斜   陽


斜陽 原稿
大きいの


朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母様が、

「あ」
と幽かな叫び声をおあげになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母様は何事もなかったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、
お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを
小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母様の場合、決して誇張ではない。婦人雑
誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治がいつか、
お酒を飲みながら、姉の私に向かってこう言ったことがある。



○太宰治の『斜陽』(新潮:昭和22年(1947年)7月〜10月)の冒頭部分です。
 作家の山田詠美さんは小学生の時から『斜陽』などを読んで、夏休みの読書感想文を書いたそうです。また、中学生の頃に
 この冒頭部分を「あの箇所は何回も読んで、なんてエレガントなんだろう・・・・・・。大好きだった。」そうです。

 私も太宰治が好きで、新潮文庫の太宰治17冊はすべて読破し、その中でも『斜陽』は10回読みました。
 私は『斜陽』こそ、日本文学における最高傑作だと確信しています。

○あらすじ
 主な登場人物:かず子(主人公) お母さま(かず子の母) 直治(かず子の弟) 上原二郎(作家)

 戦争が終わった昭和20年12月、没落貴族になったかず子と母は生活をしていくことが困難になったため、叔父のすすめ
 により東京の西方町の家を売り払い、伊豆の山荘で暮らし始めます。かず子は一度結婚するもうまくいかず、母の面倒をみ
 ながら暮らしてきたのです。

 召集されて行方不明になっていた弟の直治が帰って来ましたが、家にはほとんどおらず、家のお金を持ちだして東京の上原
 の所へ行き、荒廃した生活を続けます。
 かず子は結婚していた頃、直治のすすめにより上原の小説を読み、当時麻薬中毒になっていた直治にお金を渡すため、上原
 に一度だけ会いに行き、「ひめごと」が出来ます。

 かず子は上原との「ひめごと」が忘れられず、上原に恋し、会いたい旨の手紙を上原に書きますが返事はありません。
 最後の貴族である母は結核のために死に、かず子は上原に会うために東京に行きますが、上原は以前会った時の面影はなく、
 別人になっていました。その夜かず子は上原と結ばれます。

 かず子が東京に行っている間に、民衆になりきれなかった直治は、上原を心の底では嫌いだったこと、上原の奥さんに恋し
 てた事を遺書にしたため、素面で「僕は、貴族です。」として自殺します。

 かず子はお腹に上原の子供を宿し、「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」とう最後の手紙を上
 原に「水のような気持ち」で書いたところで物語は終わっています。

○概 要
 戦争中から戦後にかけて、青森県北津軽郡金木村の生家に疎開してた太宰は、津島家の没落を目の当たりにし、
 「私の生家など、いまは『桜の園』です。あわれ深い日常です。」と井伏鱒二に、
 「『桜の園』を忘れることが出来ません。」と小田嶽夫に、
 「また東北へおいでのよりには、どうか足をのばして、津軽にお立ち寄りください。没落寸前の『桜の園』を、ごらんにい
 れます。」と貴司山治あてに手紙を書き送っています。

 これらの手紙からもわかる通り、太宰はロシアの没落地主階級を書いたチェホフの戯曲『桜の園』を非常に意識しており、
 また『斜陽』を書くに当たって、「傑作を書きます。大傑作を書きます。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の
 悲劇です。もう題名は決めてある。『斜陽』。斜めの陽。『斜陽』です。どうです、いい題名でしょう。」と並々ならない
 決意を出版社の編集者に対して語っています。
 『斜陽』がよく日本版『桜の園』と言われる所以でもあります。

 太宰は当初、『斜陽』を自分の生家を舞台に没落貴族の悲劇を書く予定だったようですが、自分が書くように勧めた太田静
 子の日記を読み、また太田静子の懐妊を知り、更には最後を共にした山崎富栄と出逢い、構想が大きく変わったようです。

 『斜陽』という題名は、太宰治の生家の一室の襖に書かれた漢詩の中に『斜陽』という文字があり、太宰が物心がついてか
 ら長年それを見て育った事を考えれば、その漢詩からとったと思われます。
 チェホフの『桜の園』の中で、娘が母に向かって「まるで夕方の太陽のように」とあり、また、太宰は『善蔵を思う』の中
 で「夕陽なくして、暁雲は生まれない。」と書いており、「夕陽」つまり『斜陽』は太宰にとって相当こだわりがあったも
 と考えられます。

 『斜陽』は発表されてからの文壇での評価が非常に高く、神西清は「稀にみる立派な形式をそなえた、コクのある作品」と
 絶賛し、奥野健男は「充分に使いなれた主題、技法によって築きあげられた最高峰」と賞賛するなど、多くの人から指示さ
 れました。

 文壇での評価も高かった事と、当時の世相とマッチしたこともあり、昭和22年に新潮社から出版された『斜陽』の単行本
 はベストセラーとなり、「斜陽族」という流行語も生まれ、太宰は『斜陽』により、一躍流行作家になりました。

斜陽館(太宰治生家)の斜陽の間
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襖の拡大写真 「斜陽」の文字がある。
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○解 説
 『斜陽』は、かず子のモデルとなった太田静子の日記を借りて書いた事は非常に有名な話ですが、同様に人の日記をもとに
 した作品としては『女生徒』『パンドラの匣』があります。
 日記をもとにした作品の他にも『女の決闘』『駈込み訴え』『走れメロス』『お伽草子』など、古典をもとにした作品もあ
 ります。こういった日記や古典をもとにした作品は原作をもとにしつつも、太宰の脚色により完全に「太宰文学」にしてお
 り成功を収めていますが、太宰が心酔した芥川龍之介が『鼻』『杜子春』『地獄変』など古典をもとにした傑作を残してい
 ますので、太宰は芥川の影響を受けていると考えられます。

 もっとも太田静子の日記は母が死ぬところで終わっているので、日記をもとにしたのは第一章から第五章まであり、第六章
 から第八章までは太田静子から太宰に宛てられた手紙がヒントになっている部分もありますが、ほとんどは太宰の創作によ
 るものです。

 かず子が上原にあてた手紙の差出人が「上原二郎様(私のチェホフ。マイ、チェホフ。M・C)」となっていますが、実際
 の太田静子から太宰にあてられた手紙に「太宰治様(私の作家。私のチェホフ。M・C)」とあり、引用したのは明白です
 が、『斜陽』では「M・C」を一通目、二通目の手紙では「マイ・チェホフ」三通目の手紙では「マイ・チャイルド」最後
 の手紙では「マイ・コメディアン」としているのは、太宰のユーモアを込めた繊細な技巧といえるでしょう。

 第三章に書かれている直治の手記「夕顔日誌」は太田静子の日記にはないものですが、「夕顔日誌」は太宰の『古典風』に
 出てくる美濃十郎の手帖に書かれたメモを連想させます。

 また、第二章の「機にかないて語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」という聖書の箴言は、太宰が山崎富栄
 に会った最初の頃、太宰が「聖書ではどんな言葉を覚えているか。」の問いに対して山崎富栄が答えたものの一つであり、
 第六章の「戦闘、開始。」は、山崎富栄の日記の「戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」から
 引用されており、彼女との出逢いが『斜陽』に大きく影響していると考えられます。

 かず子が母の死後、上京し上原と「チドリ」で再会する場面は、実際にあったことが織り交ぜられて書かれています。
 昭和22年にNHKで太宰の『春の枯葉』がラジオ・ドラマとして放送されるにあたり、稽古中に脚色演出だった伊馬春部
 が声優の巌金四郎を連れて太宰の行きつけの「千草」で太宰に会い、そこに太田静子も居合わせたのです。
 『斜陽』では、その夜かず子と上原は結ばれますが、現実は2月に伊豆で結ばれて子供が出来たので、太田静子は太宰に相
 談しに来たのです。
 しかし『斜陽』にあるように「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」とはやらなかったようです。

 当時、太宰は太田静子が懐妊した事を知り、また山崎富栄と出逢い、男女の関係を持つようになり、家庭において奥さんと
 気まずくなり(美知子夫人は、すべてを知っていたわけではありませんが)太宰は泥沼にはまり、追いつめられた心境であ
 ったことが『斜陽』をリアリティなものにしていると言えます。
 楽天的な明るい気持ちでは、この作品は書けるものではないでしょう。

 文体は『燈籠』から始まった、太宰が生涯もっとも得意とした「女性独白体」、いわゆる女性である主人公のかず子の独白
 により物語の全体を構成しています。
 また、これまでのいくつかの作品にも見られるような、かず子から上原あての手紙、あるいは直治の遺書を効果的に挿入す
 る事によって、太宰の英知すべてを結集させていると言えるのではないでしょうか。

 「登場人物である4人それぞれが太宰の分身であり、滅びの宴」とした評論家もいますが、私は違うと思います。

 『斜陽』の中の上原は、当時の太宰を連想させますが、上原がかず子に返事の手紙すら書かなかったのに対し、太宰は太田
 静子に何度も手紙を書いてますし、電報で呼び出して会ったり、実際の太宰は太田静子にずっと優しかったのです。
 太田静子に「証 太宰治子 この子は、私の、可愛い子で、いつでも父を誇って、すこやかに育つことを、念じている。
 昭和22年11月12日 太宰治」と認知状を書いており、太宰は太田静子との間に出来た子供に自分の「治」という一字
 を与えています。

 直治が、かず子にあてた手紙は、太宰治がパビナール中毒だった頃、知人にお金を借りるために書いた手紙を連想させると
 ともに、太宰治は「直治の遺書を書きながら、思わず引き入れられるような感じがした。」と語っていることから、直治に
 太宰治自身をだぶらせていたとは言えます。

 最後の貴族として死んだ母、民衆になりきれず自殺した直治、戦後の厳しい社会においては生きていけそうにない弱い人間
 として書かれている2人と比較すると、妻子ある上原への恋をどんな事があってもかなえようとするかず子は、まさに自分
 のために生き抜いて行くんだという強い決意を持った女性です。
 かず子の離婚の原因ともなった「ひめごと」を作った当時の上原への恋の成就、一つの大ロマンス、つまり恋愛小説だと思
 います。
 『斜陽』は、今もなお太宰の作品の中では『人間失格』の次に読まれている事を考えれば、私と同じように考える人は多い
 のではないでしょうか。

 『斜陽』こそ、今の若い女性に是非読んでいただきたい小説だと私は思っています。

 『斜陽』これに続く『人間失格』により、「太宰文学」は完成され「太宰治」は、死後50年経った今でも、多くのファン
 を魅了する作家として名を残すことになったのです。

○『斜陽』の中の名言
 太宰は「アフォリズム(警句)」「言葉」を作り出す天才だとよく言われ、作品の中にも数多く出てきます。太宰は初めに
 その「言葉」を思いつき、それを導き出すため、それにたどり着くために、小説を書いていると思えるくらいです。
 もし太宰が現在の世の中にいたとしたら、売れっ子のコピーライターになっていたのでは、とする人もいます。

 『富嶽百景』の「富士には、月見草がよく似合う。」、『桜桃』の「子供より親が大事、と思いたい。」は、一番有名なと
 ころでしょうか。同じく『桜桃』中の「涙の谷」、『家庭の幸福』の「曰く、家庭の幸福は諸悪の本。」、『千代女』の
 「炬燵は人間の眠り箱だ」、『女生徒』の「朝は、意地悪。」などなど、書いたらきりがないくらいです。

 もちろん『斜陽』の中でも見受けられる「名言」をいくつ書いておきます。

 第一章 「海は、こうしてお座敷に坐っていると、ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さに見えた。」

 第二章 「私たちの幸福の最後の残り火が輝いた頃」

 第三章 「不良とは、優しさのことではないかしら。」

 第四章 「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧く、私は、私の恋をしとげたいと思います。」

     「押しかけ愛人」

     「私の胸に幽かな淡い虹がかかって、」

 第六章 「死ぬ気で飲んでいるんだ。」

 第七章 「どこか一つ重大な欠陥のある草なのでしょう。」

     「貴族という自身の影法師」

     「僕は、素面で死ぬんです。」

 第八章 「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」

     「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」

     「いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。」


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