明治〜昭和戦前に活躍したジャーナリスト・赤穂義士研究家。播州小野出身。号は「拝蘭」。
明治7年(1874)に兵庫県で生まれ。小学校時代の恩師は小倉亀太郎(昭和12年没)だった。小倉は赤穂領黍田(来住村のうち)に於いて元禄時代から明治維新まで庄屋を勤めた旧家で、浅野長直が巡視の際に宿泊し、四十七士の吉田忠左衛門兼亮が部下の寺坂吉右衛門信行を従えてある期間滞在していたという関係があった。そのため小倉家には義士文書が数点所蔵されていた。幼き日の四郎が赤穂事件に関心を持ったのはこれによるものであるという。
明治31年(1898)、早稲田専門学校修業。小学校・中学校の教員資格を取得、33年(1900)まで教員生活を送る。同年『婦女新聞』発刊。大正8年「女子高等教育門戸開放の請願」を帝国議会に提出。大正9年(1920)『婦女新聞』を雑誌形式に改める。昭和2年「母子扶助法」請願。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 元禄時代 義士篇』が刊行されたのが大正14年(1925)である。蘇峰はその中で四十七士寺坂吉右衛門信行の逃亡説を支持した。これに猛烈に反対したのは赤穂の義士研究家である伊藤武雄と四郎であった。伊藤は四郎の斡旋で『日本及日本人』に「寺坂雪冤録」を発表したが、あまり反響がなかった。そのため四郎の尽力を得て人名事典・史料集を付け足した『赤穂義士寺坂雪冤録』を刊行したのである。この『雪冤録』出版に際して四郎は徳富蘇峰にこの序文を再三にわたって依頼したが、要領を得なかった。それで最後には寺坂逃亡説の支持か否かだけでも問いたいと執拗に迫った。徳富の返事は逃亡説支持というものだった。しかし、伊藤の「伊藤家文書」発見によって昭和初期のこの時点の大勢は、寺坂逃亡説否定論が有力ということで一応の決着をみた。こうして序文の交渉は決裂したが、それでも『雪冤録』には三上参次・辻善之助等の序文が入っている。これも四郎の尽力によるものだろう。この蘇峰序文の一件は寺坂逃亡説否定論が大勢を占めるに及んで、それを背景とした圧力の感は否めないが、寺坂逃亡説は平成になって再び浮上することになる。
四郎の代表的著作たる『正史 忠臣蔵』は昭和10年(1935)には『婦女新聞』刊行35周年として『婦人界三十五年』を出版したが、その時に連載を始めたものが最初である。詳細な史実については伊藤武雄に調査を依頼し、挿絵は赤穂出身の画家長安雅山が担当した。その後、これを1冊に纏め、渡辺世祐の序文を付して厚生閣から刊行された。この刊行の直前に伊藤は死去したが、四郎は『正史 忠臣蔵』前書に伊藤の死の前日、泉岳寺に於いて渡辺世祐の寺坂吉右衛門信行に関する講演を聴講した。この際、伊藤の『寺坂雪冤録』が紹介された偶然を記してその死を悼んだ。『正史忠臣蔵』は史実に忠実に描こうとした点では福本日南等と同じであるが、やはり義士弁護の点も見られる。若干誤謬があるものの内容的には評価される。彼は義士傾倒のあまり昭和16年(1941)12月、赤穂大石神社に「武士道歌碑」を寄進している(現存)。この歌碑には「播磨路のあさ野の末に武士の道のしるべとたてる大石」という四郎の詠歌が刻まれている。
昭和17年(1942)、紙の配給が無くなり、42年間続けた『婦女新聞』を廃刊。昭和20年(1945)没、72歳。生涯を男女の地位の不公正不合理是正の為に闘い、女性の地位向上のために捧げた生涯であったが、赤穂事件の研究にも努力した研究家であった。
主要著作 | 発行年 | 出版社 |
正史忠臣蔵 | 昭和14年 | 厚生閣 |
正史忠臣蔵(中公文庫に収録) | 1992年 | 中央公論社 |
主要論文等 | 年代 | 所収誌等 |
殿中刃傷は勅使登城の前か後か | 昭和12年 | 『正史 忠臣蔵』(1992年)に所収 |
【参考文献】伊藤武雄『寺坂雪冤録』(昭和10年、皇国士風会)、福島四郎『正史忠臣蔵』(1992年、中公文庫)、宮沢誠一『近代日本と「忠臣蔵」幻想』(2001年、青木書店)、飯尾精『大石神社 創建の由来と歴史』(平成14年、赤穂大石神社)。
(085/ 2003/2/7)