明治〜昭和初期の義士研究家で旧赤穂藩森家家臣(兵庫県士族)。実は森家家臣桑原小弥太の子で伊藤万平の養子となった。伊藤家の祖は伊藤次郎左衛門尉定親といって天正12年、長久手の合戦で戦死した。その長男の政近は250石で本多家に仕えた。後に義士吉田忠左衛門兼亮と縁戚関係になるのはこの家であり、吉田兼亮の女婿たる十郎太夫治興はこの政近の孫に当たる。三男の知徳も300石で本多家に仕えたが、次男の親房は森家に仕えた(100石)。これが伊藤武雄の家である。
武雄は明治5年10月1日生まれ。少年期の経歴は次の通りである。
明治12年4月1日兵庫県赤穂郡公立蓼州小学校普通小学科入学、明治17年9月14日同校中等科第二級課程を卒業。
10月5日兵庫県赤穂郡村立赤穂小学校普通小学科入学、明治18年11月6日同校中等科卒業。
明治19年1月28日兵庫県飾東郡町村立姫路中学校普通中学科に入学、明治20年3月25日同校初等中等科第七級課程卒業。
明治20年5月5日兵庫県立尋常中学校普通中学科入学、明治24年3月27日卒業。
そして、明治26年6月6日、神戸税関監視補を拝命し、勤務の傍ら6月17日に小学校本科准教員免許を取得、明治27年6月6日には神戸税関監視補を退官した。明治28年7月20日には赤穂高等小学校の准教員となり、明治31年7月5日には小学校正教員免許を取得した。そして8月1日に同校の正教員となった。これ以後も教育関係の仕事に従事した。明治31年10月19日赤穂高等小学校訓導を拝命、明治37年3月31日には赤穂郡矢野尋常小学校訓導兼校長に就任した。更に明治38年10月23日には兵庫県赤穂郡書記官を拝命した。
この間、赤穂花岳寺檀徒総代として花岳寺の寺務を管掌し、義士研究にも造詣が深かった。赤穂花岳寺の住職であった仙珪和尚の日記によると武雄は和尚とは親しい間柄であったようで、武雄が花岳寺に参れば酒肴を供した。また、花岳寺だけでなく旧主森子爵家の事務等についても協議している記事が散見される。主な内容としては明治34年8月旧主森忠恕子爵婚姻に際しては御被服献納として金壱円を寄附、明治36年1月12日花岳寺の義士追慕会にて芝居忠臣蔵の濫觴について講演、明治37年1月31日は花岳寺にて中尾峰栖・岩崎元一等とともに義士追慕会の幹事に選出されるなどである。
その後の経歴としては大正6年6月14日、武雄は赤穂郡書記官を退官した。
武雄はジャーナリストで播州小野出身の福島四郎とも懇意であり、福島が『婦女新聞』に「正史忠臣蔵」を連載した際には福島より常に調査依頼を受けている。また、『正史忠臣蔵』が単行本に上梓されることになった際も校正に尽力した。
武雄の論考は旧『義士魂』(赤穂義士会発行)にかなり収められている。特に晩年は精力的で旧『義士魂』には殆ど毎号といっていいほど武雄の論考が掲載されている。赤穂出身の義士研究家でほぼ同時期の研究家として内海定治郎がいるが、事件の推移を経済史的視点をも取り入れて大局的に論じてる内海とは対照的に、武雄は赤穂事件の各事柄について詳細に調べている。特に史料発掘については昭和8年に自分の遠縁で義士吉田兼亮縁戚の岡崎「伊藤家文書」(これは武雄自らが調査・整理した)を発見し、散逸を恐れて諸方に周旋して花岳寺に奉納せしめたことは評価される。また、昭和10年には千葉県某旧宅にあった「帳面書付之目録」(大石良雄が瑶泉院付の落合勝信に提出した浅野家関係の書類目録)を赤穂義士会会長であった武川壽輔の指示によって花岳寺奉納の手続をとった。
武雄の義士研究の功績として特出されるのは伊藤家文書花岳寺奉納と関連して義士寺坂吉右衛門信行の逃亡説に反論したことである。昭和5年、徳富蘇峰の『近世日本国民史 元禄時代義士篇』が上梓されたが、徳富は寺坂を逃亡と断じた。武雄は自分が調査した「伊藤家文書」によってそれは非であるとし、昭和9年福島四郎の周旋によって『日本及日本人』の2月11日発行号と3月11日発行号に「寺坂雪冤録」を発表して徳富に反論した。しかし、あまり反響がなかったようである。そこで武雄は伊藤治興の子治行(吉田兼亮外孫)が寺坂から事件の事を聞き取ったという「伊藤治行聞書覚」・寺坂書簡集・年譜・人名略事典を増補して『赤穂義士 寺坂雪冤録』(皇国士風会)を上梓した。上梓の際は福島が尽力したが、福島は再三にわたって徳富に『雪冤録』の序文を乞うた。しかし、序文の返事は要領を得ず、実現しなかった。
このころの武雄の業績としては昭和12年に旧赤穂藩士で構成される森家「鶴の丸会」の設立に際して中村秀五郎・岩佐一郎(赤穂町長)・飯尾厳夫(大石神社宮司)等とともに発起人となり、郷土発展にも努力したことが挙げられる。
福島はその後『正史忠臣蔵』を上梓したが、武雄はこの印刷中の昭和14年10月14日午前8時10分に急死した(67歳)。法名修徳院大道良観居士。赤穂花岳寺にある養父伊藤万平夫妻の墓地に合葬された。
福島四郎は武雄の死の前日の昭和14年10月13日、義士関係の講演に出席した。その際に武雄の『雪冤録』が紹介された。福島はこの偶然を書き記して武雄を懐古し、且つその死を悼むのであった。
主要著作 | 発行年 | 出版社 |
『赤穂義士 寺坂雪冤録』 | 昭和10年 | 皇国士風会 |
主要論文等 | 年代 | 所収誌等 |
義士の遺子と森家 | 昭和8年 | 旧『義士魂』1号 |
津山開城記 | 昭和8年 | 旧『義士魂』2号 |
津山開城記(二) | 昭和8年 | 旧『義士魂』3号 |
『赤穂義士寺坂吉右衛門』に就ての檄 | 昭和8年 | 旧『義士魂』4号 |
遠島物語 | 昭和8年 | 旧『義士魂』5号 |
遠島物語(続) | 昭和8年 | 旧『義士魂』6号 |
遠島物語(続)その三 | 昭和8年 | 旧『義士魂』7号 |
赤穂義士寺坂吉右衛門に就て | 昭和8年 | 旧『義士魂』8号 |
遠島物語(続)其の四 | 昭和8年 | 旧『義士魂』8号 |
義士討入〜表門裏門の振り分け〜 | 昭和8年 | 旧『義士魂』9号 |
吉田忠左衛門母堂月妙耀大姉の墓を展して | 昭和8年 | 旧『義士魂』9号 |
遠島物語(続)其の五 | 昭和8年 | 旧『義士魂』9号 |
遠島物語(続)其の六 | 昭和9年 | 旧『義士魂』10号 |
遠島物語(続)其の七 | 昭和9年 | 旧『義士魂』11号 |
切腹と介錯(一) | 昭和9年 | 旧『義士魂』11号 |
切腹と介錯(二) | 昭和9年 | 旧『義士魂』11号 |
遠島物語(続)其の八 | 昭和9年 | 旧『義士魂』12号 |
切腹と介錯(三) | 昭和9年 | 旧『義士魂』13号 |
吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家(一)〜 | 昭和9年 | 旧『義士魂』14号 |
吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家(二)〜 | 昭和9年 | 旧『義士魂』15号 |
吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家(三)〜 | 昭和9年 | 旧『義士魂』16号 |
吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家(四)〜 | 昭和9年 | 旧『義士魂』17号 |
吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家(五)〜 | 昭和9年 | 旧『義士魂』18号 |
吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家(六)〜 | 昭和9年 | 旧『義士魂』19号 |
大石頼母助良重 附内蔵助と吉之進 | 昭和9年 | 旧『義士魂』20号 |
大石頼母助良重 附内蔵助と吉之進(下) | 昭和9年 | 旧『義士魂』21号 |
堀内伝右衛門の名乗 | 昭和9年 | 旧『義士魂』21号 |
赤穂義士名簿に就て | 昭和10年 | 旧『義士魂』22号 |
紋所二つ三つ | 昭和10年 | 旧『義士魂』23号 |
義士遺詠考(一) | 昭和10年 | 旧『義士魂』24号 |
義士遺詠考(二) | 昭和10年 | 旧『義士魂』25号 |
義士遺詠考(三) | 昭和10年 | 旧『義士魂』26号 |
神崎与五郎の家と森家(上) | 昭和10年 | 旧『義士魂』26号 |
神崎与五郎の家と森家(下) | 昭和10年 | 旧『義士魂』27号 |
若狭野浅野家知行の事 | 昭和10年 | 旧『義士魂』27号 |
義士古文書の数々(一) | 昭和10年 | 旧『義士魂』28号 |
義士遺詠考(四) | 昭和10年 | 旧『義士魂』28号 |
義士古文書の数々(二) | 昭和10年 | 旧『義士魂』29号 |
義士遺詠考(五) | 昭和10年 | 旧『義士魂』29号 |
義士遺詠考(六) | 昭和10年 | 旧『義士魂』30号 |
義士古文書の数々(三) | 昭和10年 | 旧『義士魂』30号 |
義士遺詠考(七) | 昭和10年 | 旧『義士魂』31号 |
義士古文書の数々(四) | 昭和10年 | 旧『義士魂』31号 |
義士遺詠考(八) | 昭和10年 | 旧『義士魂』32号 |
赤穂築城沿革 附虎口の事 | 昭和10年 | 旧『義士魂』33号 |
再び大石頼母助の事 | 昭和11年 | 旧『義士魂』34号 |
義士紋所二つ三つ(続) | 昭和11年 | 旧『義士魂』36号 |
茅野猪之助 | 昭和11年 | 旧『義士魂』36号 |
四度大石頼母助の事 | 昭和11年 | 旧『義士魂』37号 |
原惣右衛門の戸籍調 | 昭和11年 | 旧『義士魂』37号 |
原惣右衛門の戸籍調(続) | 昭和11年 | 旧『義士魂』38号 |
義士紋所 | 昭和11年 | 旧『義士魂』38号 |
岡嶋八十右衛門の戸籍調(一) | 昭和11年 | 旧『義士魂』39号 |
三村次郎左衛門 | 昭和11年 | 旧『義士魂』40号 |
岡嶋八十右衛門の戸籍調 | 昭和11年 | 旧『義士魂』41号 |
吉田忠左衛門の戸籍調(一) | 昭和11年 | 旧『義士魂』42号 |
吉田忠左衛門の戸籍調(二) | 昭和11年 | 旧『義士魂』43号 |
元禄十二年尾崎八幡宮祭礼警護の次第 | 昭和11年 | 旧『義士魂』43号 |
原惣右衛門の弟(一)〜和田喜六と樋口与右衛門〜 | 昭和11年 | 旧『義士魂』44号 |
原惣右衛門の弟(二)〜和田喜六と樋口与右衛門〜 | 昭和11年 | 旧『義士魂』45号 |
大石東下り 附三村次郎左衛門が事 | 昭和11年 | 旧『義士魂』45号 |
原惣右衛門の弟(三)〜和田喜六と樋口与右衛門〜 | 昭和12年 | 旧『義士魂』46号 |
原惣右衛門の弟(四) | 昭和12年 | 旧『義士魂』47号 |
神崎与五郎の経歴 | 昭和12年 | 旧『義士魂』48号 |
片岡源五右衛門の戸籍調 | 昭和12年 | 旧『義士魂』49号 |
田中某の義士論を駁す | 昭和12年 | 旧『義士魂』50号 |
里村仍春の連歌 | 昭和12年 | 旧『義士魂』51号 |
潮田又之丞の戸籍調 | 昭和12年 | 旧『義士魂』52号 |
弁妄録 | 昭和12年 | 旧『義士魂』53号 |
弁妄録 | 昭和12年 | 旧『義士魂』54号 |
神崎与五郎の経歴について | 昭和12年 | 旧『義士魂』56号 |
弁妄録(続) | 昭和13年 | 旧『義士魂』58号 |
弁妄録(続) | 昭和13年 | 旧『義士魂』59号 |
塚の桜かな | 昭和13年 | 旧『義士魂』59号 |
近松勘六の戸籍調 | 昭和13年 | 旧『義士魂』60号 |
弁妄録 | 昭和13年 | 旧『義士魂』66号 |
兼沢検校と金勝慶安は別人也 | 昭和13年 | 旧『義士魂』67号 |
兼沢検校と金勝慶安は別人也(二) | 昭和14年 | 旧『義士魂』70号 |
大石弥五右衛門に就て | 昭和14年 | 旧『義士魂』71号 |
大野九郎兵衛の正体 | 昭和14年 | 旧『義士魂』73号 |
【参考文献】伊藤武雄『赤穂義士 寺坂雪冤録』(昭和10年、皇国士風会)、片山伯仙編『仙珪和尚日記抄』(昭和42年、花岳寺)、伊藤武雄「吉田忠左衛門と伊藤十郎太夫〜十郎太夫の家と私の家〜」(昭和9年、旧『義士魂』14号〜19号)、福島四郎『正史忠臣蔵』(昭和14年、厚生閣・のち中公文庫に収録)
《附記》本項目は赤穂市の郷土史家で森家鶴の丸会の三谷百々氏の協力により成りました。また、三谷氏を通じて伊藤武雄氏の孫である金治氏(昭和4年生)よりは武雄氏の履歴を提供していただきました。ここに記して感謝の意を表します。
(048 2001/09/8)