月 日 | 事 項 |
《正月》
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正上旬 |
☆原惣右衛門元辰、京へ上る[冷光附]。 |
正.9 |
☆原元辰・大高忠雄、京に着き大石良雄へ江戸の様子を報告する[武庸]。
☆上方衆会議[武庸]。
☆原元辰、大高忠雄宅に逗留す[武庸]。
☆奥田重盛・堀部武庸・(高田郡兵衛)の大高忠雄書状(12月27日付)、寺井玄溪方に届く[武庸]。 |
是頃 |
☆大石良雄、回状にて上方の同志を招集す[冷光附]。 |
正.10 |
☆上方衆対談。篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)、江戸へ下ることとなるも河村伝兵衛・潮田高教・中村正辰も下るため延引す[武庸]。 |
正.11 |
☆山科にて上方の同志が集まって談合す(山科会議)。浅野長廣の首尾を見届けるという方針に決定す[武庸]。 |
正.13 |
☆上方衆上京す[武庸]。 |
正.14 |
☆浅野家元御小姓萱野重実、摂津萱野郷の実家に於いて自刃す[冷光附]。
☆上方の同志(山科・伏見などに在住の者)、京紫野瑞光院の浅野長矩墓へ参詣す。その後、寺井玄溪宅にて会議。当秋までは討入を延引しないことを決す[武庸]。 |
正.15 |
☆上方衆会合。正月10日に延引していた江戸下向一決す[武庸]。
☆原元辰、高田郡兵衛・奥田重盛・堀部武庸へ新年の御慶を述べると共に上方衆の了簡に当惑している旨を報ず[武庸・義士流芳]。 |
正.16 |
☆原元辰、大坂へ下る[武庸]。 |
正.17 |
☆去年12月25日付の大石良雄書状(奥田重盛・堀部武庸・高田郡兵衛宛)、高田郡兵衛方まで到来す[武庸]。
☆去年12月25日付の大石良雄書状、堀部金丸の許へ届く[武庸]。
☆大高忠雄、高田郡兵衛・堀部武庸・奥田重盛へ新年の御慶を述べ且つ山科会議の様子を報じ、岡嶋常樹の優柔不断と小山良師の不了簡を非難する。また、高田・武庸に高田の病に不安を感じ、潮田高教・中村正辰の神文等を重ねて報ず[武庸]。
☆去年12月27日の(高田郡兵衛)・堀部武庸・奥田重盛の書状、京都に到来す[武庸]。
☆原元辰、大坂の借宅へ帰る[武庸]。 |
正.18 |
☆去年12月25日付の大石良雄書状、堀部武庸・奥田重盛の許へ到来す[武庸]。 |
正.20 |
☆片岡高房、去年12月27日の書状を拝見す[武庸]。 |
正.21 |
☆篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)、江戸下向[武庸]。 |
正.22 |
☆堀部武庸、潮田高教・中村正辰宛書状を高教方へ遣わす[武庸]。 |
正.24 |
☆原元辰、高田郡兵衛・堀部武庸・奥田重盛へ伊勢参宮を報じ、且つ高田の病状を訪ね、在関西同志の様子を報ず[武庸]。 |
正.25 |
☆未明、吉田兼亮、播州三木を出宅す[寺坂・冷光附]。
☆大石良雄、高田郡兵衛・堀部武庸・奥田重盛へ高田病気養生を勧め、且つ自重を促す(12月27日書状の返事)[武庸]。 |
是頃か |
☆奥田重盛・堀部武庸、武林隆重へ高田郡兵衛除列の一巻を渡す[武庸]。 |
正.26 |
☆吉田兼亮、大坂に到着し、原元辰と参会す[寺坂]。
☆吉田兼亮、伏見に到着。同所藤森法華寺に立ち寄り住職と対談す。その後、京都烏丸通りの綿屋善右衛門方へ到着す[寺坂]。
☆堀部武庸・奥田重盛、大石良雄へ浅野長廣の事を案ずるは殊に不満である旨を報ず(12月25日付書状の返書)[武庸]。
☆堀部武庸・奥田重盛、原元辰・中村正辰・大高忠雄へ大石良雄を見切り、江戸下向すべき事を督促す[武庸]。
☆堀部武庸、小山良師へ大石良雄の返書に対する不満を述べ、且つ吉良邸討入を主張す[武庸]。
☆堀部金丸、大石良雄へ江戸の様子を伝え、且つ高田郡兵衛変節憤慨の旨を報ず(12月25日付書状の返書)[武庸]。 |
正.27 |
☆12月17日付・正月17日付の大高忠雄書状、寺井玄溪方より奥田重盛の許に届き、重盛・堀部武庸拝見す[武庸]。 |
正.28 |
☆吉田兼亮、山科へ赴き大石良雄と対談す。晩に帰る。その後、大石良雄宅・小野寺秀和宅・小山源五左衛門借宅にて度々寄合す[寺坂・冷光附]。 |
正.晦 |
☆堀部武庸・奥田重盛、大高忠雄へ山科会議の結果を喜び、高田郡兵衛除列の詳細を伝え、且つ在関西の同志の様子を訪ねる[武庸]。 |
是月 |
☆堀部武庸、高山内匠に年来の交誼を謝し、大石良雄に吹聴したこと等を報ず[義士106]。
☆原元辰、伊勢参宮を行い本意を達するよう祈願す[武庸]。 |
是頃か |
☆吉田兼亮、大石良雄宅・小野寺秀和宅・小山源五右衛門宅にて対談。江戸下向前に大石良雄へ同志の心底の確認を求む[寺坂]。 |
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《2月》
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2.3 |
☆大高忠雄、高田郡兵衛・堀部武庸・奥田重盛に上方衆の意志の不確定を恥じ、且つ上方の様子を報ず[武庸]。 |
2.5 |
☆正月26日付堀部武庸・奥田重盛書状、原元辰・大高忠雄・潮田高教・中村正辰の許へ到来す[武庸]。 |
2.11 |
☆大石良雄より高田郡兵衛・堀部武庸・奥田重盛へ12月27日付書状の返書到来す[武庸]。
☆原元辰より高田郡兵衛・堀部武庸・奥田重盛へ12月27日付書状の返書到来す[武庸]。
☆2月3日付の大高忠雄書状、堀部武庸の許へ到来す[武庸]。 |
2.15 |
☆上方の同志、何れも上京す。円山寺中客座敷にて寄合あり[寺坂・冷光附]。 |
2.16 |
☆池田久右衛門(大石良雄)、堀部金丸・武庸・奥田重盛へ上方衆は自分に同心である旨を伝え、且つ高田郡兵衛除列による機密漏洩を心配する[武庸]。 |
2.17 |
☆吉田兼亮、京都北野天神に参詣し、神前へ詩歌を捧げる[寺坂]。 |
2.19 |
☆吉田兼亮、京紫野弾正町瑞光院の浅野長矩墓所に参詣す[寺坂・冷光附]。 |
2.20 |
☆綿屋善右衛門、門出の祝儀として吉田兼亮へ馳走す。貝賀友信・小野寺秀和・小山源五左衛門・原元辰相伴す。原は泊まりて兼亮と物語す[寺坂・冷光附]。 |
2.21 |
☆吉田兼亮・近松行重、京都出立。原元辰見送る[寺坂・冷光附]。
☆中村正辰・大高忠雄・潮田高教・原元辰、堀部武庸・奥田重盛へ山科会議の様子及び吉田兼亮・近松行重下向を伝え、高田郡兵衛除列に対する所見を述べる(正月26日付堀部武庸・奥田重盛書状の返書)[武庸]。 |
2.24 |
☆吉田兼亮・近松行重、伊勢山田菊屋太夫方へ着き、太夫同道にて伊勢神宮内宮へ参拝。神前にて復讐を祈願す[寺坂・冷光附]。 |
2.25 |
☆吉田兼亮・近松行重、伊勢山田出足。伊勢津に1泊す。また、水沼久太夫、知らせにより吉田兼亮の許を訪れるも了簡不審の儀ありて双方物別れす[寺坂・冷光附]。 |
2.26 |
☆朝、吉田兼亮・近松行重、津を出足[寺坂]。 |
是月 |
☆堀部武庸・奥田重盛、少数討入は不成功と見て自重を談ず[武庸]。 |
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《3月》
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3.朔 |
☆武林隆重・不破八左衛門(不破正種)、原元辰宅に着。終日対談す。不破は元辰宅に武林は矢頭教兼宅に止宿す[武庸]。 |
3.2 |
☆武林隆重、堀部武庸へ上方の様子に対し不満の意を伝える[武庸]。 |
3.4 |
☆原元辰、堀部武庸へ上方の決議は不満ではと案じる[武庸]。 |
3.5 |
☆吉田兼亮・近松行重、江戸芝松本町米屋忠太夫所へ着く[武庸・寺坂・冷光附]。 |
3.6 |
☆篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)、堀部武庸へ面談を申し入れる。武庸不在につきこの知らせは堀部金丸へもたらされる[武庸]。
☆暮、堀部武庸帰宅し篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)の書状を拝見す。武庸、すぐさま奥田重盛宅へ行き篠崎の許へ参る旨を談ず[武庸]。
☆吉田兼亮、この日より江戸在住の同志へ到着を知らせ、段々と在江戸同志と内談す[寺坂・冷光附]。 |
3.7 |
☆吉田兼亮、小田切土佐守・西山六郎兵衛・赤穂城開城代官石原新左衛門へ挨拶に赴く[寺坂]。
☆堀部武庸・奥田重盛、吉田兼亮・近松行重の旅宿を訪ねるも両人ともに赤穂城開城代官石原新左衛門へ挨拶に赴いたため行き違いとなったため、来訪せし事を言伝する[武庸]。 |
3.8 |
☆昼前、篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)、2月16日付大石良雄書状を持って奥田重盛方へ参る[武庸]。昼、篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)・奥田重盛・奥田行高、堀部武庸宅を来訪し堀部金丸・武庸へ池田久右衛門(大石良雄)口上として自重を促す[武庸]。 |
3.9 |
☆長江長左衛門(堀部武庸)・馬淵市郎右衛門(堀部金丸)・奥田重盛、池田久右衛門(大石良雄)へ久右衛門の胸中は理解し、高田郡兵衛離脱でも機密の漏洩する恐れなき旨を報ず(2月16日付書状の返書)[武庸]。
☆長江長左衛門(堀部武庸)・奥田重盛、原元辰・潮田高教・中村正辰・大高忠雄へ山科の考えに理解を示し、且つ高田郡兵衛除列による機密漏洩の心配無用を報ず(2月21日書状の返書)[武庸]。 |
3中旬 |
☆奥田重盛、深川八幡町へ宿替[武庸]。 |
3.18 |
☆村松隆圓(村松秀直)、浅野長廣屋敷へ用事のため参り、近々長廣の閉門御免の沙汰を聞く。隆圓、息村松高直をして堀部武庸・奥田重盛方へ知らせる。隆圓は篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)へ知らせる[武庸]。 |
3.22 |
☆巳後刻、江戸城黒書院に於いて出羽米沢城主上杉綱憲、参勤の御礼。銀100枚・綿200把を献上す[元禄年録]。 |
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《4月》
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4.2 |
☆昼過、上方より用事ありとて神崎則休、江戸着[武庸・寺坂・冷光附]。
☆原元辰、長江長左衛門(堀部武庸)・奥田重盛へ隠密に列を離れ、少数決起を提案す[武庸]。 |
4.3 |
☆神崎則休、篠崎太郎兵衛(吉田兼亮)・森清助(近松行重)・奥田重盛・長江長左衛門(堀部武庸)へ江戸到着を知らせ、打寄りて相談す。神崎は扇子売となり、下谷辺に借宅することを決め、「美作や善兵衛」と変名す[武庸]。 |
4.10 |
☆武林隆重、堀部武庸・奥田重盛へ3月決起延引と上方の様子等を伝える[武庸]。 |
4.12 |
☆千馬三郎兵衛光忠、浅野家再興のため浪人滝立仙とともに江戸へ下る。江戸の知人の浪人に良き手筋ありとて、40日ばかり逗留す[寺坂・冷光附]。 |
4.28 |
☆4月2日付原元辰書状、堀部武庸・奥田重盛の許へ到来す[武庸]。 |
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《5月》
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5.3 |
☆長江長左衛門(堀部武庸)・奥田重盛、原元辰へ少数結党決起を本望の至りと同意を示し、7月の下向を待つ旨を報ず(4月2日付け書状の返書)[武庸]。 |
5.17 |
☆脇屋新兵衛(大高忠雄)・原田斧右衛門(潮田高教)、堀部武庸・奥田重盛へ山科の様子を伝え、且つ大高忠雄と武林隆重との口論・中村正辰奥州白河下向を報ず[武庸]。 |
5.19 |
☆堀部武庸、早水満堯に大石良雄下向の斡旋を依頼する[義士111]。 |
5.20 |
☆原元辰、奥田重盛・長江長左衛門(堀部武庸)へ大石良雄の妻子離別・大石良金の容貌を伝え、且つ自身の有馬湯治を報ず[武庸]。 |
5.21 |
☆池田久右衛門(大石良雄)、堀部金丸・武庸・奥田重盛・奥田行高へ、決行期限過ぎたるも軽挙なきよう自重を促す[武庸]。 |
5.24 |
☆遠林寺祐海、浅野家再興運動のため江戸へ参る[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
5月頃 |
☆原元辰、病む[武庸]。 |
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《6月》
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6.12 |
☆千馬光忠、江戸出足。5月3日付長江長左衛門(堀部武庸)・奥田重盛書状を持参す[武庸]。
☆長江長左衛門(堀部武庸)、原元辰・潮田高教・中村正辰・大高忠雄・武林隆重へ10人でも決起可能と称し出府を促す[武庸]。
☆遠林寺祐海、江戸出立。朝、堀部武庸へ暇乞す。武庸、祐海へ6月12日付の書状を大高忠雄へ届けるよう依頼す[武庸]。
☆5月21日付大石良雄書状、吉田兼亮・近松行重より届けられる[武庸]。
☆5月17日付脇屋新兵衛(大高忠雄)・原田斧右衛門(潮田高教)書状、堀部武庸の許に到来す[武庸]。 |
6.15 |
☆長江長左衛門(堀部武庸)・馬淵一郎右衛門(堀部金丸)・奥田行高・奥田重盛、池田久右衛門(大石良雄)へ一同相談の結果、無断の決起はしないことを知らせる(5月21日付書状の返書)[武庸]。 |
6.18 |
☆堀部武庸、江戸発足。京へ向かう[義士143・義士144]。 |
6.22 |
☆美濃岩村城主丹羽和泉守氏音、家中騒動につき1万石に減封の上、本所浅野長矩上げ屋敷を拝領し、かの屋敷にて閉門を命ぜられる。また、騒動に関与した丹羽家中、死罪・追放・遠島となる[御徒方萬年記、元禄年録]。 |
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《7月》
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7.15 |
☆橋本平左衛門(18歳)、大坂新地遊女淡路屋はつと心中す[冷光附]。 |
7.18 |
☆長矩弟大学長廣、評定所呼出につき赤穂分家浅野長武同道にて赴くところ、若年寄加藤越中守明英邸に於いて明英より閉門御免の上、安藝の本家御預を申渡される(妻子も同道を許可される)。目付布施孫兵衛・多門伝八郎列座。長廣はそのまま浅野本家桜田向屋敷へ入る。長廣妻子は夜に広島藩桜田邸に入る[元禄年録、寺坂信行筆記、冷光3、冷光附、義士143、義士144、寛政]。
☆松平(浅野)綱長、老中阿部正武より家来1人の出頭を命ぜられ、明石吉太夫が赴いたところ長矩弟長廣の閉門御免を伝えられ、長廣御預を命ぜられる[寺坂信行筆記、冷光3]。
☆晩、長廣妻子、浅野本家桜田向屋敷へ移る。長廣家来は半分ほど参る[冷光附]。 |
7.22 |
☆浅野長廣の木挽町四丁目屋敷、召上げられる[冷光附]。
☆浅野長廣処分の知らせが京へもたらされる[義士143・義士144]。 |
7.25 |
☆上方より小野寺十内秀和・小山源五左衛門、吉田兼亮・近松行重の代わりとして江戸へ下るところ、浅野長廣安藝御預につき中止す[冷光附]。 |
7.27 |
☆吉田兼亮・近松行重、上方へ上ると称して芝松本町の寓居を引き払い、糀町六丁目喜右衛門店へ引っ越す。兼亮は田口一真、近松は一真甥田口三介と変名す[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
7.28 |
☆浅野長矩弟大学長廣、広島へ参る[寺坂信行筆記]。 |
7.29 |
☆浅野長廣とその妻子、江戸を出立する[冷光3、冷光附]。 |
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《8月》
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8.2 |
☆堀部武庸、京を出足す[義士143・義士144]。 |
8.6 |
☆元赤穂藩医師寺井玄溪、江戸への随行を願うも大石良雄に拒否される。大石、玄溪に今後の処置を書状にて依頼す[冷光附]。 |
8.10 |
☆堀部武庸、江戸着[義士143・義士144]。 |
8.12 |
☆潮田高教、江戸下向。堀部武庸も同道す、相談あり[冷光附]。その後、浅草川に遊川船2艘を用意して江戸同志対談す[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
8.13 |
☆長廣等、伏見着。同所より船にて大坂着[冷光3]。 |
8.15 |
☆上方に於いて長澤六郎右衛門、「了簡あり」として大石良雄へ判形切抜を求む。同時に倅幾右衛門の判形返却も求む[冷光附]。 |
8.17 |
☆江戸表聞合埒明一変につき潮田高教、堀部武庸上京す。潮田、吉田兼亮と相談の上、近松行重も同道す[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
8.21 |
☆長廣等、広島着、船御屋敷へ落着く[冷光3]。 |
是頃 |
☆広島より浅野長廣御迎の進藤八郎右衛門俊重(広島藩御山奉行・仮船奉行)、甥の進藤源四郎俊式に一味の企てを白状させる[冷光附]。 |
8.23 |
☆上方にて灰方藤兵衛、「除列之儀口上書」を進藤源四郎取次にて差出す[冷光附]。 |
8.25 |
☆上方より岡野包秀・武林隆重・毛利小平太元義、江戸着[寺坂信行筆記]。 |
是月 |
☆木村傳左衛門、一党から除列す[寺坂信行筆記]。このころ、同志たち、松本新五左衛門を嫌う[寺坂信行筆記]。 |
是月より9月頃まで |
☆大石良雄、大高源五忠雄・貝賀弥左衛門友信をして同志の神文を返せしむ(神文返し)[寺坂信行筆記]。 |
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《閏8月》
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G.7 |
☆大石良雄、貝賀弥左衛門友信・大高源五忠雄をして近在の同志へ浅野長廣の処分を伝え、血判を一旦返却せしむ(神文返し)。結果、田中権左衛門正方、池田久右衛門(大石良雄)判形受取の旨を書状にて申し越す[冷光附]。 |
G.8 |
☆進藤俊式、「存寄あり」とて手を離れる旨口上書にて申し越す[冷光附]。 |
G.9 |
☆乙部又兵衛(糟谷勘左衛門)・岡本次郎左衛門、「存寄あり」とて手を離れる旨口上書にて申し越す[冷光附]。 |
G.10 |
☆小山源五左衛門・同孫六、「存念あり」とて手を離れる旨口上書にて申し越す[冷光附]。 |
G.12 |
☆大石孫四郎、「思召之趣心底に心落不仕」とて大石良雄へ一味御断を口上書にて申し越す[冷光附]。☆山上安左衛門正重、「思召寄不承知」にて手を離れる旨を口上書にて申し越す[冷光附]。 |
G.15 |
☆多川九左衛門忠員、「存寄あり」とて一味御断口上書にて申し越す[冷光附]。 |
G.20 |
☆多藝太郎左衛門清具、「存寄あり」とて一味御断の旨を口上書にて池田久右衛門(大石良雄)へ申し越す[冷光附]。 |
G.22 |
☆進藤俊式、大石良雄の説得に応ぜず再度除列の旨を口上書にて申し越す[冷光附]。 |
G.24 |
☆平野半平、「同心せず」とて池田久右衛門(大石良雄)へ除列の儀を書状にて申し越す[冷光附]。 |
G.25 |
☆小山源五左衛門、「存寄相違」につき手を離れる旨を口上書にて申し越す[冷光附]。
☆岡野金右衛門包秀・武林唯七隆重・毛利小平太元義(切米取・新参衆・小姓上り・金奉行役)、江戸へ下る[冷光附]。 |
G.28 |
☆幸田与三左衛門正許「存寄あり」とて除列の儀を書状にて申し越す[冷光附]。 |
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《9月》
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9.朔 |
☆下野烏山藩主永井伊賀守直敬、3000石を加増され(計3万3000石)、播磨赤穂へ転封を命ぜられる[徳川6]。 |
9.2 |
☆吉田澤右衛門兼貞・間瀬孫九郎正辰・不破数右衛門正種・上方より江戸へ下る[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
9.5 |
☆近松貞六・田中代右衛門・田中序右衛門、連名にて「存寄あり」とて除列の旨を書状にて申し越す[冷光附]。☆乙部五左衛門(糟谷勘左衛門子五左衛門)、「存寄あり」とて除列の旨を池田主税(大石良金)へ書状にて申し越す[冷光附]。
☆小野百助(杉浦順右衛門)・新城宇右衛門(梶半左衛門)、連名にて「存寄あり」とて近松勘六行重へ除列の旨を書状にて申し越す[冷光附]。 |
9.7 |
☆千馬三郎兵衛光忠・中田理平次・間重治郎光興・矢頭右衛門七教兼、江戸着[寺坂信行筆記]。 |
9.9 |
☆下野烏山藩主永井直敬赤穂へ転封につき、福原刑部資倍・大田原頼母清勝に下野烏山の在番が命ぜられる[徳川6]。 |
9.17 |
☆井口忠兵衛、「存寄あり」とて手離れの旨を池田久右衛門(大石良雄)へ書状にて申し越す[冷光附]。 |
9.19 |
☆卯野武平(嶺善左衛門)、「存寄あり」とて除列の旨を池田久右衛門(大石良雄)へ書状にて申し越す[冷光附]。 |
9.20 |
☆木村岡右衛門貞行、江戸着[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
9.21 |
☆巳後刻、将軍綱吉、松平(柳澤)美濃守吉保邸へ御成。若年寄、諸大名転封につき城引渡目付等を命ず。赤穂城引渡目付は土屋山城守組使番馬場宮内尚恒・書院番斎藤左源太利紀[元禄年録]。
☆永井伊賀守 赤穂へ旧大石邸は家老篠原長兵衛の屋敷となる[新義6]。 |
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《10月》
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10.朔 |
☆佐伯小兵衛(佐々小左衛門)、「心落申さず」とて倅とともに除列の旨を書状にて申し越す[冷光附]。 |
10.3 |
☆中田理平次、一党より序列す[寺坂信行筆記]。 |
10.4 |
☆間瀬久太夫正明・大石主税良金・茅野和助常成・大石瀬左衛門信清・足軽矢野伊助、江戸着[寺坂信行筆記、冷光附]。小野寺十内秀和江戸着という[寺坂信行筆記]。 |
10.7 |
☆大石良雄、京都を発足す[冷光附]。 |
10.17 |
☆原惣右衛門元辰・貝賀弥左衛門友信・岡嶋八十右衛門常樹・間喜兵衛光延、江戸着[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
10.19 |
☆大石良雄家来瀬尾孫左衛門、江戸着[寺坂信行筆記、冷光附]。小野寺十内秀和、江戸着という[冷光附]。 |
10.21 |
☆吉田忠左衛門兼亮、冨森助右衛門正因・中村勘助正辰・瀬尾孫左衛門同道にて江戸を発ち、池上通平間村へ大石良雄の宿所を見聞す[寺坂信行筆記、冷光附]。
☆大石良雄鎌倉着の予定につき吉田兼亮、冨森正因・瀬尾(借主)を平間村に残して単身鎌倉へ赴く[冷光附]。 |
10.22 |
☆吉田忠左衛門兼亮、平間村同道の者を残して鎌倉へ参る。夕方、川崎に止宿宿す[寺坂信行筆記]。大石良雄一行(大石良雄・潮田高教・近松行重・早水満堯・菅谷政利・三村包常)、鎌倉雪の下着。同所にて吉田兼亮と対談す[冷光附]。 |
10.25 |
☆大石良雄一行、鎌倉雪の下発足。夕方川崎へ1宿す[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
10.26 |
☆大石良雄等(近松・潮田・三村次郎左衛門包常)、平間村へ落着。吉田兼亮は江戸へ帰る[寺坂信行筆記、冷光附]。大石良雄等、以後は後難を憚り浅野長矩後室瑶泉院とは不通となる[冷光附]。 |
10.晦 |
☆中村清右衛門・鈴田重八、江戸着[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
是頃 |
☆毎夜、吉田兼亮宅にて大石良雄等幹部、寄合す[寺坂信行筆記、冷光附]。
☆大石良雄、「十ヶ条の訓令」を出す[冷光附]。 |
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《11月》
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11.初より |
☆12.13夜迄、若き面々、吉良邸より上杉邸及び道筋等を探索す[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
11.2 |
☆中村清右衛門、「父母を捨て難し」とて除列の儀を池田久右衛門(大石良雄)・原元辰へ口上書を持って申し越す[冷光附]。
☆玉野平八(鈴田重八)、母難儀につき除列の儀を原元辰へ口上書にて申し越す[冷光附]。 |
11.5 |
☆大石良雄、寓居を江戸日本橋石町「小山屋」に移す[寺坂信行筆記、冷光附]。中村清右衛門、一党より序列す[寺坂信行筆記]。鈴田重八、一党から除列すという[寺坂信行筆記]。 |
11.7 |
☆田中貞四郎、「存寄あり」とて除列の儀を口上書にて申し越す[冷光附]。 |
その他除列 |
☆奥野将監・河村伝兵衛・渡部角兵衛・高久長右衛門・山羽理左衛門・前野新蔵・高谷儀左衛門・榎戸新助・近藤新五・松本新五左衛門・久下織右衛門・大塚藤兵衛・野瀬十左衛門・各務八右衛門・上嶋弥助・木村孫右衛門・井口半蔵・大田三郎左衛門・三輪喜兵衛・中田理平次・小山田庄左衛門・月岡治右衛門もそれぞれ口上にて除列す[冷光附]。 |
11.14 |
☆堀部武庸、養母「わか」(堀部金丸妻)へ遺書を認める[堀部武庸贈母氏書置]。 |
11.20 |
☆堀部武庸、実家の親類等溝口祐弥・上田宗貫・坂井又大夫・坂井九大夫・窪田兵左衛門・堀市郎左衛門・河村文大夫・河村忠右衛門・坂井惣大夫・石林十之助へ暇乞状を認める[義士143]。
☆堀部武庸、養父の親類である青地与五兵衛に暇乞状を認める[義士144]。
☆堀部武庸、肥後熊本藩士堀部甚之丞友政・堀部庄兵衛惟友・堀部三右衛門友貞・堀部重蔵知英・成田伊右衛門泰頼に暇乞す[堀部家史料]。 |
11.29 |
☆大石良雄、瑶泉院付落合勝信へ瑶泉院御機嫌伺とともに赤穂御預り金の使途を報ず[桂文書・冷光附]。また、浅野家関係書類を提出す[帳面書付之目録・預置候金銀請払帳]。 |
是月 |
☆酒寄作左衛門、一党より除列す[寺坂信行筆記]。小山田庄左衛門、一党から除列すという[寺坂信行筆記]。 |
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《12月》
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12.2 |
☆深川八幡前大茶屋にて同志頼母子講と称して集合。吉良邸討入につき相談す。夜終了[寺坂信行筆記、冷光附]。 |
12.6 |
☆堀部武庸、辻茂右衛門へ暇乞状を認める[義士160]。 |
12.8 |
☆田中貞四郎、一党より除列す[寺坂信行筆記]。毛利小平太、一党より除列すという[寺坂信行筆記]。 |
12.10 |
☆堀部武庸、堀部(忠見)文五郎言真に遺書を認め、遺品の分配を依頼する[義士170・堀部武庸贈従弟書置]。
☆堀部武庸、養母方伯父忠見扶右衛門政常(越前松平家家老本多長員家来)へ遺書を認める[堀部文書・義士171]。 |
12.10頃 |
☆脇屋新兵衛(大高忠雄)、山田宗偏より来る14日の吉良邸茶会の情報を知り、大石良雄等へ報告す[冷光附]。 |
12.11 |
☆毛利元義、この日付で脱退届を2通書く。1通は倉橋武幸・岡野包秀・横川宗俊・矢田助武宛、もう1通は大石良雄・長江長左衛門・武林隆重等宛[義士173・肥後藩堀部清兵衛寛家蔵古文書]。
☆堀部金丸、大石宗胤へ吉良邸茶会延引につき改定の期日を問う[義士174・大石家義士文書]。 |
12.12 |
☆大石良雄家来瀬尾孫左衛門・原元辰足軽矢野伊助、川崎在平間村より欠落す[寺坂信行筆記、冷光附]。
☆長江長左衛門(堀部武庸)、大石三平良宗胤へ大石信清の書状を送る[義士176・大石家義士文書]。
☆夜、堀部金丸、霊夢を見て「雪はれて思ひを遂るあした哉」の句を詠み、悦びて大石良雄等同志数人を呼びて酒を振舞う[江赤・冷光附]。 |
12.13 |
☆朝、堀部金丸、大石良雄等傍輩を集めて酒肴と出陣の膳を振舞う[冷光附]。 |
是頃 |
☆堀部金丸、「めうほ」へ遺書を認める[義士185]。 |
12.14 |
☆大石三平宗胤、吉良義央在宅を同志へ知らせる。また、大高忠雄も義央在宅を山田宗偏を訪ねて確認す[冷光附]。
☆堀部武庸、大石無人良総・三平宗胤へ吉良邸へ討入る事を報じ、且つ暇乞をする[義士184・大石家義士文書]。
☆堀部武庸、佐藤條右衛門一敞へ暇乞状を認める[義士185]。
☆堀部武庸、養母「わか」へ遺書を認める[穂義赤心]。
☆堀部金丸、堀部友政・堀部惟友・堀部友貞・堀部知英・成田泰頼・奥田平内に後事を託す[堀部家史料]。
☆堀部武庸宅に同志集まる[義士201]。
☆寅刻(15日午前4時頃)、大石良雄等四十七士、吉良邸に討入る[冨森正因筆記・義士201・寺坂私記、寺坂信行筆記]。 |
12.15 |
☆朝、四十七士吉良義央を討取る[冨森正因筆記・吉田兼亮覚書]。
☆引き揚げ途中、吉田兼亮・冨森正因、一党より離脱して大目付仙石伯耆守久尚の邸へ「浅野内匠家来口上」を持参して自訴に及ぶ[冨森正因筆記]。
☆四十七士、泉岳寺へ到着。浅野長矩の墓前へ報告す[白明話録]。
□肥後熊本城主(54万石)細川越中守綱利、江戸城へ登城したところ老中稲葉正通より大石良雄以下17名(大石良雄・吉田兼亮・原元辰・片岡高房・間瀬正明・小野寺秀和・間光延・礒貝正久・堀部金丸・近松行重・冨森正因・潮田高教・早水満堯・赤埴重賢・奥田重盛・矢田助武・大石信清)の御預を命ぜられる[細川、御徒方萬年記]。
■伊予松山城主(15万石)松平(久松)隠岐守定直、風邪にて登城せず。奉書を以て大石良金以下10名(大石良金・堀部武庸・中村正辰・菅谷政利・不破正種・千馬光忠・木村貞行・岡野包秀・貝賀友信・大高忠雄)の御預を命ぜられる。奉書は稲葉正通より御小人目付黒川小左衛門を以て届けられる[久松、御徒方萬年記]。
○長門長府藩主毛利甲斐守綱元(5万石)、四ツ半時に江戸城登城のところ、大広間に於いて岡嶋常樹以下10名(岡嶋常樹・吉田兼貞・武林隆重・倉橋武幸・間光風・村松秀直・杉野次房・勝田武堯・前原宗房・小野寺秀富)の御預を命ぜられる。長府藩士内藤角左衛門、江口源助をしてこの趣を藩邸の田代要人に伝えしむ[毛利、御徒方萬年記]。
●三河岡崎城主(5万石)水野監物忠之江戸城へ登城。間光興以下9名(間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗俊・三村包常・神崎則休)の御預を命ぜられる[水野、丕揚録、御徒方萬年記]。
●午中刻、水野家御使横山笹右衛門、江戸城より赤穂浪人請取・御預を命じた切紙を水野邸へ持参す。追って水野家家臣杉源助よりも知らせが参り、赤穂浪人8名を泉岳寺で、2名を大目付仙石久尚邸で請取よう命ぜられる[水野]。
■松平(久松)定直、赤穂浪人御預の奉書に対する請書を提出す。また、留守居三田村新兵衛をして稲葉正通・阿部正武・松平(柳沢)吉保・松平輝貞へ御請の旨を届ける[久松]。
○九半時、毛利綱元、江戸城より退出。内藤角左衛門をして老中秋元但馬守喬朝へ赤穂浪人御預下命の旨を届出る[毛利]。
●岡崎藩、赤穂浪人請取人数についての注進として矢谷次兵衛を江戸城へ遣わす[水野]。
□細川綱利、供に随行した藤崎作右衛門をして熊本藩上屋敷の三宅藤兵衛重経・御側之者へ赤穂浪人御預を伝え、且つ支度を命ず[細川]。
□細川綱利、下城して稲葉正通邸に御礼に参る。そのほか老中阿部正武・同土屋政直・同小笠原長重・同秋元喬朝・側用人松平(柳沢)吉保・同松平輝貞へは御留守居を遣わして御礼を述ぶ[細川]。
□熊本藩御留守居匂坂平兵衛、大目付仙石久尚邸へ参り、泉岳寺へ派遣する浪人請取人数等の指図を問い合わせる[細川]。
○昼、毛利本家萩藩松平(毛利)大膳大夫吉広の留守居粟屋三左衛門、長府藩上屋敷に遣わされて詰める[毛利]。
■未中刻、松平(久松)定直、御預人請取の人数として番頭奥平次郎太夫・波賀清太夫朝栄等を泉岳寺へ遣わす[久松]。
○江口源助、屋敷へ帰り、田代要人・時田権太夫へ赤穂浪人御預を報ず。これにより田代、請取人数を用意して昼九時、泉岳寺へ赴く[毛利]。
□赤穂浪人請取場所が泉岳寺から仙石久尚邸へ変更される[細川]。
●仙石久尚より岡崎藩請取の留守居山川九郎右衛門貞恒へ赤穂浪人請取は自邸へ変更の旨、指図あり。これによって馬役都築新五右衛門を以て請取の人々へ知らせる。泉岳寺と仙石邸に向かった請取人数、一旦帰る[水野]。
■申刻過、仙石久尚・鈴木源五右衛門・水野小左衛門より松山藩へ請取場所を泉岳寺から仙石邸へ変更の旨の手紙到来す。定直、請書を出す[久松]。
○八時、御小人目付西村作左衛門・伊藤喜兵衛・大目付仙石久尚・目付水野小左衛門・鈴木源五右衛門より長府藩へ切紙到来。浪人請取は仙石久尚邸に変更の旨を伝達す。長府藩、直ちに返書を認め内藤角左衛門持参す[毛利]。時田権太夫、田上五左衛門をして請取場所変更の旨を泉岳寺に赴いた田代要人へ伝えしむ。長府藩請取人数は仙石邸に移動す[毛利]。
●申刻、岡崎藩の請取人数、仙石邸へ向かう[水野]。
■松山藩、早使横尾半之丞を遣わして請取場所の変更を松山藩請取人数に知らせる。松山藩請取人数、仙石邸へ移動す[久松]。
☆御徒目付古川弥一右衛門・市川新八郎・松永小八郎、泉岳寺に居る赤穂浪人へ仙石久尚邸への移動を命ず[毛利]。
○長府藩金子六郎右衛門、請取人数仙石邸へ到着を仙石久尚用人に伝えたところ、請取は3番目と告げられる[毛利]。御徒目付より金子へ上杉家の軍勢襲来を覚悟するよう告げられたため、長府藩は請取人数を増やす[毛利]。
○暮、長府藩邸より仙石邸へ追加として揚桃燈24挺・箱桃燈10挺到着す[毛利]。
☆五半時、赤穂浪人、仙石邸へ到着す[毛利]。
□夜5ツ時、熊本藩は17名の赤穂浪人を請取る。収容屋敷は芝下屋敷、17人を櫛形之御座敷次之間・其次之間に分ける[細川]。熊本藩分家細川和泉守家来柴崎小右衛門、見送の使者として熊本藩の請取行列の後に随行す[細川]。
■亥下刻、松山藩、熊本藩の次に御預人を請取る。子刻前、愛宕上屋敷に到着、御預人を1人ずつ収容し、早速湯行水をさせる[久松]。松山藩家老遠山三郎左衛門・服部源左衛門、御預人と対面す。その後、二汁五菜の料理を出す[久松]。
□請取済の注進として熊本藩匂坂平兵衛、仙石久尚へ届け出る[細川]。
○仙石久尚・水野小左衛門・鈴木源五右衛門、長府藩の田代要人・原田将監を召して赤穂浪人10名の御預を命ず。長府藩、即刻請取る[毛利]。
●仙石久尚・目付鈴木源五右衛門・水野小左衛門、岡崎藩留守居を召し、赤穂浪人9名の御預を命ず。岡崎藩、赤穂浪人9名を請取る[水野]。
■松山藩留守居三田村新兵衛、稲葉正通へ御預人収容の旨を届ける。また、仙石久尚・鈴木源五右衛門・水野小左衛門へも同様の旨を届ける[久松]。
□仙石久尚より熊本藩へ御預人の道具を渡される。請取人熊本藩御徒頭安場一平久幸[細川]。
■仙石久尚より松山藩へ御預人の所持品を渡される。請取人は松山藩御者頭佐々木六右衛門[久松]。
○仙石久尚より長府藩へ御預人の大小を渡される。長府藩鵜飼半兵衛、請取って長持に入れる[毛利]。
●御徒目付より岡崎藩へ御預人の刀脇差・長道具を渡される。受取人は岡崎藩物頭水野主馬・横目津田儀右衛門[水野]。
○長府藩御預人、麻布上屋敷着。裏門より入る[毛利]。内藤角左衛門、御預人を5人宛に南北小屋に分ける[毛利]。北小屋案内役瀧左太夫・南小屋案内役倉垣勘兵衛が勤め、番人は毛利綱元嫡子右京大夫元倚(後の萩藩主毛利吉元)の衆が勤む[毛利]。
●子上刻、御預人9人、岡崎藩上屋敷へ到着。明長屋に収容される。着込・刀脇差は長持に入れられる[水野・丕揚録]。御預人へ使者として年寄役2名が遣わされ、御尋あり[水野]。横川宗俊は手傷のため、医師によって薬・膏薬が使用される[水野]。即刻、御預人へ料理が出される。但し神崎則休は養生のため酒も出る[水野・丕揚録]。
○八時、御小人目付安原助八・原左吾八・仙石久尚より長府藩へ御預人の道具を渡す由、申来る。これにより長井角兵衛、仙石邸へ参り、十文字槍5本・長刀1本を請取る[毛利]。
□熊本藩、芝下屋敷へ赤穂浪人収容を松平(柳沢)吉保・稲葉正通・仙石久尚へ届ける。使者匂坂平兵衛。目付水野小左衛門へは御小姓組雨森清太夫、鈴木源五右衛門へは坂新平を以て報ず[細川]。
□夜、細川綱利、松平(久松)定直・毛利綱元・水野忠之へ御預之儀につき書状を出す[細川]。
○長府藩内藤角左衛門、赤穂浪人御預を老中稲葉正通へ届ける。また、御預人無事請取につき同藩金子六郎右衛門、仙石久尚へ遣わされる[毛利]。
○御預人が脱ぎし衣類・着込等は長府藩武具方口羽庄右衛門が預かる[毛利]。長府藩、御預人へ軽き料理を出す[毛利]。
■松平(久松)定直、稲葉正通へ御預人待遇についての伺書を出す。稲葉、指示を出す[松平隠岐守御預一件・久松]。
●夜、岡崎藩、赤穂浪人請取を月番老中稲葉正通・御用番老中土屋相模守政直・大目付仙石久尚・目付水野小左衛門・鈴木源五右衛門へ届ける[水野]。
□細川綱利、芝下屋敷に泊まる。松平(柳沢)吉保・稲葉正通へは留守居を以て知らせる[細川]。 |
12.16 |
■今朝、松山藩三田村新兵衛、阿部正武の許へ赴き赤穂浪人請取の旨を報告す[久松]。
□細川綱利、松平(柳沢)吉保・稲葉正通・土屋政直の邸へ参り、赤穂浪人請取の旨を報告す。阿部正武・小笠原長重・秋元喬朝・松平輝貞へは熊本藩留守居堀七郎兵衛を遣わし、甲斐喜右衛門・藤掛信濃守・杉田五左衛門へは書状にてその旨を報ず[細川]。
○朝、長府藩、老中稲葉正通へ御預人の儀につき「窺覚」を提出す。稲葉用人岡田半右衛門を以て「了簡次第」との返答あり[毛利]。
○毛利綱元、赤穂浪人御預につき老中稲葉正通邸へ赴く[毛利]。
●朝、水野忠之、老中稲葉正通邸へ赴き、赤穂浪人御預を報告す[水野]。
□熊本藩堀部重蔵知英・成田伊(猪)右衛門泰頼、赤穂浪人堀部金丸の親類(大甥)につき遠慮を命ぜられる。匂坂平兵衛、この旨も幕府へ届ける[細川、堀部史−堀部氏系図、細川家家臣先祖附]]。
□熊本藩匂坂平兵衛、御預人の待遇等につき月番老中稲葉正通へ伺書を出す。稲葉、それについて指示す[細川]。
○昼八時、目付鈴木源五右衛門、御小人目付神田清助へ御預人の「歳付」を差し出すよう指示す。長府藩金子六郎右衛門、調えて神田へ渡す[毛利]。
■申刻、松山藩、御預人を松平家三田中屋敷(現東京都港区イタリア大使館一帯)へ移す。また、この旨を稲葉正通へ書状にて報ず[松平隠岐守御預一件・久松]。
■松平(久松)家使者三田村新兵衛、老中阿部正武へ御預について報告す[松平隠岐守御預一件・久松]。
■松平(久松)家、御預義士を三田中屋敷へ移した旨を老中稲葉正通へ報告す[久松]。
○長府藩、御預人収容小屋の係以外の者の出入を禁ず。また御預人に関する諸事を布令す[毛利]。
●晩、岡崎藩、使者をして側用人松平(柳沢)吉保・松平右京大夫輝貞へ赤穂浪人御預を届出る[水野]。
□夜、細川綱利、御預人17人と対面す[細川]。
■夜、松山藩、御預人より事件の概要を聞き始める[松平隠岐守御預一件]。
□細川綱利、芝下屋敷に泊まる[細川]。
●岡崎藩、赤穂浪人御預の諸事につき老中稲葉丹後守正通へ「伺書」を提出す。稲葉家用人を以て返答あり。また、御預任の「手負書付」も提出す[水野]。
●水野忠之、公儀御勤向の儀につき稲葉正通に「伺覚」を出す[水野]。 |
12.17 |
■松山藩、御預人へ小袖・布団を与え、且つ寒気のため火鉢・火箸の使用を許可し、行水風呂は好み次第に許可す[久松]。
■夜、松山藩士波賀朝栄、御預義士より事件の概要を聞き始める[聞書]。
●晩、岡崎藩留守居、稲葉正通用人に呼ばれ、水野忠之公儀御勤は差し障りなく勤めるようとの正通の指示を伝達す[水野]。 |
12.18 |
○長府藩御預人のうち病人ある(杉野次房→風邪・武林隆重→打身・前原宗房→気腫・岡嶋常樹→小瘡)につき、内藤角左衛門、御用番老中秋元喬朝の指示を伺った上で月番老中稲葉正通に届出る。また、大目付仙石久尚へも届出る。内療(内科)は菅玄理・外療(外科)は藤井良菴[毛利]。
☆熊本藩士成田泰頼・堀部知英、国元の堀部友政・友貞父子に「浅野内匠家来口上写」を添えて赤穂浪人討入並びに堀部金丸の様子を報ず[堀部史]。 |
12.19 |
☆熊本藩士堀部知英、堀部友政・友貞父子に赤穂浪人討入並びに世上の風説を報ず[堀部史]。 |
12.20 |
○長府藩御預の勝田武堯痞につき老中秋元喬朝・稲葉正通、大目付仙石久尚へ書付にて届ける[毛利]。
●未半刻、岡崎藩御預人9人、三田下屋敷へ遣わされる[水野・丕揚録]。 |
12.21 |
■松平(久松)定直、使者遠山三郎右衛門を御預人の許に遣わして対面希望なれど病気の旨と不自由あれば申し出るようにとの意を伝える。御預人、有り難く御請す[久松家赤穂御預人始末記]。
●水野忠之、初めて御預人9人と対面す。忠之より御預人へ懇意の儀あり[水野・丕揚録]。このとき神崎与五郎則休・茅野和助常成の詩作発句あり[丕揚録]。 |
12.22 |
☆堀部金丸・武庸の遺書、堀部言真の許へ届けられる[義士209]。
■松平(久松)定直、本丸奥向火之番御免[久松・松平隠岐守御預一件・波賀朝栄覚書]。
○長府藩御預の勝田武堯・杉野次房病気快癒につき老中秋元喬朝・稲葉正通へ書付にて届ける[毛利]。 |
12.23 |
■松平(久松)家御預の貝賀友信、指を病む[久松]。松平家御預人を5人宛、2小屋収容を目付より申し渡される[松平隠岐守御預一件]。 |
12.24 |
■松山藩、貝賀友信「指病之痞」につき治療を稲葉正通へ届け出る[久松・松平隠岐守御預一件]。
■松平(久松)家、御預人小屋を普請す[久松]。
●水野忠之、三田下屋敷へ赴き、御預人と対面す[水野・丕揚録]。 |
12.25 |
■松平(久松)家、御預人を5人宛、2小屋に収容す[久松・松平隠岐守御預一件]。 |
12.26 |
●江戸浅草東本願寺より出火。岡崎藩本所屋敷類焼す[丕揚録]。 |
12.29 |
○長府藩、去る15日赤穂浪人御預の節、仙石邸にて立会いし御徒目付10名に金200疋、御小人目付9名へ金子100疋、仙石より切紙を持参した御小人目付2名へ金子100疋、「歳付」提出の際の取次の御小人目付神田清助へ金子100疋を贈る[毛利]。
○毛利綱元、御預人と対面す[毛利]。 |
12.晦 |
○長府藩、毛利家御預の武林唯七隆重打身快癒につき金子六郎右衛門をして老中秋元喬朝・稲葉正通へ届ける[毛利]。 |
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