に見せさせた。ところが、二回とも乗務員はまるで何か恐いものを見たかのように、「何これ?」(爆弾でもあるまいし)というなり、顔をこわばらせ紙を見ると、そのまま無視した。私はそばから慌てて「この子が今後自分でバスに乗れるように訓練したいんです。最初はちょっとご面倒をおかけすると思いますが、どうかご協力ください。」私は予想したような好意を受けることができなかった。そこで楊韜を乗務員に託すという考えは捨てざるを得なくなった。私は自分に対して言った。「頼るのは自分たちしかいない、一歩一歩やっていくしかない。」私が採った方法はこんな風だった。
(1)楊韜と一緒にバスに乗り、途中で、「お母さんは降りますよ。」と言って、バスを降りた後、急いで別のドアからバスに乗り込み、楊韜の降りるまでの行動を観察する。結果、問題なし。
(2)楊韜の後をこっそりつけてバス停に行き、@彼がバスを間違えないかどうか、A323(もう一本の路線)のミニバスに乗ってしまわないかどうか(ミニバスは熱心に呼び込むのでそれに釣られないかどうか)、この点楊韜は自閉症児の型どおりの行動という持ち前の特徴を発揮した。374のバス以外絶対に乗らないのである。Bバスと歩道の間を走る自転車をちゃんと避けることができるかどうか。を観察した。結果彼はちゃんと危険を避けるすべを知っていた。
(3)楊韜がバスに乗った後、私はバス停のそばの公衆電話で待機し、時間を見計らって、学校に電話を掛け、楊韜が無事ついたかどうか確認する。その時、私はあらゆる覚悟をしていた。万が一、学校に着いていなかったら、私はすぐにタクシーに乗り、バスの沿線をくまなく探そうと思っていた。
どんな事にも危険は付き物だ、でも私はどうしても試さなければならない、なぜなら私は楊韜を愛しているから。愛しているから、彼に人としての生活と権利を持つことができるようにさせたい。愛しているから、彼に物事を成し遂げた後の達成感を味わわせたい。楊韜の担任と約束して、もし8時半までに学校につかなかったら電話をもらうようにした。こうして、私は公衆電話のそばからまた一歩後退した。そう、家で彼を見送ることにしたのだ。
こうして、楊韜は自分でバスに乗り学校に行けるようになった。半年後、私は彼に自分でバスに乗り家に帰ることを訓練し始めた。基本的には学校に行くのと同じ順序で行い、基本的に順調に進んだ。今、私は毎日家で彼の帰ってくるのを待っていればよくなった。私の同僚や友達は大変感心してこう言う。「本当にえらいわね。多くの正常児でさえ、この歳にはまだ親が送り迎えをしているというのに。」また、ある人はこう言った。「田恵平さん、あなたちょっと無謀なんじゃないの?私だったらとてもできないわ。万が一何かあったらどうするつもり?」
そうなのだ、何もないわけがない、しかもそれは一万分の一の確率じゃない。楊韜が自分で学校に行くようになってから約10ヶ月が過ぎた。毎月20回と計算して、まだ200回あまりにすぎない。それでもその何かはすでに10回以上起こっていた。
『北京かわら版』にも、星星雨関係の記事
「特集・中国の自閉症児たち」を4回連載しました。
順番にご覧下さい。