【概要】
肥後熊本城主細川家家臣堀部(文五郎)家に伝わった文書群。赤穂事件後、堀部金丸の甥である忠見文五郎言真は細川家に仕官し、元赤穂浅野家家臣堀部家の名跡を継ぐ形となった。本文書はこの文五郎家に伝わったものであるが、原本は確認されておらず東京大学史料編纂所に影写本が架蔵されている。影写本の内容は以下の通り。
史料名 | 年 代 | 差 出 | 宛 所 | 員数 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 堀部安治履歴 | 明治37年か | − | − | 1通 |
2 | 堀部金丸所用槍之図 | − | − | − | 2枚 |
3 | 堀部武庸書状 | 元禄15年12月10日 | 堀部安兵衛 | 忠見扶右衛門 | 1通 |
4 | 堀部金丸書状 | 元禄14年卯月27日 | 堀部弥兵衛金丸 | 石川道務 | 1通 |
5 | 浅野内匠家来口上写 | 元禄15年極月日 | 大石内蔵助他46名 | − | 1通 |
この影写本の奥書に「右堀部文書肥後国堀部安治所蔵、明治廿三年七月渡邊洪基ヨリ借写」とある。影写本は赤穂事件関係のもののみ採訪されたようであり、堀部一家の動向を窺う上で貴重である。特に「堀部金丸所用槍之図」は討入に使用したと思われる能登守泰幸の槍及び柄(当時忠見家所蔵)を詳細にスケッチしたものとして、また「浅野内匠家来口上」は武庸が討入時に懐中していたと伝えられるもので興味深い。他に「堀部金丸宛浅野長矩知行宛行状」・「堀部金丸覚書」等の文書もあったと思われるが(堀部家覚書)、その大半は所在が確認されておらず、「金丸覚書」のみが堀部(甚之丞)家に移った。
→堀部家史料
【所蔵者】
原本→不明
影写本→東京大学史料編纂所架蔵
[閲覧]東京大学史料編纂所は可(事前に閲覧申請の要有り)
【刊本】
堀部弥兵衛金丸著・佐藤誠校訂『新訂 堀部金丸覚書』(2001年・赤穂義士史料館)に所収。
【参考文献】佐藤誠「史料紹介 堀部文書」(『中央義士会会報 第40号』)、堀部弥兵衛金丸著・佐藤誠校訂『新訂 堀部金丸覚書』
(016 2000/09/09)
(2001/10/20)