奈良大学教授 森田憲司
二つの沙河橋
9月に北京にお邪魔したときに、昌平県にある沙河橋を見てきた。北京で昔の橋と言えば、廬溝橋が有名だが、その他にも城内なら銀錠橋があるし、街外れなら、西直門駅の近くの高梁橋などもある。さらに遠出すれば、京石高速道路の路側帯には、工事中に出土したという、明代の橋が保存されていて見ることができる。別に交通史の研究をしているわけではなく、ただ単に古い建築物を見るのが好きだというだけなのだが、今回わざわざ出かけたのには、もう一つわけがあった。
それは後回しにして、まず、沙河橋について、『昌平県地名志』の記事を参考に紹介しておこう。この橋は正式には朝宗橋といい、全長82.5メートル、幅12.4メートルという立派な橋である。木製の橋から石の橋になったのは、明朝の正統十三年(1448)だという。それ以後、何度か改修が繰り返されながら今日に至っている。民国以後だけでも何回かの洪水にこの橋は耐えたと書かれている。また、橋のたもとには、大きな字で「朝宗橋」の三字が刻された、明の万暦四年(1576)の石碑が立っている。この橋のある場所は、北京から十三陵や長城への、したがってモンゴル高原への交通路の要衝にあたり、現在では長城への高速道路も橋のすぐ脇を走っている。
さて、この橋に興味を持ったのは、内城の霞公府にあった山本照相館という写真館から明治39年(1905)に刊行された、『北京名勝』という名所風俗アルバムに、写真が載っていたからで、写真で見た限りではなかなかきれいな橋だし、それがどうなっているかを知りたくて、同じく昌平県にある、湯山温泉の離宮に出かける途中に回り道をして寄ってもらった。『北京名勝』や湯山温泉については、3ヶ月ほど前のこの欄で取りあげたことがある。
現地へ行ってみると、東側に並行して走る高速道路を無視すれば、南の方角に5階建てくらいの建物と給水塔が見える他は、側壁に付けられた獅子の頭もそのままで、橋は昔の写真と変わらぬ姿で今も在った。写真どおり美しい橋だ。喜んだ私は、昔の写真とほぼ同じ角度での撮影のほか、かなりの数の写真を撮って満足した。
ところが、帰国して現像した写真を、写真帖のものと見比べてみると、へんなことに気がついた。明治39年と今年9月と、両方の写真を掲載したので、見比べていただきたい(週刊誌の間違い探しクイズみたいで恐縮です)。
明治撮影の沙河橋
| 今年撮影の沙河橋
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追 記
10月26日付の北京日報によれば、朝宗橋はトラックの通行量が多く、満身創痍の状態で、橋の側板も一部破壊されているとのことである。