赤穂義士事典(あこうぎしじてん)


【概要】
 赤穂義士研究家内海定治郎氏の原案を基にまとめられた赤穂義士の総合的な事典、全1冊、赤穂義士事典刊行会編。昭和47年(1972)刊行。
 内海氏は兼ねてから自身の研究成果を事典にしたいと思っていた。しかし、既に老齢であり、病身でもあったので一人でこれを成し遂げることを不可能と判断していた。しかし、内海氏が及川英雄氏(後の赤穂義士事刊行委員会編集長)の紹介によって元兵庫県知事の阪本勝氏を訪れたのが昭和44年の夏のこと。これを機に内海氏の念願は叶えられることになる。
 内海氏は阪本氏に対して『赤穂義士事典』出版の悲願について語ったが、阪本氏は他の著述に専念していて当初はこの問題を避けていた。しかし、その後内海氏が阪本氏を来訪すること2度に及び、阪本氏もその熱意に動かされたのである。
 そのような訳で同年、阪本氏は当時神戸市にあった内海氏の自宅を訪ね、原稿の一部を持ち帰った。ところが、これら原稿は用紙もまちまちで、原稿用紙に換算できないばかりか事典としての体裁をなしていなかった。
 そこで阪本氏は赤穂花岳寺の片山伯仙師と赤穂大石神社の飯尾精宮司の賛同を得て組織化して本書の編纂に携わることになった。こうして初めて「赤穂義士事典刊行会」が結成され、刊行会委員は以下のように選出された。

刊行会委員氏名 備       考
飯尾  精 赤穂市大石神社宮司、赤穂義士研究家
及川 英雄(編集長) 赤穂郡上郡町生まれ、元兵庫県人事委員長、作家、日本文芸家協会委員
小幡 栄亮 赤穂義士会会長、赤穂市長(昭和44年当時)
片山 伯仙 赤穂市花岳寺(浅野家菩提寺)住職、赤穂義士研究家
坂井 時忠 兵庫県知事(昭和44年当時)
阪本  勝(委員長) 元兵庫県知事、兵庫県立近代美術館館長(初代)、日本文芸家協会委員(昭和44年当時)

 そして、事務所は兵庫県庁南庁舎の一室に設けられた。こうして編集長の統率のもとに本事典は編纂の緒に就いたのである。
 編纂にあたっては当初、内海氏の原稿を解体して五十音順に並べ直すことも検討されたようだが、結局は読者の便を考え内海氏の原稿通り事項別に編集するという方針で行われた。
 編集は思ったより難航したようである。また、原稿提供者たる内海氏も病床に起臥することが多くなってしまったことも原因である。編集上疑問があれば内海氏の枕頭に赴いて質問もしたが、それも多くは出来なかったので、片山・飯尾両氏のもとに走ったり、神戸市立大倉山図書館の協力を得ながらの編集であった。
 このような経過をたどりながら本書が刊行されたのが昭和47年である。
 本事典と内海氏との関係を記すため、本事典の序文はその経緯を詳細に綴っている。そのため、本事典は内海定治郎原案・赤穂義士事典刊行会編とするのが妥当な表現だろう。本事典の構成は下記の通り。

【『赤穂義士事典』一覧(増訂版による)】
構成 項     目
増訂版序(赤穂大石神社宮司 飯尾精)
増訂版序(兵庫県知事 坂井時忠)
増訂版凡例(校訂者 佐佐木杜太郎)
以下、旧版(赤穂義士事典刊行会編)
序(刊行会委員長 阪本 勝)
凡例
第1部 元禄義挙の梗概(付 義挙年譜、義士関係の家系図、浅野家・吉良家分限帳)
第2部 赤穂義士実録(銘々伝)
第3部 元禄義挙に関係ある人々
第4部 元禄義挙に関する著書(旧幕時代、明治以後、外国語文献)
第5部 元禄義挙に関する古記録・その他(旧幕時代、明治以後、代表的な古記録)
第6部 赤穂義士関係の手紙(付 代表的な手紙)
第7部 赤穂義士の詩歌・俳諧
第8部 元禄義挙に関係ある神社・仏閣・遺跡
第9部 赤穂義士に関する演劇
補遺・新資料
あとがき
以下、増訂版(増補 佐佐木杜太郎)
増補 第3部〔補遺〕
第4部・第5部〔補遺〕
第6部〔補遺〕
第8部〔補遺〕
浅野家略系譜(浅野長愛調、宗家・三次支封家・青山内証分家)(佐佐木調、赤穂分家系)
弘前大石家より大石瀬左衛門信清継嗣略系譜(大石良二調)
旧版正誤 第1部〔訂正〕
第2部〔訂正〕
第3部〔訂正〕
第7部〔訂正〕
第8部〔訂正〕

 構成は赤穂事件の史実面に重点を置いたものとなっており、文芸面では多少の項目はあるものの少ない。
 内海氏は原稿を原案として提供したのだが、編集委員会がそれを一旦解体して新たに編んだので内海氏の望んでいた事典となったかどうかについてはわからないが、内海氏の一応の目的は達せられた。
 項目は赤穂事件の概略・義士銘々伝・史料文献・史跡等に亘っており、赤穂事件の事典として現在でもその価値は高い。
それだけでなく、利用しやすくなっている。これが本事典の特色といえよう。
 その後、大石神社によって増訂が行われた。ただし、事典の形態はそのままとし、巻末に事典の正誤表と追加記事を加えて『大石神社蔵版 増訂 赤穂義士事典』として復刻された(昭和58年、新人物往来社)。これは研究の進展により現在から見れば多少古い記事も見られたからである。しかし、赤穂事件を総合的に扱った事典としては殆ど唯一のものであり戦前の研究を踏まえた上でよく纏められていることも考えると昭和40年〜50年代の赤穂事件研究の一つの到達点ということもできよう。

【参考文献】阪本勝「序」(『赤穂義士事典』所収)、及川英雄「あとがき」(『赤穂義士事典』所収)、佐藤誠「内海定治郎」(2000年、当サイト)

(084/2003/1/13)