上杉家御年譜(うえすぎけごねんぷ)

国宝


【概要】
 出羽国米沢城主(30万石、のち15万石)であった上杉家歴代藩主の世紀。構成は初代謙信より14代茂憲までの歴代藩主の年譜387巻、10代治憲世子顕孝の年譜4巻、支侯(米沢新田藩)2代・26巻、計417巻である。本来は各歴代の諱をとって「謙信公御年譜」・「綱憲公御年譜」というような名称が正式であるが、総称して「上杉家御年譜」と呼ばれている。内容は各歴代の誕生から死後の葬儀等が一段落するまで詳細に記載されている。内容的な特徴としては初代謙信の年譜はあたかも軍談のような記載である。2代景勝(米沢藩祖)は特に「御館の乱」の記事が多いことである。それに対して3代定勝以降は幕府との関係に重点を置いた記載で、米沢藩政に関する記事は少ない。

【「上杉家御年譜」一覧】
上 杉 家 歴 代 「上杉家御年譜」の名称 員数
初代 謙信(越後国主) 謙信公(けんしんこう)御年譜 20巻
2代 景勝(越後国主・会津若松城主・米沢藩祖) 景勝公(かげかつこう)御年譜 30巻
3代 定勝(米沢2代) 定勝公(さだかつこう)御年譜 20巻
4代 綱勝(米沢3代) 綱勝公(つなかつこう)御年譜 20巻
5代 綱憲(米沢4代) 綱憲公(つなのりこう)御年譜 23巻
6代 吉憲(米沢5代) 吉憲公(よしのりこう)御年譜 16巻
7代 宗憲(米沢6代) 宗憲公(むねのりこう)御年譜 10巻
8代 宗房(米沢7代) 宗房公(むねふさこう)御年譜 10巻
9代 重定(米沢8代) 重定公(しげさだこう)御年譜 18巻
10代 治憲(鷹山・米沢9代) 治憲公(はるのりこう)御年譜 36巻
治憲世子 顕孝 顕孝公(あきたかこう)御年譜 4巻
11代 治広(米沢10代) 治広公(はるひろこう)御年譜 36巻
12代 斉定(米沢11代) 斉定公(なりさだこう)御年譜 33巻
13代 斉憲(米沢12代) 斉憲公(なりのりこう)御年譜 49巻
14代 茂憲(米沢13代・伯爵) 茂憲公(もちのりこう)御年譜 66巻
支侯(米沢新田藩)初代 勝周 勝周公(かつちかこう)御年譜 10巻
支侯2代 勝承 勝承公(かつつぐこう)御年譜 16巻

 御年譜編纂の着手は5代綱憲である。延宝2年(1674)4月7日、綱憲は重病の家臣竹俣義秀(綱憲傅役)を見舞った。死を目前にした竹俣は綱憲に色々教諭した中で、「上杉家の記録が不十分なので、これを事業として取り立てるように」と遺言した。延宝5年(1677)4月18日に矢尾板三印伯章が綱憲の学問の師範を命ぜられ以来、家史編纂は追々と矢尾板に委任されたと思われる。
 しかし、天和2年(1682)冬、矢尾板が編纂のために使用していた「御日帳」数冊を麻布屋敷官舎に置いていたところ、屋敷が類焼したために焼失してしまった。そのため翌年3月26日、矢尾板が閉門となり、更に5月7日に閉門御免の上、30石減知となったので家史編纂は一頓挫を来した。これ以後の右筆所の日記は2本作成し、江戸と米沢の文庫に各1冊ずつ納めるようになった。
 家史編纂は元禄期に進行していったようで元禄4年(1691)閏8月22日、矢尾板は30石加増され(計100石)、元禄8年(1695)7月18日家史編纂精励によって褒美が下された。そして元禄9年(1696)5月に「謙信公御年譜」20冊が2部完成した。そして元禄16年(1703)8月9日には景勝の年譜30巻「改正成功」につき、矢尾板に100石が加増された(計200石)。すなわち初代謙信・2代景勝の年譜は矢尾板が準備し、元禄期になって本格的編纂事業がなされたのである。
 その後、家史編纂は暫く中断したが、再開は8代宗房の時である。元文5年(1740)9月12日、元老竹俣充綱が記録の総司を命ぜられ、3代以降の編纂が進められた。そして右筆岩船藤左衛門・若林作兵衛・関口六蔵が日参して草稿作成に当たった。
 9代重定の時代になると寛延元年(1748)3月24日に儒臣片山紀兵衛一真・代治一積父子に記録所日参が命ぜられ、宝暦2年(1752)3月16日に年譜完成につき関係者に褒賞があった。この時に完成したのは3代定勝・4代綱勝・5代綱憲・6代吉憲・7代宗憲・8代宗房の年譜で、これらは米沢保管用にもう1本の作成と上杉家系図の書き継ぎも新たに命ぜられた。
 当面は家史編纂の必要はなくなったので、記録方勤務は片山父子のみとされ、上杉家系図の書き継ぎと家臣の由緒調査がなされたようである。
 12代斉定の時までには10代治憲までの年譜が完成した。文政10年(1827)6月朔日に編纂の奉行千坂興高以下記録方の面々に治憲の年譜作成の褒賞があり、天保2年(1831)正月11日には11代治広と治憲世子顕孝の年譜が完成した。いずれも死去後ただちに編纂されたと思われる。13代斉憲の年譜は甘粕備後助教に年譜編纂が命ぜられた。これは生前から準備された。
 明治以降は藩の事業として編纂するわけにはいかず、上杉家で編纂された。14代茂憲の年譜は昭和10年(1935)に完成した。戦国から近代に至るまでの記録なので膨大である。
 赤穂事件関係では「綱勝公御年譜」と「綱憲公御年譜」である。前者は吉良義央との記事が散見されるし、後者は綱憲が吉良の実子であるだけに関係記事も多い。しかし元禄15年(1702)12月15日条の赤穂浪士討入事件に於ける上杉家の対応については幕府との関係に置いて記載されている。この点と藩政記事が少ない点が本史料に於ける限界点であろう。しかしながら時代の変遷にもかかわらず、ほぼ同一の方針で編纂されていたことは、上杉家の家史編纂に対する力の入れようが窺える。
 本史料は上杉家文書の一部であり、他の文書とともに昭和55年(1980)に重要文化財に指定され、平成元年(1989)に上杉隆憲氏より米沢市に寄贈され、平成13年(2001)に国宝に指定された。

【所蔵者】
原本→米沢市(上杉隆憲氏旧蔵・米沢市立上杉博物館保管)・米沢市立図書館
写本→東京大学史料編纂所

【刊本】
上杉隆憲氏所蔵本を底本としたものが米沢温故会編『上杉家御年譜』全24巻(昭和52年〜61年)、『上杉家御年譜 別巻 総目録・総索引』(平成元年)として現在原書房から発売されている。23巻は「系図・外姻略譜・諸士略系譜(1)、24巻は諸士略系譜(2)である。綱勝は5巻、綱憲は6巻である。

【参考文献】工藤定雄「(上杉家御年譜)序文」(『上杉家御年譜』1巻所収)、上野秀治「(上杉家御年譜)本書の構成と内容」(『上杉家御年譜』別巻所収)。

(034 2002/1/13)