太宰治の作品 代表作



走れメロス 駈込み訴え 富嶽百景 ヴィヨンの妻 女生徒 桜 桃

 走れメロス 昭和15年(1940年) 新潮文庫『走れメロス』収載
 
  メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村
 の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは
 村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシクラスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六
 の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近な
 のである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々
 を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシクラ
 スの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみ
 である。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは
 当たりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不
 安になってきた。 

 
  ○今でも中学校の教科書に必ずと言ってよいほど載っている有名な作品です。私もそうですが、最初に読む太宰治の作品と
   言えるのではないでしょうか。太宰治の中期の明るい健康的な面を代表する作品で、亀井勝一郎氏は「この時期における
   太宰の会心の作」と絶賛しています。
   作品の終わりに「古伝説と、シルレルの詩から。」と出典を示していますが、太宰治は小栗孝則訳の『新編シラー詩抄』
   の中の『人質』をもとに書いたものとされています。
   この作品について太宰治は、「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、
   ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります。」と書いてます。
   なお「走れメロス」論は、良きに付け、悪きに付け、数え切れないほどあるようです。


 駈込み訴え 昭和15年(1940年) 新潮文庫『走れメロス』収載
 
  申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。
 生かして置けねえ。
  はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇です。はい、何もかも、すっ
 かり、全部申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して
 下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく
 生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄
 あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲笑されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられると
 ころ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇っ
 てあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているの
 だ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。あの人は傲慢だ。

 
  ○太宰治中期の名作と言われている作品です。聖書から題材を得て、キリストの弟子であるユダの告白といった形式になっ
   ています。私はこの作品を読んで深く感銘を受け、キリストに興味を持ったので、遠藤周作の「イエスキリストの生涯」
   「キリストの誕生」、三浦綾子の「新訳聖書入門」を読みました。聖書も買いましたが、読んでいません。(苦笑)
   また、美知子夫人によると、「蚕(かいこ)が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもしなかった。」(太宰治
   が口述したのを夫人が書き取った。口述筆記)ですから、まさに天才としか言いようがないですね。


 富嶽百景 昭和14年(1939年) 新潮文庫『走れメロス』収載
 
  富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図
 を作ってみると、東西は縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百七十度である。広重、文晁に限らず、たいての絵の富士は
 鋭角である、いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔
 のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十
 七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本
 の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらか
 じめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の
 うつろな心に、果して、どれだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である。

 
  ○美知子夫人との結婚後の第一作で、御坂峠の天下茶屋にこもった時期を描いた作品です。現在の天下茶屋は、当時の建物
   ではありませんが、太宰治記念室があり、当時使用した「机」や「火鉢」などを置いているそうです。
   これも名作として名高く、文中の「富士には、月見草がよく似合う」の一節はあまりにも有名で、今でも御坂峠の文学碑
   に刻まれています。
   遺書に「井伏さんは悪人です」と書いた太宰治ですが、やはり井伏鱒二なくして、中期以降の太宰治はありえず、例えば
   初期だけで終わっていたら、無名のままだったのではないでしょうか。


 ヴィヨンの妻 昭和22年(1947年) 新潮文庫『ヴィヨンの妻』収載
 
  あわただしく、玄関をあける音が聞こえて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっ
 ているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
  夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻き
 まわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、
 はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、
 「おかえりなさいまし、ごはんは、おすみですか?お戸棚に、おむすびがございますけど」
  と申しますと、
 「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。
  これも珍しい事でございました。坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、よそ
 の二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の
 山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩せ
 ているので、凄しくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。

 
  ○タイトルにある「ヴィヨン」は、フランスの詩人「フランソワ・ヴィヨン」です。フランス中世期の詩人で、パリ大学の
   の文学修士の資格まで得ながら、強盗、殺人、放浪などの生涯を送った人物です。
   『乞食学生』に、ヴィヨンの詩がいくつか使われていますので、太宰治はよく読んだのでしょう。
   この作品の評価は高く、太宰治の親友である亀井勝一郎氏は「とくに『ヴィヨンの妻』は晩年の短編中での傑作である。
   この作品の巧みさは、何よりもまず細部の描写にみられる。重要なのは細部だ。」としています。
   「おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。」という大谷の言葉、と「神がいるなら、
   出て来て下さい!」というさっちゃんの言葉。私は太宰治が最後には、神を信じたと思うのです。
   最期を供にした山崎富栄は、この作品の主人公から取って、太宰治からスタコラさっちゃんと呼ばれていたそうです。


 女生徒 昭和14年(1939年) 新潮文庫『走れメロス』収載
 
  あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突
 然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶし
 さ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れ
 から出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱
 をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつ
 をあけると、また、また、小さい箱があって、その小さな箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけ
 ていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽの
 あの感じ、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少し
 ずつ上澄が出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。

 
  ○太宰の愛読者である女性から送られてきた日記をもとにした作品で、この作品を含む短編集『女生徒』が第4回北村透谷
   賞の副賞に選ばれています。川端康成は「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運なのである」
   と誉めています。『燈籠』に続く、女性独白体で書かれており、この作品で太宰独自のスタイルを確立したと言われてい
   るととともに、太宰の作品の中でいくつかある他人の日記を素材にした初めての作品です。
   この作品に書かれた女心は、現代の女性にも十分共感出来るようです。60年前に書かれたのにすごいことですよね。
   私は、太宰治の次女で、現在は作家である津島祐子さんの『あの家』を読み、この作品を思い出しました。


 桜 桃 昭和23年(1948年) 新潮文庫『ヴィヨンの妻』収載
 
         われ、山にむかいて、目を挙ぐ。―詩編、第百二十一。

  子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供より
 も、その親の方が弱いのだ。少くとも、私の家庭に於いては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けら
 れ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせていないけれども、この親は、その家庭に於いて
 常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長
 男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女
 の趣きを呈しているのである。
  夏、家族全部三畳間に集り、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、
 「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留にあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品な
 お父さんと雖ども、汗が流れる」
  と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。

 
  ○毎年6月19日に行われている「桜桃忌」はこの作品からとったものです。
   「子供より親が大事、と思いたい。」という言葉は有名でが、私は、今年吉祥寺で行われた「太宰治の20世紀」展の中
   で、太宰治が園子さんを抱いて笑っている写真を見て、「子供より親が大事」っていうのは嘘なんだなぁと思いました。
   その写真は、それくらい嬉しそうな笑顔だったのです。
   この頃の作品には、『父』『家庭の幸福』など、家庭を否定する作品が目立ちますが、それを真に受けて、太宰治が家庭
   を否定していたと考えるのは短絡的ではないでしょうか。
   この作品にも良い言葉が、いくつもあります。私は「涙の谷」が好きです。うまいなぁと思います。


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