頤和園長廊物語 番外編 |
三打白骨精の謎を追って(その二)
コマースクリエイト梶@関口美幸
三打白骨精の一コマ(写真提供:浙江紹劇団) |
長廊の「三打白骨精」がどうやら紹興劇が元になっているらしいと分かった私は、同行のかわら版のメンバーと別れ、一人浙江紹劇院へと向かった。門の前に団長の劉さんが待っていてくれる約束である。ごみごみした胡同の中をリンタクに揺られ約束の場所につくと、会社の社長みなたいに恰幅のいい紳士が待っていた。門を入ると洗濯物が干してあるごちゃごちゃした中庭があり、古めかしいレンガ作りの建物の二階に案内された。「おはずかしい、あまりきれいな所じゃなくて。教会の建物を借りているもので。」と恐縮する団長さん。伝統芸術の常として、ここもあまり景気がよくないのか。一階が練習場、二階が事務所になっているとのこと。あいにくその日は日曜日で練習を見ることはできなかった。団長さんは私に会うために休みを返上して出てきてくれたのだ。
私が来意を説明すると、そのあまり広くない部屋の壁一杯に飾られた写真を指して、「ほら、これが北京初公演の時、毛沢東と一緒にとった写真」、「これが、あなたの言っていた毛主席から贈られた七言詩」、「これは周総理」と当時の輝かしい記録を嬉しそうに説明してくれる。「これは誰ですか?」と私が孫悟空の写真を指さして問うと、「これは私」と目を細める団長さん。団長自ら孫悟空を演じていたのか?孫悟空というと何となくやせ形の役者を想像していた私は、失礼ながらこの体型でとんぼ返りが打てるのか?と思ってしまった。「孫悟空のポーズをとってもらえませんか?」という無理なお願いも、快くきいてくれた団長さんは、背広姿のままポーズをとってくれた。一九六一年生まれの団長は、孫悟空役の第一人者六齢童の愛弟子で、その技を直接受け継いでいるそうだ。しかし、娯楽が多様化した今日、この伝統芸術を後世に伝えるのは容易ではない。若い層にも受入られる新しい要素を取り入れたり、海外公演を増やす等の方法をとっているそうだ。九二年には日本公演もも行ったと言って、その時のパンフレットを見せてくれた。団長は役者だけあって、その手振り身振りを交えた話は人を引きつけて離さず、まるで芝居を見ているかのように引き込まれてしまい、なかなか本題の「三打白骨精」の話題に入れない。
劇団の説明が一通り終わったところで、私はかなり強引に西遊記と頤和園長廊の「三打白骨精」の物語の違いについてまとめたものを団長に見せた。すると、団長は、確かに頤和園の話の方が紹興劇の「三打白骨精」に似ている、と言って、劇団で使っている「三打白骨精」の脚本を持ってきてくれた。これは、元々七齢童が書いた台本に手を加えたものだそうだ。七齢童は、猪八戒役の第一人者で、数々の「悟空劇」の脚本の作者でもある。私は「この脚本今日一日貸していただけませんか?コピーをとって明日お返しします。」といってホテルに持ち帰った。
ホテルに戻って早速脚本を読んでみた。脚本には前書きが付いていて、それによると、七齢童は、西遊記の「三打白骨精」と「平頂山」の二つの話を参考にして脚本を書いたとある。劇の始めの猪八戒が偵察に行く部分が「平頂山」の話からとられているのだ。しかし、長廊には、この話はない。また、長廊では、老人に化けた白骨精は数本の木を小屋に化けさせ、自分は小屋の前に座って三蔵たちがやってくるのを待つのだが、紹興劇では、西遊記と同じように老人の方から三蔵たちのいる場所に出向くことになっている。その他はだいたい長廊の話と似ていた。折角捕まえたと思った謎が、また自分の手を離れて行ってしまったような気がした。でも、「かわら版」にこのことを書けば、誰かが情報を寄せてくれるかも知れない。そう気を取り直して、街で買った「紹劇発展史」という本を繙いた。
孫悟空のポーズをとる劉建楊団長 |
明代に発生したらしい「堕民」と呼ばれる被差別階層の人たちが紹興劇の元になった紹興乱弾を代々演じてきたとあり、「堕民」の説明にかなりのページが割かれていた。紹興乱弾は「賎業」と言われ、長い間さげすまれてきたこと、「堕民」はいわゆる「良民」との婚姻が認められていなかったこと、等々。文化的教育を受ける機会すら与えられなかった最下層の人達が紹興劇という伝統文化を今に伝える大きな役割を担ったというのは、なんという歴史の皮肉であろうか?そんな事を考えながら伝統文化が色濃く残る紹興の街を後にした。
*お詫び
かわら版九一号で娘に化けた白骨精が持っているものについて、長廊では「面筋」、西遊記では「饅頭」と書きましたが、これは誤りで、長廊が「饅頭」、西遊記が「面筋」でした。(筆者)
三打白骨精の脚本のコピー |
紹興劇は、元々「紹興乱弾」と呼ばれ、清代の中頃に起こったとされています。当時「堕民」と呼ばれた被差別民が専業或いは兼業で代々伝えたもので、平易な言葉、激しい音楽と動作を伴うのが特徴です。同じく紹興で起こった越劇は、その後上海に根を下ろしましたが、紹興乱弾は、一度は上海に進出するものの、その後紹興に戻り、紹興劇として定着しました。
封建制度の瓦解と共に滅び行く伝統芸術の運命を紹興劇も免れることはできず、新中国設立後は、わずか四つの劇団が残るのみとなってしまいました。一九五〇年代に入り、紹興劇存続の新たな道を模索するため、西遊記より題材を得た「悟空劇」に力を入れるようになり、六齢童(六歳で初舞台に立ったのでこの名がある)、七齢童といった逸材が現れます。特に六齢童は、「江南美猴王」(美猴王は孫悟空が花果山にいた頃の名前)の異名を持つ程、孫悟空を演じたら右に出るものがいないと言われた人物で、その息子の六小齢童は、テレビドラマ「西遊記」の孫悟空で一躍有名になりました。一方、七齢童は役者としてだけではなく、脚本家としても有名で、「三打白骨精」を始めとする「悟空劇」の多くの劇を書き、紹興劇中興の基礎を築いた人物です。
紹興劇は、その後さらに統合を重ね、今では国営の浙江紹劇団を残すのみとなりました。現在の団長の劉建楊氏は、六齢童の愛弟子で、その技を直接受け継いでいるとのことです。