大正〜昭和期の赤穂義士研究家。明治34年4月17日誕生、本名は須美雄。父は塩屋村長であった杉松。大正3年3月21日京城南大門公立尋常小学校卒業、大正11年3月11日閑谷中学校卒業。大正12年7月31日、國學院大學の学生の時に台湾総督府委託生となる。大正14年3月20日國學院大學高等師範部卒業、同時に祭式課程修了証・学階証無試験検定学生証を授与された。この学業中に渡辺世祐らの教えを受けた。大正14年4月1日台湾高雄中学校教務嘱託、同年9月10日国語科・漢文科教育免許状を受けた。10月5日台湾公立中学校教諭解任、兵庫県立明石中学校に赴任した。
孤城が義士研究者として実力を発揮するのは昭和4年3月31日兵庫県立赤穂中学校(現赤穂高校、当時は赤穂城本丸跡にあった)に赴任してからである。赤穂中学校内の義士研究部の代表者として『赤穂義士読本』(昭和8年発行)を著したり、赤穂義士会にあっては会報『義士魂』(大石神社発行の現『義士魂』とは別のもの)の編集に携わった。赤穂中学赴任中の著書としては他に『赤穂城物語』・『赤穂義士をめぐる女性』などがある。また山鹿素行の研究に関しても『山鹿素行の武士道』などの著書がある。昭和23年8月、教職追放により赤穂中学校を退職し、商工会議所常務理事に就任した。昭和24年には赤穂義士会理事長に就任した。講演が巧みで各地で招聘された。昭和27年11月1日赤穂市教育委員に就任、昭和29年には赤穂市教育委員長に就任した。また同年に公開された松竹映画「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(主演松本幸四郎−8代目・初代白鸚−、監督大曽根辰雄)の歴史考証を担当した。この仕事のため約4ヶ月間は京都通いをして、一ヶ月のうち10日ほどは京都にいたという。昭和30年商工会議所専務理事就任、昭和32年には経営者協会設立と共に事務局長に就任した。昭和33年には時の赤穂市長であった小幡栄亮氏とともに愛知県の吉良町を訪れ、吉良町からの青年団が赤穂に訪問したが、これをきっかけに浅野・吉良の昔年の怨念を捨てて交流することに努力した。昭和36年ボーイスカウト赤穂第一団を創設し、自ら団長となった。そして昭和42年8月30日未明、入院先の岡山医大病院でその生涯を閉じた(66歳)。生前の功績を認められて死去の年月日付で正六位にが贈位され、勲五等瑞宝章を下賜された。また同年9月21日には商工会議所専務理事表彰となった。赤穂義士と赤穂市発展のために努力した生涯であった。
昭和24年以来、赤穂城大手門・大手隅櫓の復元、義士木像の建立を果たした。殊に子弟の教育に関しては義士発祥の地に即した校風の確立に努め、厳格のうちに慈愛をこめて郷土子弟を薫陶した。
その人となりは人間味豊かであったといわれ、東京・大阪その他の有力な人たちから「平尾先生はご健在ですか。もう一度義士の話を聞きたい」というように慕われていたという。
主要著作 | 発行年 | 出版社 |
---|---|---|
赤穂中学義士研究部編『赤穂義士読本』 | 昭和8年 | 越智精栄堂 |
山鹿素行学概論 | 昭和12年 | 立川書店 |
山鹿素行先生実伝 | 昭和14年 | 立川書店 |
赤穂城物語 | 昭和15年 | 赤穂義士会 |
山鹿素行の武士道 | 昭和17年 | 立川書店 |
赤穂義士をめぐる女性 | 昭和17年 | 大阪府立泉尾高等学校白百合会 |
山鹿素行と大石良雄 | 昭和18年 | 越後屋書房 |
赤穂義士と女性 | 昭和19年 | 越後屋書房 |
忠臣蔵の表裏 | 昭和29年 | 赤穂義士会 |
山鹿素行先生 | 昭和34年 | 赤穂義士会 |
忠臣蔵余聞 | 昭和35年 | 赤穂義士会 |
赤穂浪士と家庭 | 昭和37年 | 赤穂義士会 |
川柳忠臣蔵 | 昭和39年 | 赤穂義士会 |
赤穂浪士あれこれ話 | 昭和40年 | 赤穂義士会 |
人間赤穂浪士 | 昭和41年 | 三交社 |
赤穂浪士の死生観 | 昭和47年 | 三交社 |
滅びゆくものの美-赤穂浪士元禄事件−(都築久義氏と共著) | 昭和50年 | 三交社 |
山鹿士道による大石内蔵助とリーダーシップ | 昭和52年 | 赤穂義士会 |
赤穂浪士にみる人間関係』(昭和41年4月26日講演記録) | 昭和62年 | 赤穂義士会・平尾孤城先生を偲ぶ会 |
※なお、孤城の著書には書名は異なるが、内容が重複しているものが数点ある。 |
主要論文等 | 年代 | 所収誌等 |
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山鹿素行の聖人観(一) | 昭和11年 | 旧『義士魂』39号 |
山鹿素行の聖人観(二) | 昭和11年 | 旧『義士魂』41号 |
素行儒学の沿革(一) | 昭和11年 | 旧『義士魂』42号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(一) | 昭和11年 | 旧『義士魂』43号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(二) | 昭和11年 | 旧『義士魂』44号 |
素行儒学の沿革(二) | 昭和11年 | 旧『義士魂』44号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(三) | 昭和11年 | 旧『義士魂』45号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(四) | 昭和12年 | 旧『義士魂』46号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(五) | 昭和12年 | 旧『義士魂』47号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(六) | 昭和12年 | 旧『義士魂』48号 |
吉田松陰を繞る山鹿兵学家(七) | 昭和12年 | 旧『義士魂』49号 |
松竹映画「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(歴史考証) | 昭和29年 | 大曽根辰雄監督作品 |
「そば」と赤穂義士 | 昭和40年 | 『赤穂義士会報』1 |
※映画「忠臣蔵」は近年まで松竹から販売されていた(品切)。
【参考文献】小幡栄亮「平尾須美雄先生を悼む」(昭和42年、『赤穂義士会報』2)、『赤穂浪士にみる人間関係』(昭和41年4月26日講演記録・昭和62年、赤穂義士会・平尾孤城先生を偲ぶ会)、飯尾精『意外史忠臣蔵』(昭和57年、新人物往来社)
(020 2000/09/12)
(2001/9/21)
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