中国を集める62

奈良大学教授  森田憲司

二つの沙河橋
   9月に北京にお邪魔したときに、昌平県にある沙河橋を見てきた。北京で昔の橋と言えば、廬溝橋が有名だが、その他にも城内なら銀錠橋があるし、街外れなら、西直門駅の近くの高梁橋などもある。さらに遠出すれば、京石高速道路の路側帯には、工事中に出土したという、明代の橋が保存されていて見ることができる。別に交通史の研究をしているわけではなく、ただ単に古い建築物を見るのが好きだというだけなのだが、今回わざわざ出かけたのには、もう一つわけがあった。
   それは後回しにして、まず、沙河橋について、『昌平県地名志』の記事を参考に紹介しておこう。この橋は正式には朝宗橋といい、全長82.5メートル、幅12.4メートルという立派な橋である。木製の橋から石の橋になったのは、明朝の正統十三年(1448)だという。それ以後、何度か改修が繰り返されながら今日に至っている。民国以後だけでも何回かの洪水にこの橋は耐えたと書かれている。また、橋のたもとには、大きな字で「朝宗橋」の三字が刻された、明の万暦四年(1576)の石碑が立っている。この橋のある場所は、北京から十三陵や長城への、したがってモンゴル高原への交通路の要衝にあたり、現在では長城への高速道路も橋のすぐ脇を走っている。
   さて、この橋に興味を持ったのは、内城の霞公府にあった山本照相館という写真館から明治39年(1905)に刊行された、『北京名勝』という名所風俗アルバムに、写真が載っていたからで、写真で見た限りではなかなかきれいな橋だし、それがどうなっているかを知りたくて、同じく昌平県にある、湯山温泉の離宮に出かける途中に回り道をして寄ってもらった。『北京名勝』や湯山温泉については、3ヶ月ほど前のこの欄で取りあげたことがある。
   現地へ行ってみると、東側に並行して走る高速道路を無視すれば、南の方角に5階建てくらいの建物と給水塔が見える他は、側壁に付けられた獅子の頭もそのままで、橋は昔の写真と変わらぬ姿で今も在った。写真どおり美しい橋だ。喜んだ私は、昔の写真とほぼ同じ角度での撮影のほか、かなりの数の写真を撮って満足した。
   ところが、帰国して現像した写真を、写真帖のものと見比べてみると、へんなことに気がついた。明治39年と今年9月と、両方の写真を掲載したので、見比べていただきたい(週刊誌の間違い探しクイズみたいで恐縮です)。
明治撮影の沙河橋
今年撮影の沙河橋
   違っているのは、水を通すために開けられている孔の数で、明治の写真では確かに9つ写っているのに、今回の写真には、7つしか写っていない。撮影の角度のせいかとも思ったのだが、『地名志』で確認してみると、やはり七孔と書いてあるし、同書に掲載されている写真でも七孔である。
   民国四年(1915)と、解放後の1953年とに修理がおこなわれたと、『地名志』にあるので、このいずれかの時に変えられてしまった可能性もある。たしかに、土台の部分の石組みなどは、明治の写真よりも整備されている。まさか、沙河橋がもう1つあるとも思えないのだが、どなたか、この辺の事情をご存知ないだろうか。
   本当は、今でも残っている湯山温泉の離宮の浴槽や庭園の池や石組みの話とあわせて、変化の激しい北京でも、郊外へ行けば、1905年、すなわち清朝末期と同じ景色を見ることができると書くつもりで、この話題をとりあげたのだが、妙な結果になってしまった。これもまた、写真を集めていて気づいた、その資料性と面白さのお話の1つと思っていただければさいわいである。

追 記
   10月26日付の北京日報によれば、朝宗橋はトラックの通行量が多く、満身創痍の状態で、橋の側板も一部破壊されているとのことである。

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