中国を集める57

奈良大学教授  森田憲司

   また地図に話に戻る。

   昨年の三月4月合併号に地図の話を書いたあと、九月に北京に行った。短期の滞在でバタバタしていたが、それでもいくらかは地図を買うことができた。九九年春は北京へ行けなかったので、桜井さんにお願いして前門の箭楼一帯の露店で地図を集めていただいた。

   こうした次第で、例年よりは成績が悪いのではないかとも思ったが、整理してみると、九八年版は、地質、中国地図、中国旅遊、星球地図、の四社、九九年版は、地質、中国旅遊と西安地図の三社のものが入手でき、九八年版については、一社で二種出していたり、印刷次数違いがあったりして、十種類の地図が集まった(他に宣伝用の地図が数種)。

   これらの地図をあらためて見てみると、昨年このコラムに書いた地図の出版者の固定化という傾向は、依然として継続している。表紙についても同じく固定化が続き、地質出版社の天安門の見上げの写真は、今年も前年のものと違っている(角度がほとんど変わらないのもこれまでと同じ、毎年律儀に写真を撮りなおしているのだろうか)。久しぶりに北京の地図を出した西安地図出版社も、表紙は天壇で、やはり、北京を代表する光景といえば、天安門と天壇らしい。

   全般的に印刷がよくなっているし、広告がどんどん増殖して、表紙や裏だけでなく、地図面の周囲を完全に取り巻いてしまっているものもある。また、九八年の地図に関しては、十月一日からの鉄道の時刻変更も影響している。いくつかの地図は裏に北京駅の主要列車時刻表を載せているからだ。これはまあこの部分の版下を貼り替えればできる程度のことではあるが。

   では、地図そのものに関してはどうだろうか。

   北京の都市改造の進展が急ピッチで続いていて、地図の方も毎年のように大きく変わらざるを得ない状態になっていることが挙げなければならないだろう。宣武門外や東安市場の再開発では、胡同がまるごと消えてビルになったりしたが、旅遊交通図のレベルでは、そこまで小さな胡同は書きこまれていない。城内で一番目立つ変化は、平安里大街の貫通だろう。ご存知のように、内城北部、地下鉄の駅で言えば、東四十条から、車公庄に抜ける東西の道が整備され、平安里大街という名前に変わった。これまでは、東から東四十条、張自忠路、地安門東大街、地安門西大街、平安里西大街と、この道は細かく区分されていた。

   この変化に対応できているのは、手もとにある地図では、地質と、中国旅遊の九九年版。西安地図は、九九年版と銘打っていながら、変化に対応できておらず、以前の道路名のままになっている。

   外城や城外の方はもっと変化は激しく、新しい道路の建設がたえない。こうなってくると、気の毒なのは出版社だ。上に刷りこまれている施設やバス停の変化くらいなら対応のしようもあろうが、道が変わるとなるとベースマップからやり直しになってしまう。中国旅遊の地図を例にとると、九八年八月に新版を出しているのだが、十一月になって出した、第三次印刷の地図は、版面が明らかに異なっている。上に書いた平安大街はもとより、あちこちに変化が見られるということは、わずか三ヶ月の寿命しかなかったことになる。

   面白いのは、この十一月の版は、上にシールを貼って、九九年四月の新一版と訂正してある。出版社がしたのか、売る側で新版に見せかけようとしてやったのか。出版社にしろ、販売店にしろ、少しでも新しいものに見せなければ売れない現状が、よく現われている。なお、九九年四月第一次印刷の本物?もあり、表紙が微妙に異なっている(図版参照)。

   ただし、ここで書いてきたことは、あくまでも店頭で入手できた地図から見ることのできた傾向で、地図出版の全体的な傾向を正確に読み取れているかどうかは分からない。この種の地図については、北京図書館が編集している『中国国家書目』の対象になっておらず、『中国出版年鑑』にも取り上げられていないので、毎年どのくらいの地図が刊行されているのかについての、網羅的なデータを入手できないのが現状だ。以前、『中国地図年鑑』という本を見たことがあるが、その後も刊行されているかどうか知らないし、日本の店頭で入手できるという話を聞いたこともない。この本があれば、北京以外のことも含めて、全体的な状況がいくらかわかるとは思うのだが。

戻る