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赤穂事件関係年譜 7
【赤穂事件年譜 3】
−元禄16年癸未.1703−   天皇 東山天皇    将軍 徳川綱吉
更新 2004/12/6

《年譜》元禄16年壬午(1703)     □=細川家  ■=松平(久松)家  ○=毛利家  ●=水野家 の記事を示す
月 日事 項

《正月》

正.4 ■松平(久松)定直、御預人へ小袖各一重を与える[久松]。
正.5 ☆高山内匠、堀部金丸妻「わか」へ書状を認める[義士201]。
■辰刻、松平(久松)定直、三田中屋敷へ赴き御預義士10人を引見す。義士10人に言葉を賜る[久松・波賀朝栄覚書]。
正.8 ●岡崎藩、使者をして稲葉正通に茅野和助常成の頭痛と医者之薬を服用させた旨を報告す。また御用番老中小笠原佐渡守長重へも取次を以て申上げる[水野]。
正.10 ●老中稲葉正通より岡崎藩へ口上書到来。茅野常成・神崎則休は「医者之薬」を服用するよう指示あり[水野]。
正.12 □熊本藩堀内平八、堀部知英・成田泰頼の処分につき月番老中秋元喬朝へ伺う。秋元、御預人御仕置以後は勝手次第と返答す[細川]。
□熊本藩堀内平八、御預人の鋏・毛抜の使用を老中小笠原長重へ伺う。長重、危なくないようにとの条件付きで許可す[細川]。
●水野忠之、御預人9人と対面、各々へ挨拶す[水野・丕揚録]。また、忠之、赤穂浪人請取時の取持をした御徒目付10名に200疋宛・御小人目付9人に100疋宛を使者を以て贈る[水野]。
正.13 ●水野忠之、豊嶋七右衛門吉敦をして御預人9人へ檜重一重を御預人9人へ贈る。神崎則休歌并詩あり[丕揚録]。
正.14 ●岡崎藩、老中小笠原長重へ茅野常成の疾病快癒を報告す。また、老中稲葉正通へも取次を以て申し入れる[水野]。
正.15 ☆林加兵衛、高山内匠の書状を堀部金丸妻「わか」へ届ける[義士201]。
正.16 ☆堀部金丸妻「わか」、高山内匠に金丸父子の吉良邸討入と御預先を知らせる[義士201]。
正.22 □老中稲葉丹後守正通、熊本藩留守居を呼ぶ。熊本藩堀七郎兵衛赴いたところ御預人の親類書提出を命ぜられる[細川]。
□熊本藩宮村団之進、御預人へ親類書提出を伝達す[細川]。
■老中稲葉正通、松山藩留守居を呼ぶ。松山藩三浦七郎兵衛赴いたところ、御預人の親類書提出を命ぜられる[久松]。
○老中稲葉正通用人より長府藩へ呼出あり。内藤角左衛門稲葉邸へ赴いたところ、稲葉用人岡田半右衛門を以て御預人の親類書を提出するよう命じられる[毛利]。
●老中稲葉正通、岡崎藩留守居を呼び御預人の親類書提出を命ず。御預大名四家で日取りを相談し24日に提出する御請す[水野・丕揚録]。
正.24 □熊本藩堀内平八、老中稲葉正通へ御預人の「親類書」を提出するも奥書・判の上、提出するよう命ぜられる[細川]。
■松山藩三浦七郎兵衛、浪人の「親類書」を稲葉老中邸へ持参す。稲葉より祖父母・年号月日・書判の指示を受ける[久松]。
●岡崎藩、使者をして老中稲葉正通へ親類書を提出す。稲葉家用人、岡崎藩へ親類書の書式について指示の上、親類書を返却す[水野]。
正.25 ○長府藩、稲葉用人岡田半右衛門を通じて、老中稲葉正通に親類書を提出する[毛利]。
●水野忠之、豊嶋七右衛門吉敦をして御預人へ提重之菓子を贈る[水野]。
正.26 □熊本藩堀内平八、「親類書」再提出す[細川]。
■松山藩三浦七郎兵衛、再度御預浪人の「親類書」を提出す[久松]。
☆青地与五兵衛、堀部言真及び堀部金丸妻「わか」に書状を認める[義士209・義士210]。
□熊本藩、御預浪人17名を御楽屋之方の二間に移す[細川]。
□晩、稲葉正通の用人より熊本藩堀内平八の許へ手紙到来。御預人の子供の年齢の書付を提出するよう命ぜられる[細川]。
○稲葉用人より長府藩へ子供の年齢を書き出すようにとの命あり[毛利]。
●岡崎藩、使者をして老中稲葉正通へ親類書を再提出す[水野]。晩、稲葉家用人より岡崎藩へ手紙到来。御預人の子供の「年齢書付」の提出を命ぜられるにつき岡崎藩留守居持参す[水野]。
正.27 □熊本藩堀内平八、「子供之年齢書付」を提出す[細川]。
○長府藩金子六郎右衛門、「子供年齢書付」を提出す[毛利]。
正.29 □老中稲葉正通用人より熊本藩堀内平八へ手紙有り。「親類書」控帳の提出を命ぜられる[細川]。
□熊本藩堀内平八、「親類書控帳」を稲葉正通へ持参す[細川]。

《2月》

2.朔 □熊本藩世子細川内記、御預人と対面す[細川]。
2.2 □熊本藩分家細川采女・同主税(後の熊本藩主宣紀)、御預人と対面す[細川]。
2.3 ■稲葉正通、近々御預浪士切腹の内意を松山藩へ伝える[波賀朝栄覚書]。
2.4 《熊本藩 細川家》
□熊本藩へ御預人切腹と上使派遣を伝えた老中奉書(稲葉正通・秋元喬朝・小笠原長重・土屋政直・阿部正武の連署)が到来[細川、御徒方萬年記]。
□検使荒木十右衛門政羽・久永内記、熊本藩芝下屋敷に到着、熊本藩より料理が出るも両検使辞退す。徒目付以下に出される[細川]。
□熊本藩堀内平八、介錯人の儀につき伺うところ、家中より勤めるよう指示あり[細川]。
□9時分、熊本藩、御預人へ料理・茶を出し上使来臨を告げる[細川]。
□熊本藩御預人、囲之内にて上使より切腹を申し渡される[細川・堀部家史料]。
□6時分、泉岳寺、使僧梅岳を細川邸へ遣わし御預人遺骸引取の用意が調った旨を熊本藩平野九郎右衛門に知らせる[細川]。
□7時分より7半時、熊本藩御預人大石良雄以下17名、芝下屋敷大書院御間前庭にて切腹す[細川、御徒方萬年記]。
□切腹後、熊本藩より検使荒木・久永へ饂飩を出す。検使はその後退出[細川]。
□荒木政羽・久永内記、細川邸切腹を秋元喬朝へ復命す。松平(柳沢)吉保・阿部正武・土屋政直・稲葉正通・松平輝貞へは使者を遣わす。若年寄・大目付らへは使者にて報告す[細川]。
□熊本藩、水戸徳川綱條等諸家へ赤穂義士切腹を報ず[細川]。
□熊本藩にて切腹の赤穂浪人を芝泉岳寺へ葬る。担当熊本藩御小姓組伊藤喜兵衛。取置料として金子30両を泉岳寺に遣わす。挨拶は熊本藩関惣左衛門[細川]。
□熊本藩、伊藤喜兵衛をして茶湯料として金子50料を泉岳寺へ遣わす[細川]。
《松山藩 松平(久松)家》
■早天より松山藩御預人、水風呂・朝料理の後入湯して身を整える[波賀朝栄覚書]。
■巳中刻、老中秋元喬朝よりの御預人10名切腹の奉書、松山藩に到来す。松平(久松)定直、御請す[久松・波賀朝栄覚書]。
■松平(久松)定直、御裏付上下を着して三田中屋敷へ赴く[久松]。
■未刻過、幕府よりの切腹検使一行、松平邸に到着。松平(久松)定直、検使へ挨拶す[久松・波賀朝栄覚書]。
■切腹の検使(杉田五左衛門・駒木根長三郎)、御預人を大書院庭にて切腹させるよう指示す[久松]。
■座敷にて松山藩御預人に切腹が申し付けられる[久松]。
■大石良金、1番に切腹、その他の9人も切腹す。切腹後、検使の杉田・駒木根帰る[久松、御徒方萬年記]。
■松平(久松)定直、御預人切腹を老中・松平(柳沢)吉保・松平輝貞へ届ける。酉刻過、帰宅す[久松]。
■松平(久松)定直、使者三浦七郎兵衛を以て大目付仙石久尚へ御預人切腹を届ける[久松]。
■松山藩三浦七郎兵衛、御預人の死骸・遺品の処置を老中秋元喬朝へ伺う。泉岳寺へ遣わすよう指示あり。そのため、泉岳寺へ御歩行目付を付添えて遺品を泉岳寺へ送る[久松]。
■松山藩三浦七郎兵衛、御預人の遺骸を遣わす旨を泉岳寺へ届ける[久松]。
■松山藩三浦七郎兵衛、老中秋元喬朝に御預義士の遺骸を泉岳寺に葬送した旨を届ける[久松]。
■松山藩御預人の遺体、泉岳寺に葬られる[久松]。
《長府藩 毛利家》
○昼九時、江戸城より長府藩上屋敷へ切腹の検使として御目付鈴木次郎左衛門・御使番斎藤次左衛門利常が遣わされる旨の奉書到来。御徒衆角新右衛門・羽田平太夫奉書を持参す。長府藩金子六郎右衛門、玄関にて出迎える[毛利、御徒方萬年記]。
○毛利綱元、奉書に対する老中宛御請書を使者へ直に渡す[毛利]。
○八時、先達の御徒目付衆5人、長府藩上屋敷へ参る。いずれも大書院次之間へ通される。御小人目付衆7人は大広間上之縁通に通される[毛利]。
○長府藩、御使の衆を広間之次之間へ通す[毛利]。
○本家萩藩松平(毛利)吉広より志道丹宮・粟屋三左衛門が長府藩に詰める。また、乃美與右衛門・天野忠兵衛は足軽30人を連れて長府藩上屋敷門外を警護す[毛利]。
○切腹の検使鈴木次郎左衛門・斎藤利常、長府藩上屋敷へ到着。直に大書院へ通される。毛利綱元・元倚父子挨拶す[毛利]。長府藩、検使へ二汁五菜の料理を出すも断りにつき趣向餅・茶菓子・濃茶を出す[毛利]。
○長府藩原田将監、御目付衆到来を瀧左太夫(南小屋)・倉垣勘兵衛(北小屋)をして御預人に伝えしむ。御預人、行水し上下を着す[毛利]。
○長府藩御預人、大書院次之間へ通される。御目付衆、御預人を1人ずつ呼出す[毛利]。
○検使鈴木次郎左衛門、長府藩御預人に切腹を命ず。一同、御請して退出す[毛利]。
○長府藩、切腹の脇差の代わりに扇子を用意す。御目付衆に伺ったところ、小脇差にすべしとの指図あり[毛利]。
○長府藩御預人切腹す、七時過に終了す。御目付衆、長府藩田代要人・時田権太夫を召して本日の首尾を賞賛す。また、毛利綱元へも同様の旨を申す[毛利、御徒方萬年記]。
○長府藩、検使より御預人の死骸・道具の処分につき勝手次第との指図を受く[毛利]。
○御目付衆、帰る。毛利綱元は玄関の敷板まで出て見送る[毛利]。
○毛利綱元より介錯人へ慰労の言葉あり[毛利]。
○毛利綱元、早速に老中5人・松平(柳沢)吉保・松平輝貞を訪れ本日の首尾を報告す。内藤角左衛門御供す。また、本日の首尾を仙石久尚へ金子六郎右衛門、鈴木次郎左衛門へ粟屋八郎兵衛、斎藤利常へ阿曽沼新兵衛、鈴木源五右衛門へ沼田小左衛門を以て届ける。水野小左衛門は御役替により届けず[毛利]。
○長府藩、御預人10名の遺骸を送る旨椋梨源之進を以て泉岳寺へ申し入れる[毛利]。
○老中秋元喬朝家来大沼十郎左衛門・山本治部太夫より長府藩内藤角左衛門・金子六郎右衛門へ「同家中中堂又助、間光風の遺体引取」たき旨の切紙到来[毛利]。
○長府藩御預人9人の遺骸、泉岳寺へ葬送す(間光風の遺体は除く)。押として荻野角右衛門、手明足軽5人・桂彦左衛門、手明中間5人を引き連れる[毛利]。
○泉岳寺9世酬山長恩和尚、四十六士の引導す[毛利]。
○長府藩、泉岳寺へ布施として白銀20枚を贈る[毛利]。長府藩御預の9人は浅野長矩墓所の傍らに葬り、囲垣を設ける(間光風は親類引取り本願寺に葬れど酬山長恩和尚によってともに石碑が建てられる)[毛利]。
○長府藩、御預人の衣類・夜着・布団・刀脇差・着込・甲・鑓などを全て泉岳寺へ納める[毛利]。
《岡崎藩 水野家》
●巳下刻、江戸城より御小人目付奉書持参。目付久留十左衛門・御使番赤井平右衛門が検使として岡崎藩に遣わす旨を伝える。水野忠之、返書を御屯之間にて直に使者に渡す。これにより忠之、三田下屋敷へ赴く[水野]。
●未上刻、検使久留十左衛門・赤井平右衛門、三田下屋敷へ入来す。御徒目付衆5人・御小人目付6人・御使御小人目付6人附来る。水野忠之、玄関式台にて出迎える。岡崎藩留守居は門際て出迎[水野・丕揚録]。
●岡崎藩、御預人の年齢書付提出を命ぜられる。岡崎藩、御預人より改めて尋ねて書付を提出す[水野]。
●検使両人、使者之間に着座。御預人は麻上下を着せられて呼び出される[水野]。
●検使両人、岡崎藩御預人へ切腹を申し渡す。終わりて御預人、退出す[水野]。
●検使、岡崎藩へ介錯人つめその他切腹に関係する役人たちの名付を提出するよう指示す。岡崎藩は早速に書付にして提出す[水野]。御預人、切腹の支度す。切腹場所は使者之間の庭となる[水野]。
●岡崎藩御預人、入浴す[水野]。岡崎藩老臣、御預人へ「陪臣の切腹に公儀の検使が来るのは格別である」と言い聞かす[水野・丕揚録]。
●岡崎藩御預人、切腹。申中刻までに終わる。死骸は桶に入れられ、駕籠に乗せ番号札を附ける[水野、丕揚録、御徒方萬年記]。
●御預人の処刑済みて検使退出。本座にて水野忠之た対話す[水野]。まもなく検使帰る。この時介錯人其外手当順調に済みたるにつき褒美あり。忠之・岡崎藩老臣見送す[水野]。
●岡崎藩留守居、泉岳寺へ御預人の死骸送付を手紙にて告げる[水野]。
●岡崎藩、泉岳寺へ普請方・大工・足軽小頭を遣わして墓所の垣等の用意を命ず[水野]。
●戌中刻、泉岳寺より岡崎藩へ使僧を以て御預人の死骸を遣わすように申し越す。これにより岡崎藩、早速御預人の死骸を遣わす[水野]。
●泉岳寺にて岡崎藩御預人の引導の後、水野家の役人帰る。普請方等は残りて竹垣を結い、墓所へ水向の茶碗を備え付けてから帰る[水野]。
●岡崎藩、老中稲葉正通・土屋政直・秋元喬朝・阿部正武・小笠原長重、月番寺社奉行本多弾正少弼・目付久留十左衛門・御使番赤井平右衛門、側用人松平(柳沢)吉保・松平輝貞に御礼の進物をす[水野]。
☆吉良義周、改易の上、信濃高島城主諏訪安藝守忠虎に御預となる[久松]。
☆赤穂浪人の遺子、父の討入に連座して遠島を命ぜられる[久松]。
2.5 □細川綱利、葬料として金30両を泉岳寺へ贈る[水野]。
■松平(久松)定直、泉岳寺へ銀50枚を法事料として弟子萬達・軒悦へ金200疋宛遣わす[久松・水野]。
■松平(久松)家、御預義士の遺品を泉岳寺へ遣わす[久松・波賀朝栄覚書]。
☆出羽米沢城主上杉綱憲、遠慮を仰付けらる。綱憲嫡子民部大輔吉憲遠慮には及ばざる旨を申し渡される[久松]。
■松平(久松)定直、大目付仙石久尚・切腹検使等に慰労の品を贈る。また、御預人を介錯した者へは衣類・刀等血付のため金子を与える[久松]。
○朝、秋元家家臣中堂又助より間光風遺骸引取のため平川藤八、長府藩上屋敷に参る。長府藩、遺骸とともに光風の大小・鑓・着込・甲及び12月14日着用の物を添えて引渡す。遺骸は桶に入れて長府藩村上七郎右衛門・三戸與市左衛門これを渡す[毛利]。
●水野忠之、使者をして葬料銀20枚を泉岳寺へ贈る[水野・丕揚録]。
●岡崎藩、切腹人の刀脇差・衣類等を泉岳寺へ遣わす。岡崎藩目付浅井半右衛門持参[水野]。
●岡崎藩、昨日の御預人切腹の際の勤番者へ料理を遣す。褒美・拝領物あり[水野]。
2.6 ○長府藩、介錯の者5人へ金子1両宛を与える[毛利]。
2.7 ○長府藩、切腹検使の鈴木次郎左衛門・斎藤利常へ紗綾10巻宛・干鯛1折を贈る[毛利]。
○長府藩、御徒目付5人へ金子500疋、御小人目付7人・御使衆5人へ金子200疋宛を贈る[毛利]。
○長府藩、御奉書持参の御徒衆両人へ金子200疋宛贈る[毛利]。
☆萩藩、先に長府藩に遣わした足軽20人へ200疋宛、中間10名へ100疋宛を与える[毛利]。
2.17 ☆堀部金丸妻子(ワカ・きち)、町屋より江戸本所本多孫太郎長員邸長屋の忠見家へ移る[堀部史]。
2.20 □熊本藩堀部知英・成田泰頼、遠慮御免[細川]。
2.23 □細川綱利、2月4日の慰労として使者をして仙石久尚・水野小左衛門・鈴木源五右衛門・荒木政羽・久永内記・徒目付・御小人目付に進物を遣わす[細川]。

《3月》

3.5 ☆南都の高山弥右衛門、青地与五兵衛書状を堀部言真及び堀部金丸妻「わか」へ届ける[義士209・義士210]。
3.6 ☆堀部言真、青地与五兵衛へ堀部父子切腹を報ず[義士209]。
☆堀部金丸妻「わか」、青地与五兵衛へ金丸父子切腹及び金丸遺族の動静を報ず[義士210]。
3.14 ☆熊本藩士で在江戸の堀部知英より熊本堀部友政へ堀部金丸妻子の処遇(町屋より本多長員屋敷へ移り、更に4月上旬に丹羽長次後室凉臺院へ奉公予定)を報ず[堀部史]。
3.23 ☆熊本藩士堀部知英、国元の堀部友政へ堀部金丸妻子近日丹羽家(奥州二本松城主)へ引取の旨を報ず[堀部史]。
3.25 ☆上杉綱憲、遠慮御免[久松]。
是月 ☆熊本藩士堀部友政、「弥兵衛殿妻子御引取所書付」を熊本藩へ提出す[堀部史]。

《4月》

4.27 ☆間瀬定八(間瀬正明子)・吉田伝内(吉田兼亮子)・中村忠三郎(中村正辰子)・村松政右衛門(村松秀直子)、伊豆大島へ遠島[久松]。
4.10 ☆堀部金丸妻「わか」、「高島」と称して奥州二本松城主丹羽左京大夫長次後室凉臺院に奉公す[赤穂義士関係書類]。

《5月》

是月 ☆寺坂信行、羽田半左衛門・柘植六郎左衛門へ討入の次第を報告す[寺坂信行筆記]。

《6月》

《7月》

《8月》

《9月》

《10月》

10.17 ☆堀部金丸妻「高島」主人で奥州二本松城主丹羽長次後室凉臺院、丹羽家八丁堀倉邸に於いて没す(50歳)。法名「凉臺院殿日運賀公大姉」、墓所芝泉岳寺[丹羽家年譜]。

《11月》

11.18 ☆江戸四谷北伊賀町より出火。岡崎藩水野家三田屋敷(義士9人切腹邸)類焼す[丕揚録]。

《12月》

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