明治〜昭和期の赤穂義士研究家。明治27年4月2日に赤穂市坂越に生まれ、16歳で姫路師範学校に入学した。この3学年の夏休みに義士の史跡を調べ、一文を草したのが時の校長野口援太郎から評価されたのが赤穂義士研究のきっかけとなった。大正2年に卒業後、赤穂郡坂越尋常高等小学校訓導となり(〜大正11年)、次いで赤穂郡大枝尋常高等小学校の校長を勤めた(〜大正13年)。大正13年、赤穂高等女学校教諭となり、昭和10年に神戸商業実践女学校(現神戸女子高等学校)教諭を勤めたが(〜昭和19年)、この頃の義士研究はすさまじいものがあったという。そしてこの間の昭和8年に内海の代表的著作と言うべき『真説赤穂義士録』が上梓された。また、昭和16・17年に公開された松竹映画「元禄忠臣蔵」(溝口健二監督作品)の史実考証を担当した。この映画は松の廊下や赤穂城・大石内蔵助屋敷のセット等が原寸大に復元されており、考証の面でも評価される作品である。これも内海等考証者たちの努力の結果であろう。
昭和20年、大日本紡績株式会社兵庫県出張所の所長に就任したが(〜昭和32年)、この間は大石良雄夫人香林院(理玖)に関する詳細な研究業績を残している。この間の著書を見ると当時、流行していたマルクス主義に早くから反対する立場をとっている。
その後は神戸女子商業高校教諭を昭和47年まで勤めた。この間の昭和40年12月13日には芸術文化団体「半どんの会」文化功労賞を受賞した。
『真説赤穂義士録』以来、内海の最新の研究成果としては昭和40年の『赤穂版・真説忠臣蔵』があるものの、彼は『赤穂義士事典』として60余年にわたって続けてきた研究成果を纏め上げたいと構想していた。昭和44年夏頃からこれを実現させるための活動をはじめたようである。そして、ついに阪本勝氏(元兵庫県知事)等の心を動かし、昭和45年春に「赤穂義士事典刊行会」が発足した。刊行会の編集も内海の老体と病身のために、質問などが出来なかったので、しかるべき人物に質問をした等の苦労がありながらも『赤穂義士事典』は昭和47年2月4日に上梓したのである。内海は自分の書きためた原稿を「刊行会」に提供し、「刊行会」が編集したので、彼の原稿とは相違した形となり、また彼が意図したものになったかどうかは現在では判断できないが、一応の目的は達せられたと見て良いだろう。そしてこの年の5月3日に神戸新聞平和賞第二部門「文化賞」を受賞。同日、赤穂市長より文化功労を讃えられ、感謝状を受けた。
『義士事典』刊行後、なくなるまでの9年間も続けて赤穂義士研究に余念がなかった。その人生は赤穂義士と共に過ごしたと言っても過言はない。
死亡したのは昭和55年10月29日である(86歳)。
主要著作 | 発行年 | 出版社 |
---|---|---|
真説赤穂義士録 | 昭和8年 | 士道教育研究会 |
赤穂の地理歴史 | 昭和10年 | 姫路市 吉岡輝正 |
時局と赤穂義士精神 | 昭和17年 | 士道教育研究会 |
豊岡と大石内蔵助夫人 | 昭和27年 | 私家版(2001年に『新訂 豊岡と大石内蔵助夫人』として刊行 |
般若山 正福寺 | 昭和30年 | 私家版 |
赤穂版・真説忠臣蔵 | 昭和40年 | のじぎく文庫 |
赤穂義士事典(原案) | 昭和47年 | 赤穂義士事典刊行会 |
史料で綴る理玖の生涯 新訂 豊岡と大石内蔵助夫人 | 平成13年 | 『豊岡と大石内蔵助夫人』復刻刊行会(瀬戸谷晧氏解説) |
主要論文等 | 年代 | 所収誌等 |
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浅野家の赤穂転封事情 | 昭和8年 | 旧『義士魂』1 |
赤穂浅野家の領地について | 昭和8年 | 旧『義士魂』2 |
赤穂浅野家の領地について(2) | 昭和8年 | 旧『義士魂』4 |
赤穂浅野家の領地について(3) | 昭和8年 | 旧『義士魂』6 |
赤穂浅野家の領地について 続 | 昭和8年 | 旧『義士魂』11 |
松竹映画「元禄忠臣蔵 前篇」(史実考証) | 昭和16年 | 溝口健二監督作品(現在松竹よりDVDが販売されている) |
松竹映画「元禄忠臣蔵 後篇」(史実考証) | 昭和17年 | 溝口健二監督作品(現在松竹よりDVDが販売されている) |
【参考文献】内海定治郎『真説赤穂義士録』(昭和8年、士道教育研究会)、阪本勝「赤穂義士事典 序」、田崎唯夫「赤穂義士研究家 内海定治郎先生」(昭和57年、新『義士魂』17)
《附記》本項目の作成に関して赤穂市史編さん室の三好一行氏から資料の提供を受けました。ここに記して感謝の意を表します。
(033/2000/10/6)
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