「北京ダックを食べる。万里の長城に登る。この二つを経験しなければ、北京に来た意味がない!」。これは、北京の人が良く言う言葉だそうだ。北京では、街のあちこちで北京ダックの看板を見かけ、必然的に北京ダックに舌鼓を打つ機会も多い。しかし、ちょっと待った! あなたは食べるだけで満足ですか。あなたは北京ダックの何を知っていますか。
今回の『北京かわら版』では、北京ダックの歴史、アヒルの育て方から食べ方までを大解剖。これであなたも北京ダック博士。まずはじっくり『北京かわら版』を味わって見て下さい。
北京ダックは、三〇〇年以上の歴史があると言われている。
しかし、アヒル飼育の歴史はさらに長い。
アヒル飼育の歴史から北京ダック料理の誕生までの歴史を紹介する。
北京ダック料理の歴史を紹介する前に、食材用に育てられる「北京ダック(北京アヒル)」と「普通のアヒル(ダック)」の違いについての説明が必要だ。
食材用に育てられる「北京ダック」は、中国語では「北京填鴨」と書く。中国語の「填」は、「詰め込む」ことで、「アヒルに強制的に飼料を与え、(太っておいしくなるように)飼育する」という意味がある。そのため、「北京ダック」は「人工的に太らせたアヒル」であり、普通のアヒルとは区別して考えられている。
中には、鴨(かも)とアヒルの違いがわからず、戸惑う方もいるだろう。英語ではともに「DUCK」と呼ばれているが、辞書で調べると、鴨もアヒルもカモ科の水鳥で、鴨は野鳥、アヒルは飼い馴らされたものと記されている。
中国は、世界で最も早くアヒルの飼育をはじめた国の一つで、古代中国語に、すでに「FU(古中国語)」(野かも)、「WU(古中国語)」(飼い馴らされたアヒル)の区別があり、紀元前の古書『左伝』や『戦国策』に「WU」の記述が登場している。アヒルの飼育の歴史は、少なくとも2,300年以上あると言われている。
アヒル料理の記述も、古書にたびたび登場する。古代の宮廷でも、ダック料理は欠かせないメニューだったらしい。そんな中、「蒸す」「煮る」「焼く」「揚げる」「漬ける」など、様々な料理方法が発達した。中でも、棒と火があればできた「焼く」という料理方法は、最も古い方法の一つ。ただ、当時の飼育の目的は、アヒルの糞を農業用の肥料にすること。食用は二の次だった。この主従の関係が逆転したのは、明、清頃のことである。
ローストダックのことを、中国語で「kao鴨」と呼ぶのは周知の通り。しかし、最初からそう呼ばれていたのではなく、「炙鴨」「焼鴨」を経て、「kao鴨」になったことが、以下の書籍からわかる。
『斉民要術』(約一四〇〇年前の農業書)「炙法」(あぶる方法)という中に、「まず、アヒルの肉を切り、料理酒、たれ、しょうが、ねぎ、みかんの皮などの中に漬け、焼く」という記述がある。
『夢梁録・第十六・葷素従食店』(南宋の書物)「炙鴨」(アヒルを焼く)の記述がある。
『武林旧事・巻六・市食』(南宋の書物)「炙鶏鴨」(アヒル、鶏を焼く)の記述がある。
『飲膳正要』(元の書物)「焼鴨子」(アヒルを焼く)の記述がある。
『宋氏養生部』(明の書物)当時の料理方法が記されている。この書籍の記述が、現在の北京ダックの直接的な起源とされ、この料理方法が明の皇宮に伝わった。
『酌中志』(一六三〇年頃の書物)明の皇宮の飲食文化についての記録がある。ここでは、「焼鴨」と記され、中華民国初年までは、「焼鴨」が現在の北京ダックの呼称になった。
明の時代に雛型ができた北京ダック料理は、アヒルの優良種である「北京ダック(詰め込み式を用いた填鴨)」の誕生により、発展の速度を早めた。明朝は、南京から北京に遷都後、アヒルの飼育に力を入れ始める。その時に参考にしたのは、『斉民要術』にあった「填鴨」の方法だったという。ちなみに、現在の北京ダックは、北方にいた「小白眼鴨」の改良を重ねた結果生まれた優良種で、寒さに強く、暑さに弱い特徴がある。
現在に繋がる北京ダック店の中で、最も長い歴史を持つのは、「便宜坊」だ。創業は清の時代の一八五五年。一八六四年創業の「全聚徳」よりも九年早い。商い自体も便宜坊が全聚徳をはるかに上回っていたという。
便宜坊の製法は、明の北京遷都とともに江南地方から伝わった密閉した窯の中でアヒルを燻る方法で、「men炉式」と言われる。『宋氏養生部』の記述の通り、もともと民間に発生した製造法だが、明の皇宮に伝わり、再度民間でも使われるようになった技術。
一方全聚徳では、入り口が開いたままの状態である「挂炉式」を利用。挂炉式は、清の皇宮からスタートした方式と言われ、全聚徳が清宮廷の元調理師を雇い入れたことにより、宮廷の技術を手に入れた(詳しくは、「3.全聚徳を味わう」を参照)。
ちなみに、全聚徳は、創業店が現在の前門店で、宮廷の味を引き継いでいる。一方、便宜坊の創業店は、長い歴史の中で倒産してしまった。しかしその味が断絶したわけではなく、現在、崇文門外大街にある便宜坊に受け継がれている。
解放後の計画経済のもとでは、政府が飼育アヒルの数を抑制していたため、慢性的なアヒル不足に陥り、北京ダックは、簡単に庶民の口に入るものではなかった。しかし、外国からの来客を全聚徳でもてなすなど、政府は「北京ダック」、特に全聚徳の北京ダックを世界各地で紹介したため、知名度は上がっていった。
アヒル不足は、改革開放後の八四年、政府が生産管理を解除したことで解消に向かう。しかし、八八年頃、全聚徳王府井店で食事をした方の話によると、「まだ総入れ替え制で、店で整理券をもらい、数時間後にやっと注文ができる」という状態だったという。北京ダック料理は、長い時間を掛けて、今のような庶民の食べ物として定着した。
1930年代のアヒル飼育のようす(全聚徳パンフレットより転載)
※「kao」は、「火」へんに、「鳥」