【概要】
肥後熊本城主細川家家臣堀部(甚之丞)家に伝わった文書・遺品類。甚之丞は堀部金丸の甥で家は赤穂事件以前から細川家に仕えていた。事件では一族が遠慮を命ぜられている。初代からの文書・甲冑等が厖大に残されているが、文書群の中には赤穂事件に関する史料も残されている。「義士姓名書付」・「義士介錯人覚」・「堀部金丸遺書写」(2通)・「堀部武庸遺書写」などである。遺書写は甚之丞他親族に宛てたものであり、彼らの心中の一端を窺うことができる。しかし、これらの中でも白眉とされるのがもと堀部文五郎家に伝わっていた「堀部金丸覚書」である。これは明治26年に甚之丞家の文書に加えられたものだが、金丸自筆の覚書であって、『赤穂義士史料上巻』や『忠臣蔵3巻』に所収されている。文書中「堀部氏系図」は堀部氏の先祖から現在の当主に至るまでの系譜が詳細に記されており、堀部一族を知る上では貴重なものである。また金丸妻子の処遇についての書付も残されており、堀部甚之丞家と赤穂事件との関係を知る上でも重要な文書群である。
本史料の文書は熊本藩主歴代の「御書出」(知行宛行状)・知行目録をはじめとして年毎の「差出」や家系・年中行事・料理に関するもの、参勤・江戸道中の記録類や知行所支配関係の文書が残されている。年代としては貞享〜元禄、延享〜宝暦、安政〜文久期に多くの文書が残されている。もともと堀部家にあった文書のうち、書簡・一紙ものは別に伝来して熊本市史編纂室に保管されている。
遺品としては武家の表道具たる刀剣や堀部家歴代の趣味の見て取れる書画類はない。しかし、馬験・指物・馬具・具足、陣羽織・裃等の衣類が残されている。その中の青海波形張懸兜(桃山時代〜江戸前期)は助左衛門義綱(堀部金丸祖父)か弥兵衛勝綱(金丸父)のものではと考えられている。紺糸威黒革包具足(江戸後期)は細川三斎(忠興)以来の越中流の様式に則った甲冑である。
これらは平成3年に甚之丞家当主である健二氏(平成5年死去)から島田美術館に寄贈された。
番号 | 年代 | 史料名 | 宛所 | 員数 |
---|---|---|---|---|
1 | (元禄14〜15年) | 堀部金丸覚書(堀部弥兵衛金丸私記) | − | 2冊 |
2 | (元禄14〜16年カ) | 堀部友政親類書案 | − | 1通 |
3 | (元禄15)11.10 | 堀部武庸遺書写 | 堀部甚之允・堀部庄兵衛・堀部三右衛門・堀部重蔵・成田伊右衛門 | 1通 |
4 | 元禄15壬午.極.14 | 堀部金丸遺書写 | 堀部甚之允・堀部庄兵衛・堀部三右衛門・堀部重蔵・成田伊右衛門・奥田平内 | 1通 |
5 | 元禄15壬午.極.14 | 堀部金丸遺書写(追啓) | 堀部甚之允・堀部庄兵衛・堀部三右衛門・堀部重蔵・成田伊右衛門・奥田平内 | 1通 |
6 | 元禄15.極月日 | 浅野内匠家来口上写 | − | 1通 |
7 | (元禄15)午ノ12.18 | 成田泰頼・堀部知英書状写 | 甚之丞・三右衛門 | 1通 |
8 | (元禄15カ) | 赤穂義士諸家御預人名付 | − | 2通(1通は写) |
9 | (元禄15)12.19 | 堀部知英書状写 | 甚之允・庄兵衛・三右衛門 | 1通 |
10 | (元禄16)未ノ2.4 | 御預け人江被仰渡覚 | − | 1通 |
11 | (元禄16)2.4 | 義士介錯人名付 | − | 2通(1通は写) |
12 | (元禄16) | 弥兵衛殿御妻子御引取所書付 | − | 1通 |
13 | (元禄16)3.23 | 堀部知英書状写 | 甚之允 | 1通 |
14 | − | 堀部氏系図 | − | 1巻 |
→堀部文書
【所蔵者】
熊本市島田美術館所蔵
[閲覧]文書整理中につき不可。
【刊本】
堀部弥兵衛金丸著・佐藤誠校訂『新訂 堀部金丸覚書』(2001年・赤穂義士史料館)に赤穂事件関係の文書が所収されている。また赤穂事件関係の一部と堀部家の家政に関する文書が新熊本市史編纂委員会編『新熊本市史 史料編四 近世U』(平成8年、熊本市)に、細川家歴代藩主等より発給された御書出(知行宛行状)等の知行関係の文書は松本寿三郎編『熊本藩御書出集成(二)』(1999年・細川藩政史研究会)に所収されている。
【参考文献】島田美術館編『肥後藩三百石堀部家の文武』(平成6年、展示パンフレット)・同館編『元禄事件と熊本』(平成11年、展示パンフレット)、佐藤誠校訂『新訂 堀部金丸覚書』(2001年、赤穂義士史料館)。
(014/2000/09/09)
(2006/7/2)