英米の小説や映画において、特定のキャラクターの話す言葉が非標準英語であることを表すため、独特の統語法や綴りを用いることがある。それを日本語に訳したときに、日本語訳の中でどのような形で標準語との差異を示すのか。それにはよく方言が使われる。例えば奴隷役の黒人には「〜だべー」などの東北弁が使われる。関西弁ではなく、なぜ東北弁を当てはめることが多いのか。それは人々のその方言に対するイメージが当てはめられているのだろう。映画の吹き替えを題材にして、人々が抱く各地の方言のイメージと結びつけていきたい。
日本語教育は、今では学習者のさまざまな目的から、広く海外でも行われている。日本語を学ぶ目的、背景によって学習者の意識は異なるものであると思う。 台湾はかつては日本の植民地下におかれていた。その間、日本語を国語とする教育がすすめられており「国語教育」と呼ばれていた。このような背景の中での日本語教育とは、実際どのような教育がされていたのか、問題点となるところ、など主に関連する文献を調べまとめていく。また、現在の台湾における日本語教育での教授法や、日本語に対する意識なども関連づけてまとめていく。
語義(語の意味)は、時間の経過と共に変化する。例えば、古典の世界における「あはれ」には「しみじみとした情趣がある」とか「かわいい。いとしい。」などの意味があるが、現代語においては「悲しい。つらい。」の意味で用いられている。又、普段何気なく会話している中にも、意味の変化を感じることがある。例えば「明日天気かなあ?」というのは「良いお天気かどうか」と言うことを尋ねているのであるが、本来「天気」というのは、気象状態を示す言葉であったと思う。それがよい気象状態を示す言葉に変化しているのである。このような語義の変化は、音・指示物・語形などの類似性によって生じるようだが、それに基づいて「隠喩」「転用」「省略」などの分類がなされている。しかしそれは主に和語や漢語についてであり、外来語の語義変化についてはあまり調査されていないようである。そこで、私は、外来語がどのような語義変化をするのかと言うことに興味を持ち、和語と同じような変化が起こるのかどうか研究したいと思っている。
日本語には多くの方言があり、私達の住む関西でも特徴的な言葉が多く使われている。その中でも特に関西弁らしい「やんか」を取り上げて研究していこうと思う。「やんか」にはいくつもの機能があり、場面によって異なった音調が用いられる。そこで、どんな機能があり、それはどんな人によってどんな場面で使われているのか、自然談話の録音や関西出身の人が出ているテレビのトーク番組の録画を文字化し、分析を行う予定である。また、異なる音調を録音したテープを聴いてもらって反応を見たり、アンケート調査を行う予定でもある。
私たち日本人の身近な口語表現の中で生き生きとした表現力をもつ擬音語(この研究では”擬音語”は音象徴語全体を示すものとする)。擬音語が多いことは日本語の特徴の一つと言える。日本人にとっては自然な言語活動の一部で、それなしではすまされないもの、それだけに外国人の日本語学習者にとっては難物のひとつであると思われる。ここでは特に英語話者の場合を中心に研究を進めていきたいと思う。方法としては自分自身やまわりの人の言語生活、テレビ、雑誌などから擬音語を収集し分析するというものと、外国人向けの日本語教材で擬音語がどのように扱われているのかを調査するという、主に二つの方法をとる。そして日本人の擬音語の使用実態と日本語教材としての擬音語を比較し、問題点を見つけていきたい。
私達が家族や親族を呼ぶとき、その呼び方は個々によって様々である。同じ人物を呼ぶとき出もいろいろな呼び方を場面によって使い分けている。私達は、普段、意識せずに、家族を呼ぶときに、幾つかの法則を使い分けているのです。そこで、家族をどのように呼ぶのか、様々な人々にアンケートを行い、調査し、そこに男女差、世代差、場面差があるのか、また、これまでに調査されていた内容と比較し、時代の移り変わりと共に、家族の呼び方にも変化が現れたのかを研究したい。また、近年増加の傾向にある、離婚、再婚などの家族形態の変化における親族呼称・名称についても調査したい。
若者ことばのなかでも、特に特徴があるのは程度を表す副詞の表現であると思う。このなかで、「とても」という意味を表すことばに、興味をもった。例を挙げると、「超」、「激」、「めっちゃ」、「ごっつ」、「バリ」など、ほかにもたくさんあるが、いずれも聞き手に強いインパクトを与える表現である。この表現を使用する際、話し手は状況によって使い分けをしているのだろうか。もしそうであるとすれば、これらの表現にはそれぞれ程度の大きさのレベルがあるのだろうか、ということに着目した。例えば「めっちゃおいしい」と「ごっつおいしい」と比べると、どちらがおいしい度合いが高いのだろうか。このようにほかの表現においても調査して、最終的には「とても」の程度のレベルについて仮のランク付けを立てるそして語呂合わせの種類もたくさんあります。研究方法は文献調査とアンケート調査で行い、アンケートの調査対象は関西在住の学生(男女)である。使用頻度において、男女差・地域差の使用状況を調べて関連性を見つけていく。また、これらの表現を使用してきた順番と、程度の大きさの順番との関連性も調査する。
感謝の場面の時に陳謝の表現である「すみません」や「ごめん」などが使用される場合がある。 これは、場面や話し手や聞き手が誰であるかによって無意識に使い分けがなされていると考えられる。例えば何か落とした物を拾ってもらったとき、相手が未知の人なら「すみません」、親しい友人なら「ありがとう」と言うだろう。又、その落とし物が安価な物であるか高価な物であるかによっても表現が異なるかもしれない。実際に、様々な場面、聞き手話し手を設定し、どの様な時にどの様な表現が使用されるのか。又、話し手の年代や性別によって表現の偏りがあるのか調査する。
人は社会集団に属する以上、その内部内における言語行動がある。特に仲間意識を強調し、職場において必ずと言っていいほど使用されている言葉は隠語であある。誰もが、1度は口にしているか、或いは聞いたことがある隠語、これは人に隠しうる語、秘密保持のための語として、随分古くから使用されていた事が従来の研究によって分かる。しかし、隠語の研究は、他の一般語に比べてたちおくれている。このように私も隠語を使用している一人として、仲間以外にしか通用しない「特殊語」として興味をひかれた。その隠語が意識していると、お店などで「これは隠語であるのかな」と思う語が見つかり、意味しているだろうという事を自分で想像する面白さがうまれてくる。そこから隠語が使っている人が何をねらっているのかという機能に注目したい。現時点で、隠語は社会集団にどれほどの影響を与えているか、隠語の共通性、隠語が使われているかと言う役割、又、隠語そのものをどのような意識で作るのかという語形成を主流として、これを更に詳しく分析する。文献調査を第一としているが、人が隠語に対して持っている意見や使用頻度の集計として、年代を問わず何らかの社会集団に属している人を対象にアンケート調査をする。
進学、就職の都合で、他地域に住むことになった場合、母方言と他方言との使い分け を含む言語使用と意識との関係がこれまで数多く研究され、言語使用の変化等は、話者自身の意識が関係しているのではないかとされていたが、意識よりむしろ、アイデンテイテイーが強く関係しているのではないかといった考えもある。そこで、本研究では、関西に住む岐阜方言話者に限定し、アンケート調査を行い、言語使用とアイデンテイテイーとの関係を調べていく予定である。
日本語には、話し手が自分の感情・態度を表現しようとする場合、そのための手段として、テ・ニ・ヲ・ハをはじめとする助詞や、「こそ」「・・・だけどね」などという言い方や、さらには敬語などという便利な道具が揃っているので、イントネーションにあまり頼る必要がないと言われていますが、90年代、若い女性から始まり、今では日本語の話し言葉の中で大いに普及した新しいイントネーションがあります。それが、「句末上昇型イントネーション」です。このイントネーションは、音調レベルでの現代日本語の動きを特徴づける現象として見過ごせないものです。本研究では、自然談話の録音やテレビのトーク番組の録画を収集し、それを話者の属性・意識、機能の面からと、物理的な面から分析し、その後アンケート調査を行います。また相づちや疑問文の使用頻度との関連性も調査していきます。
「方言」は明治から昭和の標準語教育により、「悪い言葉」、「恥ずかしい言葉」と人々の意識の中に深く植え付けられてきました。そのため、昭和の半ばには方言をからかわれたことによる乱闘事件が多発し、それは自殺、殺人にまで発展しました。しかし現在では、方言を大切にしよう、尊重しようという人々の動きが盛んで、全国方言大会などの催し物が各地で行われるようになっています。このような方言に対する人々の意識の変化はいつ頃から、どのような原因で起こったのか、社会的な時代背景をもとに研究しました。
大阪を中心とした関西中央部の方言では、結果態と進行態は同じ形です。しかし、西日本の多くの地域の方言でそれらは違った形となります。播州方言もその中の一つですが、最近では結果態と進行態の形の差が無くなってきている気がします。そこでまずは、播州方言話者である自分はその二つをどう使い分けているのかを考えました。そして、同じ方言話者である他の若者達はその二つを使い分けているのかという疑問が生まれました。今後、播州方言話者の若者にアンケート調査を行い、現在の播州方言での結果態と進行態の使い分けの実態を明らかにしていきます。また、過去形や否定形、敬語などの場合は形に何か変化はあるのかといったようなことも研究したいと考えています。
私は俗に言う転勤族で、日本各地を転々としてきました。大阪に来て自分では、標準語だと思っていた言葉を、東京弁と言われ、初めて自分の言葉について、考えてみるようになりました。ある場所から、ある場所への移住者と違って、転勤族というのは複数の土地で暮らす経験を持ち、言語に多くの影響を受けます。今までの研究では、ある場所からある場所への移住についてのものばかりで転勤族を扱ったものは、ほとんどありません。扱いにくい問題ではありますが、まずは自分自身の意識の面、言語体系の面などを客観的に分析してゆくことから始めたいと思っています。
関西方言の可能表現(否定)を表すものに、例えば「書く」であれば、「ヨーカカン」や、「カカレヘン」、「ヨーカカヘン」など、さまざまなものがあります。今までの研究で、動作主がおかれている状況での可能や、動作主の能力についての可能を述べるときに、これらの表現が使い分けられているということが言われてきました。最近の論文で、心情に関する可能について述べるときの表現について書かれてあるものを読み、自分もこれらの表現を使い分けていることに気づき、どの場合に、どの表現を使うかをさらに調べてみようと思い、卒業論文のテーマに選びました。まず、関西(大阪)でずっと過ごしてきた自分自身が、どのような場合にどのような表現をするかを考え、そこから問題点を見つけだし、ある程度調査の対象を絞った上で、調査をしていきたいと思います。